藤壺との初対面
「作法、間違えませんように…」
小梅に連れられて歩く廊下は、桐壺よりもひときわ華やかだった。薫物の香りが濃く漂い、調度の一つ一つに金糸が織り込まれている。飛香舎と呼ばれるこの御殿は、後宮でも指折りの格式を誇る場所だった。
控えている女房たちの衣は、桜や藤を思わせる鮮やかな重ね。袖口に金糸が光り、立ち居振る舞いは舞の一場面のように整っている。
(大丈夫。怪異の裂け目より、たぶん怖くない)
御簾の前まで進むと、案内役の女房が深く頭を下げる。
「桐壺の女御様の新しい命婦、朝霞命婦にございます」
わずかな沈黙。
御簾の奥から、柔らかい声が降りてくる。
「桐壺の女御様の新しい命婦と伺いました。どうぞお近くへ」
千早は膝をつき、畳に手をついて頭を下げた。御簾越しに見える影は、しなやかに身を傾ける。それだけで、漂う気品が伝わってくる。
「朝霞と申します。このたび、桐壺の女御様にお仕えすることとなり――」
「まあ、ご丁寧に。わたくしは藤壺と申しますわ。楽になさってくださいませ」
声音は親しげで、初対面の緊張をふっとほどいてくれるようだった。千早は素直に肩の力を抜く。
(優しい声の人だ……よかった)
「桐壺様はご体調が優れないとか。さぞご心細いことでしょう」
千早はぱっと顔を上げそうになって、慌てて目線を戻した。
「光子様は、体調がすぐれない日もありますけど、よくお笑いになります」
言葉が滑り出る。
「わたし、そのご様子に毎日助けられてます」
御簾の向こうで、ほんの一拍の間が生まれた。
パサリ、と御簾の内側で扇が開かれる音がする。
「ま……まあ。お優しいお方ですものね」
「けれど、優しすぎますと、何も決められず周りに頼ってしまわれることもございますでしょう?」
周囲の女房たちが、さっと互いに視線を交わした。千早は違和感を覚える。
(あれ?なんか変な空気?)
「おいたわしいこと」
「ご苦労がおありでしょうね」
短い相づちが続く。千早は首をこてんと傾げた。
「頼っていただけるの、好きです」
言い切ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
「……あ、無理のない範囲で、ですけど」
御簾の奥が、今度は二拍ぶん静かになる。
「ふふ。朝霞は、お心をそのまま言葉になさるのね。……朝顔のよう。清らかで、珍しい方ね」
藤壺の声が、わずかに調子を変えた。
千早は首を傾げる。
「桐壺様のこと、どうぞ支えて差し上げてね」
「はい!」
千早は、つい嬉しくなって続けた。
「御簾越しでも、声があったかいんです」
女房たちの視線が少し冷たくなるのを、千早はぼんやりと感じた。でも理由が分からない。
「ところで」藤壺の声が、話題を変えるように響いた。
「桔梗はもう元気になりましたけれど、あの夜はご心配をおかけしましたでしょうね」
千早はぱっと顔を明るくした。
「はい、でも元気になってよかったです。あの、どうして夜半にお使いを?あの時刻に、わざわざ?」
「あら?桔梗が夜半にお使いを?」
藤壺は、少し驚いたように声を上げる。
「そのようなことがございましたの?わたくし、存じませんでしたわ」
「桔梗は健気な子ですから、きっと、気の毒な桐壺様を案じて、自分で何か考えたのでしょうね」
御簾の外の女房が、すぐに合いの手を入れる。
「夜更けまでお心を砕かれて」
「お気の毒なことでございますね」
同情めいた響きに、うっすらと優越の色が混ざった。
が、千早は首をこてんと傾げる。
「えっ、でも桔梗さん、藤壺様からのご伝言って言ってたみたいですが…?」
さらりと言って、ぱっと顔を明るくした。
「今度、どんなご用事だったのか、桔梗さんにも聞いてみたいです!」
御簾の向こうで、また一拍の沈黙。
からん、と渡り廊下の風鈴が鳴った。
「……そうね。当人にお聞きなさい」
藤壺の声は相変わらず穏やか。
けれど、その穏やかさの中に、ごく小さな軋みが混じったのを千早は感じた。
(桔梗さんの勘違いだったのかな?でも、『藤壺様から』って聞いたけど…)
千早は自分の膝を正し直そうとした。緊張で裾を踏んで、姿勢がぐらりと崩れる。
「あっ」
慌てて袖を直すと、袖口から手首がちょこんとのぞいた。周囲の女房たちの視線が集まる。
「まあ」
「愛らしいこと。田舎のお作法も趣がございますわ」
千早はにこっと笑って、袖をそっとたたんだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、頑張れます」
笑顔で返され、女房たちは一瞬言葉に詰まる。狙いを外した扇が、空を切ったようだった。
(あ、いまの返し、変だったかな)
千早は内心で肩をすくめる。
けれど、すぐに気持ちを整えた。
(大丈夫。次は、もうちょっと優雅にやる)
藤壺が、穏やかに締める。
「それでは、今日はこのあたりで」
「はい。お目通り、ありがとうございました」
千早は深く頭を下げ、下がった。
廊下に出ると、風鈴の音がまたひとつ。
小梅はしばらく黙って歩いたが、やがて息を吐く。
「……朝霞さまって」
「お見事、というのでしょうか。わたしには、真似ができそうにありません」
小梅がぽつりと言う。
「えっ。なんで?」
「なぜか、ですね。でも、合っている気がしてきました」
小梅は、ふっと笑った。
二人の足取りは、来た時より少しだけ軽い。
飛香舎の屋根が夕映えにきらめく。その眩しさを見上げながら、千早は心の中で決めた。
(まずは、話を聞こう。順番に、丁寧に)
(それが一番、早いはず)