6:『春の女神』2:桜に魅せられた王の話
春が恋の季節だとは誰の言葉だったろう。
戦争により傾いた国の草木は実りの秋すら通り過ぎる。秋が訪れても春がなければ意味がない。芽がなければ燃やされ失った実を結べる花はない。種を蒔いても冬の下では凍えてしまう。
傾いた国は穴の開いた船のよう。逃れることは出来ない。ぽっかりとその穴に飲み込まれていくのを、唯待ち続ける。後は沈むだけなのに、人はその穴に狂わされる。
お終いの穴。飲み込まれたらお終い。
みんな自分のことばかり。戦争は終わったのに人々は四姉妹の歌から目を覚ませない。生きるために奪い、苛立ちのために奪う。奪うために力を振るう。力を振るい、人を殺してしまう。そんな景色を少年は見つめていた。
城は戦争により壊された。父も母も部下達も、みんなみんな……もういない。僅かに残った残虐な悪鬼のような民が幾らか。それが彼の民。そんな終わりの国。そこが彼の家。冬のすきま風は彼の心と涙を凍らせた。
四姉妹が率いる人間達が、国から彼から多くを奪った。食料も金銀財宝も、もう城にはないのだ。
国で一番古く、一番大きな桜の木。この木は戦争からも免れた。生命力に溢れた木だ。そんな木さえ花を結ばない。
せめて死ぬ前にもう一度、この木の花を見てみたい。少年はそう思った。
それが叶わないのなら、せめてこの木の一部になれたら素敵。国を見渡せる小高い丘の上。その根元に座り、ひざを抱えてじっとしていた。そうしていたら段々眠たくなった。お腹が空いていたことも段々忘れていった。はっきりとしない意識では、枝の上に積もった雪が桜の花のように見えてきた。春が訪れたのだろうか。
そう思った瞬間、凍った涙が溶け出して桜の木の下で泣いていた。取り戻した意識の下で知るはやはり幻。それは雪だった。それが分かって、また泣いた。
耳に届くのは誰かの悲鳴と笑い声。今日はそこまで寒くなかったから、自然に食料が生まれなかったのだろう。守らなければならない民が僅かな食料を巡って奪い合っている。それは本当に食べられるもの?食べてもいいもの?わからない。その内自分も食べられてしまうのだろうか。王の権威なんてもうないに等しい。国を守れなかった王……その世継ぎ。それは唯の子供だ。唯の柔らかな肉だ。人々が少年を王子ではなく肉と見る目に変わってしまえば、その日が自分の命日。その日に悲鳴を上げるのは自分なのだろうと少年はなんとなく確信していた。或いは、木の根や木の皮を食べるのにも疲れたら……寒さに負けてそのまま動かなくなったなら。そうなっても運ばれていくのは自分だろう。
それでも父亡き今……自分が王ならば、進んで彼らの元に向かうべきだろうか。王の子供の癖に、幼い自分は何も守れなかったのだ……守って貰うばかりで。
せめて彼らを空腹と死から一日でも守ることが出来るのなら、それは素晴らしいことかもしれない。そしてそれが償いなのかもしれない。
そう思う心はある。それでも足は竦む。身体は震える。物心ついたときにはもう戦争の中にいた。死を見て育った少年は、日常の至る所にありふれている……その死がとても恐ろしかったのだ。
何の因果か。人の罪をむざむざと見せつけられるようにして育った。夏と冬の戦場となった国に生まれて、悲しみばかりが降り注ぐ毎日。
けれどどうしたことだろう。今日の雨は色付いている。真っ白な雨でも真っ赤な雨でもない。今日の雨はその中間。
幻聴だろうか。啜り泣く少年の耳に届いた軽やかな笛の音。
幻覚だろうか。白い雪に彩られた木々が薄桃色に染まっていった。
少年の佇む木の下に、近づいてくるのは一人の少女。
少女は銀色の甲冑に身を包んだ姿をしている。それは物語の中で読んだ戦女神のような荘厳さ。少女の髪は色付いたばかりの桜のような、柔らかな桜色。雪がうっすら頬を染めたような白と桃色の中間色。
その美しい人に魅入られたように、少年はぼうっと旅人を見つめていた。
少女の唇が微かに震え、そこから吹き込まれた息がフルートを歌わせる。春の歌が国中に響き渡り……色を失った国に色とりどりの草花が咲き乱れる。それを聞きつけ戻ってくる鳥や獣たち。
