薬司の女官を訪ねて
朝の日差しが回廊の敷石をやわらかく照らしていた。
昨夜の冷気と痣の疼きを思い返しながら、千早は隣を歩く小梅に笑いかける。
「ねえ、小梅ちゃん。薬司の詰所って、この先の角だったよね?」
「はい。貞観殿にあります。千代様は朝から香の支度をなさいますので、今なら確実にいらっしゃるかと」
「よし、突撃~」
軽い調子に小梅が慌てる。
「っ、突撃は……! 相手は薬司の女官様です。礼をお忘れなく」
「分かってるって。なんとかなる、なんとかなる!」
布と香の匂いが混ざって漂う貞観殿の几帳前で、小梅が声をかけた。
「失礼いたします。桐壺様付きの朝霞命婦様がお見えです」
「まあ、命婦様が。どうぞ」
中から落ち着いた声が返る。二人で几帳をくぐると、灰盆のそばで薄刃を扱う年長の女官がいた。灰色の髪をきちんと結い上げ、薄紫の袿をまとった姿は清らかだ。
薬司に仕え、後宮の香を一手に担う千代である。
千早は膝をつき、深く頭を下げた。
「薬司の千代様でいらっしゃいますね。お時間をいただき、ありがとうございます」
顔を上げると、千代もまた丁寧に身を正した。
「命婦様がわざわざ。年長の身ではございますが、至らぬところもございます。どうぞお手柔らかに」
「とんでもございません。後宮の香に通じておられると伺い、ぜひご教授いただきたく参りました」
千代の目がやわらかく細められる。
「恐れ入ります。知る限りのことでしたら」
白い灰はきれいに均され、炭も整然と置かれている。
――仕事が行き届いている。
「香炉の準備についてお尋ねします」
「はい。まず灰をふるい、湿りを飛ばします。次に香木を選び、薄片に削り……」
千代は手を止めず、要点を簡潔に述べていく。千早は相槌を打ちながら、灰の細かさや炭の大きさを観察した。
「灰に、混ぜ物は?」
「いたしません」
「ですよね」
にっこり笑い、声を落とす。
「けれど、あの夜の香炉――灰の底に黒いものが混じっていたような」
千代の手が止まる。
「……黒い、もの?」
「糸か紙か。墨で染めた何か。取り違いかもしれませんが」
千代は記憶を辿ろうとした。だが、眉根が寄る。
「存じません。灰には――」
言葉が途切れ、沈黙が落ちた。
千早の鎖骨の痣がちくりと疼く。袖の内側だけ冷え、鳥肌が走った。
千代がこめかみを押さえた。
「失礼を……思い出そうとしているのですが……」
「大丈夫です」
千早は柔らかく答えた。ここで無理をさせるのはよくない。
「灰に混ぜ物はない。それを確認できれば十分です」
「ありがたく」
ほっと息の緩む気配。小梅が湯を運び、三人で一息ついた。
「ところで――香炉を運んだのは?」
千代が首を傾げ、言いかける。
「運び……」
だが目の焦点がふっと遠のいた。
「……申し訳ございません。名が、出てこないのです」
(証言ごと消されてる)
鎖骨が再び疼く。
「いえ、無理なさらずに」
千早は笑顔を保ったまま軽く首を振る。
「分かったことは三つ。灰に混ぜ物なし、手順は正道、運搬者の名だけが霞んでいる」
「……はい」
「なら、別の筋から当たりましょう」
千早の軽い言い方に、千代の緊張がわずかに和らいだ。
二人は礼を交わし、部屋を辞した。
回廊に出ると、影がひんやりと肌を撫でた。千早は小梅に向き直る。
「やっぱり変だよね。千代様、思い出しかけてたのに――全部霞んじゃった」
「はい……。まるで記憶そのものを抜かれたようで」
「そう。怪異の妨害だ。証言を消すなんて、手が込んでるなあ」
千早は人差し指を立てた。
「整理しよう、今わかったのは三つ!」
小梅が背筋を伸ばす。
「一つ。灰は正規品。でも異物が混じっていた可能性あり」
「二つ。その異物について、千代様は思い出せない」
「三つ。香炉を運んだ人物の名も同じく思い出せない」
「……つまり、怪異が狙って消しているのは自分に繋がる記憶ですか?」
「正解! さすが小梅ちゃん」
ぱちんと手を叩いたその時、ふわりと光が舞った。白い蝶が回廊に降りてきて、紙片のような翅を光らせながら千早の前に止まる。
「ち、蝶……?」
小梅が驚いて後ずさる。
「大丈夫。直継様の式だよ」
千早が手を差し出すと、蝶はそこにとまり、翅が小さく震えた。そこから、低く落ち着いた声が響く。
『祓いは試みた。だが根は絶てない』
小梅が息を呑む。
『呪詛の根が残る限り、祓っても無駄だ。元凶を探り出せ』
翅がもう一度震え、最後の言葉を告げる。
『縫司の縫台を調べろ。そこに糸口があるはずだ』
「……縫司?」
千早は目を丸くした。
「何のこと?」
小梅が静かに答える。
「着物の仕立てや修繕を司る部署です。縫台もそこに含まれます」
「ほうほう!」
千早の瞳が輝いた。好奇心がくすぐられている。
「はぁ、それにしても相変わらず、素晴らしい術式。それに良い声だったぁ」
「……声にときめいている場合ですか」
小梅が呆れ気味に小声で返す。
「よし決まり! じゃあ、次の現場は縫司だね」
千早は袖を翻し、軽やかに歩き出す。
小梅も慌てて後を追った。
18:00にもう1話投稿します。