夜渡りの社
私、福永遥香は大学のレポートで民俗学を研究するため、名古屋から三重県津市の山奥にある「夜渡」村に来ていた。
村の奥には有名な神社があり、近くの住民の話によると「夜は絶対に行ってはいけない」らしい。昼なら大丈夫か、と聞くと「昼間はなんてことない普通の神社」ということなので、一度行ってみることにした。
神社の手前に行くと、老人とその孫と思わしき青年が畑仕事をしていた。私は会釈だけして通り過ぎようとしたが、青年が声を掛けてきた。
「お姉さん、神社に行くんですか?」
「はい。昼間はいいんですよね?」
「あ、聞いてるんですね。昼間なら大丈夫です」
青年は少し安堵した様子で頷いた。すると老人のほうが歩み寄る。
「夜はあかんに。夜渡様に見られたら帰ってこられんに」
「夜渡様?」
不穏な内容だったので私は足を止める。すると青年が続ける。
「夜に夜渡様に見られた者は夢の中で道を渡り、二度と帰ってこないんです」
私はくつくつと笑う。
「二度と帰ってこないなら誰がその話を広めたんです?」
「ここにいる私の祖父だけが唯一、夢の中で道を渡ったけど帰ってこられたんです」
老人がしゃがれた声で言う。
「夜渡様は、忘れられることを恐れておるんに。『語り部』を選び、記憶を食らうんに」
遥香は老人の話を聞いてもほとんど理解ができなかった。
「かつて『渡り神』は人々の夢を通じて災厄をもたらしたんです。それを祠を建て、お祭りし『語り部』を用意することで『渡り神』は鎮まったとか。まぁ、私も半分くらいしか信じていませんが」
青年がそう言うと老人は怒る。
「ほんまやに」
私は二人に礼を言うと神社に向かった。神社は鬱蒼とした森の中にあり、石の階段を上がると小さな門があった。
門の向こうには朽ちかけた小さな社が見える。賽銭箱も何もない。脇に小さな手水舎があるくらいだ。
私は社の前まで行ってみたが、本当に何の変哲もない社だった。村人の話は本当なのだろうか。
その晩、私は民宿を抜け出し、神社に向かった。三重県の田舎の夜空はとてつもなく美しく、裸眼でもうっすらと天の川が見えるほどだ。一人で暗い夜道を歩くのは怖かったが、好奇心のほうが勝る。
やがて神社の階段下まで辿り着いた私は、携帯のライトで階段から順番に上を照らす。
昼間と違い不気味な姿に私は思わず息を呑む。このまま行っていいのだろうか。私は軽い恐怖に後頭部がやや痺れたが、階段を一段、また一段と上がった。
門まで辿り着いた時、私は異変に気付く。昼間はなかったはずの紙垂が大量に社から伸びているのだ。また、脇にあった小さな手水舎からは静かな水音を立てながら水が溢れている。
私は一歩だけ門を越えたが、すぐに引き返して宿に戻った。
その晩、不思議な夢を見た。夢の中で白装束の人々が無言で山道を渡っていく。私もいつの間にか白装束を着ていて、何も思考が働かず、白装束の列に加わり、山道を渡った。
翌朝は普通に目覚めた。私は安堵し、「なんだ、帰って来れないなんて嘘じゃないか」とつぶやいた。
私は民宿を後にし、軽自動車で名古屋に帰る。
しかし、それ以降も毎日夢の中で道を渡った。どこに向かっているのかもわからず、私は白装束の人々についていく。山道は水が流れ濡れており、濡れた砂利を踏みつける音が頭にこびりついた。
一週間程、夢を見続けて私はようやく気付いた。
「記憶が、無くなってる。これまでの人生の記憶が! もう、ほとんど思い出せない!」
私は眩暈を覚えた。このままだとどうなってしまうのだろう。若年性健忘症だろうか?私は脳神経外科に行き、MRI等を受けたが異常は見られず、ベンゾジアゼピン系の薬を処方された。うつ病じゃないんだけどな。
私は夢の中で「渡りの門」に辿り着く。この門をくぐると現世に戻れない、という不思議な感覚があった。くぐったことはないけど、何故かわかる、そんな不思議な感覚。川のせせらぎのような、水が流れる音が聞こえ、ぼんやりと三途の川を思わせた。
私は頭が真っ白になり、ふらりと門をくぐってしまった。なんとなく、あぁ、もう帰れないんだ、と思ったが、どうでもよくなった。
門の奥には社があった。社の前にはたくさんの石碑があり、石碑には名前が刻まれている。私にはそれが代々の語り部の名前であることがわかった。新しい石碑には私の名前が刻まれている。
その時、不意に横から私の石碑を引き抜いた人物がいた。村の入口で話しかけてきた青年だ。
そうして私を突き飛ばし、門の外に追い出した。
そして、私は目覚めた。記憶が戻っている。
私はもう一度あの村に向かい、青年にお礼を言おうと思った。
が、神社の入口では老人が一人で畑仕事をしており、青年の姿はなく、老人もそのような人物は知らない、ということだった。