陰陽頭の憂慮
陰陽寮の執務室に、朝の光が斜めに差し込んでいた。直継は机上に広げられた文を読み返す。千早からの報告書。几帳面な筆致で記された一字一句に、眉がひそまる。
「淑景舎の香炉に異変……黒き糸片が灰に仕込まれていたか」
桐壺の女御――光子の居所である淑景舎は、帝の居住区である清涼殿から最も遠くにあり、渡殿をいくつも越えねばならない不便な場所だ。その不利を狙った仕掛けであることは明らかだった。
だが今は、飛香舎にて女房・桔梗が昏倒しているという報が先に届いている。直継は袖を翻し、立ち上がった。
***
まず直継は淑景舎を訪れた。香炉はすでに片づけられていたが、残る冷気がかすかに肌を撫で、異変の痕を物語っていた。
御簾の奥から、弱々しいが澄んだ声がかかる。
「……陰陽頭様」
直継は立ち止まり、深く頭を垂れた。
「桐壺の女御様にご挨拶申し上げます。お加減はいかがでございましょう」
しばしの沈黙ののち、光子が応える。
「ご心配には及びません。……新しく入った命婦が、よく気を配ってくれておりますから」
声は病の色を帯びていたが、どこか安らぎを含んでいた。直継はその響きの奥に、主が新参の命婦をすでに信頼していることを悟る。名を出されずとも、それが誰を指すか、察するのは難しくなかった。
「ご安心あれ。桐壺にて心安らかにお過ごしいただけるよう、陰陽寮を挙げて尽力いたします」
言葉を残し、直継は淑景舎を後にした。その足で飛香舎へと向かう。桔梗を襲う影を祓わねばならない。
***
飛香舎の回廊に足音が響く。御簾の陰から女房たちの囁きが洩れた。
「陰陽頭様……」「お美しい……」
「先日、帝と密会なさっていたとか」「密会ではございませんわ、政のお話よ」
「陰陽頭様は、帝からのご信頼も厚いものね」
藍と白の装束に整った容貌、帝からの信任も厚い若き陰陽頭。しかも未だ独り身――後宮に仕える女たちが憧れの眼差しを向けぬはずがなかった。
案内の侍女が恐縮しながら口を開く。
「桔梗様はうわ言がひどく……まるで何かに憑かれたようでございます」
直継は黙して桔梗の枕元へ進む。蒼白な顔に浅い呼吸。その周囲に、薄い影がゆらゆらと揺れていた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前――祓え!」
袖の奥で印を結び、九字の詠唱を響かせる。影は一歩退き、桔梗の呼吸も楽になった。しかし完全には消えず、燻るように残る。
直継は手の印を静かに解いた。
「根が深いな。表面だけの祓いでは限界がある」
侍女が震える声で問う。
「桔梗様は……治りますか?」
「一時の安らぎは得られましょう。だが、このままでは再び苦しむことになる」
直継の眼差しは厳しかった。
***
紫宸殿。玉座に座す帝の前で、直継は深く頭を下げた。
「淑景舎と飛香舎にて、異変を確認いたしました」
帝の容貌は、春の光を背にいっそう際立っていた。艶やかな黒髪に端正な面差し。若さゆえの柔らかさを残しつつも、眼差しには威厳が宿り、直継でさえ胸の奥に重みを覚える。
「香炉を媒に呪詛を仕込むとは……桐壺に狙いを定めてのことか」
帝は眉を寄せ、吐息を洩らした。
「淑景舎は清涼殿から最も遠い。光子をあのような不便な場所に……」
一呼吸置いて、帝は続ける。
「だが、藤壺の父は左大臣、梅壺の父は右大臣。彼らに口実を与えれば、後宮の争いは一層激しくなる」
その苦悩に、直継は静かに応じる。
「だからこそ、内密に進めねばなりません。呪の根を断たぬ限り、再び桐壺の女御様を蝕むことになりましょう」
帝は長く沈黙し、やがて強く頷いた。
「直継、光子だけは必ず守れ。お前に託す」
「仰せのままに」
直継は低く答え、退出した。
***
陰陽寮に戻ると、直継は和紙を蝶の形にして、霊力を注ぐ。紙片はふわりと舞い上がり、光を帯びて羽ばたいた。
「祓いは試みた。だが根は絶てない。呪詛の根が残る限り、祓っても無駄だ。元凶を探り出せ。縫司の縫台を調べろ。そこに糸口があるはずだ」
翅が小さく震え、言葉を受け止める。霊力を込め終えると、蝶は窓から飛び立った。
直継は手の印を静かに解いた。
一人残された執務室で、直継は千早の報告を再び手に取る。香炉の糸、桔梗への影響、藤壺との関連。
文末に添えられた和歌が目に留まった。
「風鈴の 音に隠れし 影ひとつ 夜半に踊りて 名を告ぐるは誰」
直継は低く呟く。
「……風鈴そのものは一年中ある。だが、歌に詠むのは夏だけだ」
季節外れの題材を、あえてこの時に選ぶ。そこに仕掛けが潜んでいるのかもしれない。
(この歌に隠された謎を、千早は果たして見抜くことができるだろうか。いや、彼女ならば…)
窓辺へ舞い上がった蝶を目で追いながら、直継は小さく祈るように口を開いた。
「千早……必ず掴んでくれ」