桐壺の女御
「朝霞殿でいらっしゃいますね」
声に振り返ると、薄紫の袿をまとった女房が立っていた。髪を美しく結い上げ、落ち着いた目の光を持つ。その立ち居振る舞いから、上位の女房だと分かる。
「はい、朝霞にございます」
袖を整え、丁寧に頭を下げる。
「桐壺様がお待ちにございます。こちらへ」
女房に導かれ、承明門をくぐる。
回廊を歩くと、見事な庭園が広がっていた。金糸で刺繍された几帳が風にそよぎ、螺鈿細工の机に置かれた香炉から白檀の煙が立ち上る。女房たちの十二単は春霞のように美しく重なり合い、笑い声が鈴を振るような涼やかさで響いている。
けれど千早の目は、景色よりもすれ違う人々の顔に向けられていた。華やかな装いの下で、表情はどこか疲れている。下女たちの足音も重い。美しい後宮に漂うのは、微かな不安の気配だった。
「あら」
濃紫の袿に紅の袴を合わせた若い女房が歩いてきた。
案内の女房が声をかける。
「桔梗殿。お早いお出ましで」
「桐壺様のお加減はいかがでしょうか?昨夜もお休みになれなかったと伺いました」
「今朝は少し良いご様子ですよ。こちら、本日より桐壺様にお仕えする朝霞命婦」
「まあ、新しい命婦様?よろしくお願いいたします」
桔梗が会釈し、千早も慌てて頭を下げる。
その時――桔梗の影が一瞬、歪んで見えた。息を詰める千早。だが桔梗は何事もなかったように去っていき、その場には妙な冷気が残った。
「桔梗殿は藤壺様付きの女房です。とても気の利く方で」
案内の女房の言葉を聞き流しながら、千早は考える。
(藤壺様の周りにも、何かがある……桔梗さんにも後で話を聞いてみよう)
やがて一つの御殿の前で足を止めた。檜皮葺の屋根、白壁の建物。軒先の風鈴が春風に澄んだ音を響かせている。けれど千早には、その音がどこか濁って聞こえた。
「こちらが、桐壺様のお住まいにございます」
案内の女房は深く頭を下げ、静かに退いていった。千早は一人、御殿の中へと足を向ける。
奥から声がした。
「お通しして」
澄んだ声。だがその調べには翳りがある。若く、どこか頼りない響きだった。
白檀、沈香――どれも上等なはずなのに、冷気と混じり合い、鼻の奥で痛みに変わる。その奥に、墨を擦ったようなかすかな匂いが紛れている気がした。
「……っ」
思わず顔をしかめそうになり、慌てて表情を整える。
几帳や屏風を抜け、上質な絹の茵が敷かれた奥へと進む。壁には雅な絵が掛けられている。だが千早の目は畳の継ぎ目や柱の影に釘付けだった。
――いる。
黒い何かが、薄く蠢いている。
「朝霞と申します。本日よりお側に仕えさせていただきます」
千早は平伏し、額を畳につける。途端に冷気が濃くなり、痣がじんじんと疼いた。御簾の奥から人影が動く。
「顔をお上げなさい」
澄んだ声に従い、顔を上げる。薄絹越しに見える人影はまだ十代半ば。小柄で病弱そうだが、輪郭からは隠せない気品が漂っていた。桐壺の女御・光子。
「よう参りました。わたしが光子です。陰陽頭殿からお話は伺っております。人前では桐壺とお呼びなさい。けれどわたし達だけの時は光子で構いません」
(……やはり事情を知っている)
千早は内心で安堵し、深く頭を下げた。
「はい、よろしくお願いいたします」
そのやり取りの直後、奥から別の声がした。
「光子様、お茶のご準備ができました」
現れたのは年若い女房。薄桜色の袿をまとい、静かに盆を抱えている。
「ありがとう、小梅」
光子が柔らかく応える。
「朝霞殿、こちらはわたしの側仕えの小梅です。あなたの事情を知っているのは、わたしと小梅だけですから」
「小梅と申します。……その、よろしくお願いいたします」
声が震えていた。まだ状況に慣れていないのだろう。千早は微笑みを返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします。小梅さん」
「は、はい!」
頬を赤らめて頭を下げる小梅。その足元にも、薄い影が揺らいでいた。だが先ほどのものと違い、どこか怯えているような弱々しさを帯びていた。
(やっぱり……この御殿全体に影響が及んでいる)
胸の鼓動が速くなる。
光子が小さくため息をついた。
「朝霞。あなたがいらしてくださって、本当に心強いです」
御簾の奥から、か細い声が漏れる。
「実は、昨夜もあの声が……」
「……あの声?」
千早が問い返すと、御簾の奥から澄んだ声が少し沈む。
「夜更けに、御簾の向こうから泣き声が聞こえるのです。駆けつけると女房が倒れていて……小梅も一度、意識を失いました」
小梅が顔を青ざめさせる。
「あ、あの時は本当に怖くて……急に体が冷たくなって、気づいたら床に倒れていたんです」
「その時倒れていたのは……?」
「藤壺様の側仕えの、小夜様です」
小梅の声はかすかに震えていた。
(藤壺の女房が、どうして桐壺様のお部屋近くに……?)
千早が考えを巡らせる中、空気が一変した。
御簾の下から黒い影がじわりと滲み出す。畳に広がるそれは、普通の目にはただの陰にしか見えないだろう。だが千早には、生き物のように蠢く姿がはっきり見えた。
袖の中で指が勝手に動きそうになる。観で正体を探り、縛で動きを止め、祓で消し去れる――けれど何が原因かも分からないうちに迂闊に手を出すべきではない。
「うっ……」
唇を噛んで耐える。
黒い影はするりと伸び、光子の足元へと迫った。御簾の奥から、かすかな息を呑む音。
「光子様?」
小梅の心配そうな声がした。
「……大丈夫です。ただ少し寒気がしただけ」
光子の声はか細く、疲労が滲んでいた。
影は御簾の縁をかすめ、やがて畳の中に溶けるように消えていく。完全に消えたわけではない。どこかに潜んでいるのだろう。
「改めて、どうぞよろしくお願いいたします」
千早は努めて穏やかな声で返す。
けれど心の内では別の言葉が鳴っていた。
(こんなの、放っておけるわけがない!)
風鈴が、不意にひときわ大きく鳴った。
それまで澄んでいた音色が、どこか濁って、警告のように響いた。