病床に沈む声
朱塗りの回廊を、千早は小梅と並んで歩いていた。
先ほどまでの華やかな賑わいは嘘のように消え、どこかひんやりとした空気が漂う。耳を澄まさなければ聞こえないほど、女房たちの足音さえ控えめに響いていた。この静けさが、かえって千早の心をざわつかせる。
『桔梗はもう元気になった』
安心したように告げられた口調。だから今日のお見舞いは、軽い挨拶程度で済むと思っていたのだ。
「朝霞さま、こちらです」
小梅が示したのは、飛香舎の奥まった一角。幾重にも張られた几帳が、日光を遮り、部屋の中は薄暗かった。薬草の匂いが鼻をつく。その奥からは、ひそひそとした話し声が漏れ聞こえてくる。
「ああ、朝霞命婦様。お見舞いくださるのですか」
廊下に控えていた侍女が、千早たちの姿に気づいて振り返った。その顔は憔悴しきっている。
「はい。藤壺様から、もうお元気になられたと伺ったのですが」
千早がそう告げると、侍女の表情が途端に曇った。
「それが……まだ臥せっておりまして。熱は下がったのですが、うわ言を……時々、恐ろしいことを口になさるので、私たちもどうしていいか分からず……」
千早と小梅は顔を見合わせた。千早は内心で舌打ちする。藤壺の言葉とは食い違う。やはり、何かを隠している?
「少しの間でしたら、お目にかかれるかと。どうぞ」
侍女に案内され部屋に入る。几帳の向こうからは、侍女たちの声がさらに鮮明になった。
「熱は下がったのに、うわ言がひどくて」
「時々、恐ろしいことを口になさいます」
「まるで、何か悪いものに憑かれたみたい……」
「お口を慎んで! そんなこと、藤壺様にお聞きになれば……」
千早は胸騒ぎを覚えながら、几帳の隙間から中を覗き込んだ。
桔梗は横になったままだ。顔色は蒼白で、唇は乾ききっている。そのまわりに、薄い影がゆらゆらと揺らいでいるのが見えた。それはまるで、枯れた蔦が体を蝕むように、ゆっくりと桔梗に絡みついている。
「桔梗さん」
呼びかけると、彼女は薄く目を開けた。焦点が合うまでしばらくかかり、掠れた声がもれる。
「……朝霞様……? なぜ、こちらに……」
「お見舞いに参りました。藤壺様から、もうお元気だと伺って」
千早がそう告げると、桔梗の表情は一変した。愕然とした顔で身を起こそうとし、ふらりと揺れる。千早は慌ててその肩を支えた。
「無理なさらないでください!」
「藤壺様が……元気だと……? いいえ、わたしはまだ……そうですか、私はもう、必要とされていないのですね……」
桔梗の目に涙が滲む。千早は慰めの言葉を探したが見つからない。
「きっと、藤壺様はご心配をおかけしたくなくて、そうおっしゃったのでは」
小梅が必死に言葉をかける。しかし、桔梗は首を横に振った。
「いえ……わたし、あの夜のことを……誰かにお話ししないと、胸が苦しくて」
千早の耳がぴんと立った。ようやく核心に近づける。
「あの夜のこと……香炉の件ですね?」
桔梗は頷いた。
「はい。なぜあの時刻に、桐壺様のところに伺ったのか。実は……」
桔梗が震える声で言いかけた、その瞬間だった。
部屋の空気がひやりと冷えた。春の陽気の中に、凍えるような冷気が差し込んだのだ。千早の背中にぞくりと鳥肌が立つ。
鎖骨の痣が、ずきりと強く疼いた。
(怪異の気配……! それも、さっきよりもはるかに強い!)
桔梗が突然こめかみを押さえた。顔色はみるみる青ざめ、息が荒くなる。瞳は何か見えないものを追うように泳ぎ、恐怖に震えていた。
「あ、だめ……言っちゃ……あ、あぁぁぁ!」
女房たちが悲鳴を上げ、慌てて駆け寄る。千早は反射的に袖の奥で指を動かし、術の印を結びかけた。
(この冷気は、彼女の口から言葉を出させまいとしている! この影を「観」で詳しく見て、すぐに「縛」で動きを止め、それから「祓」で祓えれば!)
だが、その手を途中で止める。
(いけない、今術を使ったら……!)
喉元まで出かかった短詞を飲み込み、千早は唇を噛みしめた。陰陽師としての本能が「祓え」と叫んでいる。しかし任務は「朝霞」として潜入すること。ここで正体がバレては、すべてが台無しになる。
「お医者様を! 早く!」
駆けつけた医師が、きっぱりした声で指示を出す。
「これ以上は危険です。皆さま、お下がりを」
千早は深く頭を下げ、部屋を出た。
廊下に出て、張りつめた空気から解放され、大きく息をつく。小梅も壁に手をついて、まだ青ざめていた。
「まるで、何かに取り憑かれているみたいでした……」
小梅の呟きに、千早は慎重に言葉を選んだ。
「……心労にしては、様子がおかしいね」
鎖骨の疼きは、まだ僅かに残っていた。
(あの夜の真相を桔梗が語ろうとした、その瞬間に……!)
術を使えないもどかしさが、千早の心を苛む。しかし、千早はすぐに頭を切り替えた。直接聞けないなら、別の糸口を探すしかない。
「小梅ちゃん、香炉の準備って、普通はどなたがなさるの?」
小梅は首を傾げた。
「香炉でございますか? 通常でしたら、薬司の女官が。薬草を調合して薫物を作ったり、香炉の管理もなさっているので」
「薬司……」
千早の目が輝いた。
「薬司の方にお話を伺えば、香炉がどのように用意されたか、きっと分かるかもしれません」
小梅が教えてくれる。
「薬司の女官……ぜひお話を伺いたい」
夕日が回廊を赤く染め、長い影を伸ばしていた。桔梗の部屋の方からは、まだ慌ただしい声が聞こえてくる。
千早は袖の中で指を軽く結び、すぐに解いた。
(今は我慢。でも、やるべきことはもう決まっている)
(まずは直継様に、文で知らせよう。それに薬司の女官の話も聞けば、きっと役に立つはず)
千早は足取りを強め、夕日に向かって歩き出した。
「よーし、やることが増えた!」
どこか楽しげなその声に、小梅は呆然とした顔で見つめる。千早は振り返り、悪戯っぽく笑った。
「潜入任務といっても、ただ手をこまねいているだけじゃ、面白くないでしょう?」
本日の更新ですが、9時10分に予約投稿したつもりが設定できておらず、大幅に遅れてしまいました。
お待ちいただいた方には申し訳ありません。以後、気をつけます。