香炉の怪
「それでは改めて、後宮の様子をお話しましょう」
光子の声は穏やかだが、どこか疲労を帯びていた。千早は背筋を伸ばし、御簾の奥に耳を澄ます。
「現在、中宮の座は空いております。そのため、わたしたち女御の間には……複雑な関係があるのです」
御簾越しの影がわずかに揺れる。
「梨壺の女御は帝の幼馴染で、年長者として皆から慕われています。梅壺の女御は右大臣の娘で気が強く、藤壺の女御は左大臣の娘で、とても聡明な方です」
さらりと述べられる説明に、千早は唸った。
(うわぁ、単なる女同士の争いだけじゃなくて、背後の父親たちの派閥争いごと、ここに持ち込まれているのか~)
「朝霞には、わたしの側に仕える命婦として他の皆様とも円滑にお付き合いしてほしいのです。けれど……」
光子の声が沈む。
「最近の怪異騒ぎで、皆が疑心暗鬼になっています。わたしばかりが狙われているように見えるので」
「光子様ばかりが……?」
「そうなのです。泣き声が聞こえるのも、女房が倒れるのも、いつもここ淑景舎の周辺なのです」
「小梅、お茶を」
「はい」
小梅が白磁の茶碗を運んできた。湯気と共に芳しい香りが立ち上る。
だがその瞬間、香炉の香りが変わった。
白檀の柔らかな香気に、墨を擦ったような重苦しさが混じる。
鎖骨の痣がじりと疼く。偶然ではない。明らかに光子を標的にした何かがある。
(やっぱり……)
青銅の香炉。脚部は獅子をかたどり、蓋には唐草の透かし彫り。
そこから立ち上る煙が、ほんのり黒ずんでいる。
「朝霞様?」
小梅の声にはっと我に返る。茶碗を受け取る手が遅れていた。
「す、すみません。あまりに香炉が美しかったので」
「ああ、あれは藤壺様からの贈り物です。先月いただいたばかりで」
小梅の何気ない一言に、千早の背筋がぞくりとした。
(またしても藤壺……しかも女御から?偶然にしては出来すぎじゃないかな)
茶を口に含む。上質なはずの味が、舌の奥で墨のような後味に変わる。
「いかがですか、お茶は」
「……とても美味しゅうございます」
微笑みを作りながらも、千早の視線は香炉から離れなかった。
***
「こちらが淑景舎――桐壺の女御様のお住まいです」
午後の陽射しの下、小梅が回廊を案内する。春風は温いのに、千早の肌には冷気が纏わりつく。
「藤壺様は飛香舎、梅壺様は凝華舎、梨壺様は昭陽舎にお住まいです」
少し声を落とし、梅は続けた。
「本来、後宮には『七殿五舎』と呼ばれる十二の御殿がございます。でも、今人が住んでいるのは、この四舎だけなのです」
「七殿五舎……」千早は小さく繰り返す。
「弘徽殿や麗景殿は、お子をお持ちの女御様が移られる殿舎ですが……今の女御様方はまだどなたもお子をお産みではなく、空いたままです」
言葉を選ぶように話す小梅。千早はうなずきながらも、後宮の広さと空虚さに胸がざわついた。
ふと前方から、藤壺付きの女房・桔梗が姿を現した。
「桔梗様」
「こちらは朝霞様ですね。藤壺様もお噂を伺っています。今度ぜひお茶でも」
にこやかな笑顔。だがその影は薄く、指先は震えていた。
千早は愛想よく答えながら、桔梗の影が妙に削がれているのを見逃さなかった。
桔梗が去ったあと、小梅が溜息をつく。
「最近、皆さん本当にお疲れで……倒れられてしまった方が何人かいらっしゃいます」
「先ほどの桔梗様もですか?」
「いいえ、桔梗様はお倒れにはなっていません。ここの女房が何人か夜中に意識を失って」
小梅の顔は青ざめていた。
「もしかして、何か悪いものでもいるのでしょうか」
(悪いもの――その通りね)
千早は小梅の手を軽く握った。
「小梅ちゃん、大丈夫。必ず原因を見つけるから」
「……朝霞様」
小梅の瞳に涙がにじむ。小心だけれど、必死に主を支えようとしている――その姿に、千早の胸が熱くなる。
***
夕刻を過ぎ、夜半近くになった。
桐壺の西の間。千早は寝所に身を横たえながらも、目を閉じられずにいた。
静寂の中、冷気が回廊を這い、柱を上り、屋根を伝って移動している。
(光子様のお部屋に向かってる……!)
跳ね起きた瞬間、すすり泣く声が耳を打った。薄く冷たい、女の泣き声。
「きゃああっ!」
女房の悲鳴。廊下に飛び出すと、光子の部屋前が騒然としていた。香炉から黒い煙がもうもうと立ち上がり、床下からかすかな泣き声が滲み出している。
「桔梗様! 桔梗様、しっかりしてください!」
小梅が泣きそうな声で叫び、盃を手に香炉へ水をかけようとする。
「待って!」
千早は慌ててその手を押さえた。
「待って! これ、ただの火事じゃない! 煙が出てるのに水をかけたら余計に暴れちゃう!」
香炉の煙は墨汁のように黒く渦を巻いている。
(……すごい。生き物みたいに蠢いている!)
胸の高鳴りは恐怖よりも興奮だった。
「朝霞様、朝霞様…ど、どうしましょう」
小梅の目に涙が浮かぶ。
「皆様、怖がってお部屋から出てこられないのです。桔梗様は藤壺様からのご伝言を携えて、夜分にも関わらずお越しになったのですが…」
千早の胸に違和感がよぎった。
(夜更けに女房を遣わすなんて……普通じゃないんじゃないの?)
「それ貸して!」
千早は小梅の胸元の懐紙をひったくり、香炉の透かし彫りにぱさっと被せた。
煙が細く絞られる。その隙に、千早は袖の中で指を結び、短く声を落とす。
「観」
灰の中に、墨で染められほぐれた紙片が糸のように絡むのが見えた。そこに濁った影が宿っている。
「祓」
破邪印を切ると、床下から滲み出していた泣き声はぴたりと途絶えた。
「……止まった?」
「うん、やっぱり怪異だ!」
千早の声は楽しげに弾んでいた。
懐紙をめくると、墨色の筋とともに細い黒糸が紙に絡みついていた。
「ひっ……!」
小梅は腰を抜かしそうになり、千早の袖をぎゅっと掴む。
「あ、仕掛けがあった! いいものを手に入れたわ」
にやりと笑い、黒糸を懐に収める千早。
その時、香炉からの異様な冷気がすっと消え、桔梗がかすかに息を吐いて顔色に赤みが戻った。
駆け込んだ医師は「寒邪にやられたのでしょう」と淡々と診立てたが、千早の耳には入らなかった。
香炉の煙の匂いが、まだ鼻を突いていた。
***
翌朝。
香包を整えていた小梅が、小さな紙片を持って駆け寄ってきた。
「朝霞様、これ……!」
細い墨の筆致で和歌が記されている。
風鈴の 音に隠れし 影ひとつ 夜半に踊りて 名を告ぐるは誰
「挑発……!」千早は息を呑む。
カラン カラン
風鈴が音を鳴らした。風は吹いていない。
「やっぱり鳴った……怪異が通った証拠ね。面白いじゃない」
胸の奥がぞわぞわと熱を帯びる。
「これって……呪いの歌ですか?」
小梅はおびえて袖をつかんだ。
「いいえ。ただの挑戦状よ。受けて立つわ」
鎖骨の痣がじりじりと疼き、風鈴が再び鳴った。