糸の手がかり
白い蝶が舞い去った後、千早は小梅と顔を見合わせた。
「縫司って、どんなところなの?」
「着物の仕立てや修繕をする部署です。女官様方が針仕事をなさって」
歩きながら小梅が案内する。
「縫司は同じ棟の奥でございます」
奥へ向かうと、かすかな布擦れと、一定の間で鳴る針山の音が耳に届く。薬司で聞いた灰を均す音や香の気配とはちがい、こちらは糸の往復に合わせて空気が静かに整っていく感じだ。
「失礼いたします」
小梅の声に、中から落ち着いた返事。
「どうぞ」
几帳をくぐると、そこは絹と麻の匂いに満ちた静謐な場だった。薄紫や淡紅の反物が棚に美しく積まれ、縫台には測り尺、小鋏、針山、糸切りがきちんと並ぶ。指先に集中した気配が、部屋全体をぴんと張らせている。
年長の女官が手を止めて振り返る。きちんと結い上げた髪に、薄桜の袿がよく似合う。
「桐壺様付きの命婦の朝霞にございます」
千早は膝をつき、深く頭を下げた。
「縫司の皆様にお伺いしたいことがございまして」
「なんなりと」
年長の女官は丁寧に身を正した。
「実は、淑景舎近くで起きました香の件で」
針を動かしていた女官たちが、ぴたりと手を止める。
「香の事件……?」
「香炉から変な煙が立ち上って、女房が倒れた件です。その時、灰に黒い糸のようなものが混じっていました」
年長の女官の眉がわずかに寄る。
「黒い糸でございますか」
「はい。最近、黒い糸を使った仕立て物はございませんでしたでしょうか?」
年長の女官は一瞬考え、隣の女官へ視線を送った。
「……ございました」
千早の背筋がのびる。
「どのような?」
「香袋の仕立てにございます。藤壺様のお側の小夜様からのご依頼でした」
(小夜さん……!)
来る前日に桐壺の近くで倒れた女房。被害者の側にいると思っていた人の名が、ここで出るとは。
「小夜様が、ご自分で?」
「はい。とても美しい糸でございました。『上質な香袋を作りたい』と」
別の女官が針を留め、振り返る。
「『これほどの糸は見たことがない』と喜んでおいでで」
胸の奥がざわつく。
「その糸は、まだございますか?」
「少し残っております。こちらに」
年長の女官が奥の棚から小さな糸玉を取り出した。
黒――なのに、光の角度で極薄の紫がのぞく。撚りは細く、光沢は水面みたいに滑らかだ。針目もきっと揃う、きれいな糸。
近づいた瞬間、鎖骨の痣がじり、と熱を帯びた。
(やっぱり、ただの糸じゃない)
術は使えなくても、これは分かる。糸そのものが、なにかを引き寄せている。
「……美しい糸ですね」
なるべく平静に言い、訊ねる。
「小夜様は、どちらでこれを?」
「存じません。『珍しい糸を手に入れた』とだけ」
年長の女官が首を振った。
「香袋の出来は見事でございました。小夜様もたいそうお喜びで、すぐに身に着けておられました」
(香袋を身に着けてから、小夜さんの様子が変わった?)
頭の中で、いくつかの駒が同じ方向へ並ぶ。
「その香袋は、今どちらに?」
「お持ちになったままで……」
千早はひと呼吸、深くうなずく。痣の疼きは、糸の近くにいるあいだじわじわ強くなる。
「貴重なお時間をありがとうございました。とても参考になりました」
深く頭を下げて立ち上がる。
部屋を辞し、回廊に出ると、小梅が心配そうに覗き込んだ。
「朝霞様、お顔が少し青いです」
「大丈夫。――でも、急がなきゃ」
振り返って縫司の方を見る。
「小夜さんに、直接話を聞こう」
言ったそばから、保管棚の黒糸がかすかに揺れた。風もないのに、糸玉がゆらり。棚の隙間に薄い影が滲む。
千早は気づかない。足を速め、飛香舎へ向かう。
春の陽が回廊を明るく照らすというのに、縫司の奥だけ、糸の影が濃い気がした。
***
飛香舎へ向かう途中、千早は歩幅を少し広げた。
(はー……今の糸、手触りは最高クラス。撚りも均一、通し蝋いらず。――なのに、痣が反応する)
内心、わくわくが止まらない。
(『観』ってやれば、何なのか分かるのに! だめだめ、今は命婦。我慢、我慢……!)
自分に言い聞かせてから、ひそかに口角が上がる。
(でも、根っこの呪は『糸』から。糸口は、ほんとに糸――ふふ、言葉って面白い。ああ、こういうの直継様に話したら絶対に呆れられる……でも聞いてほしい!)
軽口を胸の内だけで転がし、千早はさらに歩を速めた。