それは魔法のようだった。廃墟同然の国が、自然の美しさをあっという間に取り戻したのだから。
「あら……貴方は?」
演奏を終え、一仕事を終えたように息を吐いた少女は、ようやく木の下に蹲った小さな子供の姿に気付く。
「………………キルシェ」
尋ねられ口から転がり出たのは自分の名前。いきなりお前は何かと尋ねられ、自身の本質を語れるような人間はまずいない。だからそれは至極普通の解だろう。
「その名は耳にしたことがあります。確かこの国のお世継ぎ様でしたね」
少女はその返答から何かを思い出すように頷いた。
「王子様、あまり男の子が人前で泣くものではありませんよ」
ずるずると鼻を啜ったままの少年に……口調は何処か厳しく、それでも優しさを感じさせる慈しみ深い瞳で少女が微笑む。
「…………女の子なら、泣いて良いの?」
「そういうものでもありませんけれど」
「お姉さんも、泣いたりするの……?」
「私は滅多なことでは泣きません。私は春の女神ですもの」
それは理由になっているのかどうなのか。少年はわからなかったが、力強く微笑む少女の言葉には説得力があった。
確かに戦女神が泣いてばかりでは、なんだか格好悪いというか絵にならない。自分が泣くのは自分が弱いからだ。それならこの少女はとても強い人なのだろう。
それでもわかる。この人は強いだけではなく、優しい人。
「それでも貴方はまだ子供ですから、泣くのもいいでしょう。私がここにいる間は私が貴方を守って差し上げましょう」
不意に撫でられた髪。触るその手は温かく、とてもやさしい手つきだった。
「これまで辛かったでしょう。おかわいそうに……まぁ!凄い霜焼けじゃない……すぐに手当をしなければ!」
*
美しい女神が現れて、女神がルールを敷いた後……民が奪い合うようなことはなくなった。
女神は神だ。神は強く気高く清く正しい。
腹が膨れれば終わりの穴も狂気も影を潜める。女神の説く言葉に人々は諭され、踏み外した道を引き返し、再び人間らしい生き方をすることが出来るようになった。
それでも少年の胸の内にはぽっかりと開いた穴がある。極端な人の表と裏を見て育ったから、不意に不安になることがある。人の本質とはどんなものなのだろう。
青年となった少年は一人思い悩む。
悪魔の季節に冒された人々は、恐ろしいことを平気でやってのける。それでも暖かで優しい春の息吹に包まれて、人々の心は和らいだ。その姿こそ人の本質なのだと信じたい。それでもそれが春の作り出した仮初めの平和なら……彼女が去った後に、この国の民はどう変わってしまうのだろうか。
その不安の穴を塞いでいてくれたのが、傍にいてくれた女神。彼女が消えたことで、王の中に不安が舞い戻ってくる。
「私は人間だから……ウェールのようにはいかないだろうな」
長く支えてきてくれた伴侶の旅路を祝い、その背中を見送った。申し出を受け入れてくれた彼女のためにも、自分は自分の仕事をきちんと行わなければならない。
彼女が残した剣を握りしめ、王は気を奮い立たせる。辛く厳しい季節を乗り越えてこそ、春の喜びを知ることが出来るのだ。
春が恋の季節だと言ったのは誰の言葉か。
あの日、心の冬を溶かしてくれた女神に出会い、幼き王は春を知ったのだ。
またあの春に巡り会うことを心待ちに、畑に水をやる。春が過ぎれば夏の旅人が現れる。過ちは繰り返してはならない。そう強く念じた時だった。
「キルシェ様!夏神様が……っ」
駆け寄る複数の足音。脅えたような配下の声に、青年は腰を上げて作業を中断。
「私が行こう」
「しかし……」
渋る配下を宥め、王は足を急がせる。
国を治める上では自然との関わりの大切なこと。その化身である旅人神と上手くやっていくことこそが王の役目だと彼は考える。
「父は彼を拒んだからあんなことになったんだ。私はウェールに出会って気がついた。神もまた心を持った存在で、心を通わすことが出来る存在なのだと」
春神に育てられた王は、多くを知っていた。
「私はウェール同様、夏神を客人として迎え入れる。秋神も、冬神もだ」
そして同時に、多くを知らなかったのだ。