2:『春の女神』1:春神の恋煩い
四季を統べるは四人の旅人神。
春風のフルートを携えし、慈しみ深き春の君。彼女は緑息吹く花の化身。誰もが彼女の到来を待ち望む、恵みの女神。
引き留める声も程ほどに、春神は旅路を行く。
神は全ての人を平等に慈しむが常。滞在期間は三ヶ月。それ以上同じ土地に留まることは許されぬ。
全てを無くした哀れな幼子。彼は春神に縋り付く。
“夏の戦火と冬の破壊に虐げられた枯れた大地に緑が芽吹くに三ヶ月は早過ぎた。
行かないでください春神様。貴女に見捨てられれば私の民は死に絶える。
次の春を待たずに、私の国は滅んでしまう。どうか、今暫く……私の国をお守り下さい”
民を思う幼き王の優しさに胸を打たれた春神は、神の使命と己の心の狭間で揺れ動く。
嗚呼、神よ。何故我々旅人神に人形を、人の心を与え給うた。
人の心など知らずにいたならば、私が使命を投げ出すことなどなかっただろうに。
すべてを平等に愛すべき神の身分で、春神が愛してしまったのは一人の少年。
春の女神の足は大地に根付き、恵みの春は一つの国へと留まった。
常しえに咲く桜の国が語る、一人の神のお伽話。
*
春の女神は思う。
どうして自分は人の姿を、女の姿をしているのだろう。
自分が罪を犯してしまったのは、おそらくそのせいだ。その自覚がある。
神が人を思う心は慈しみ。それ以上の愛情を抱いてはならない。そしてそれが限られた人間に向かうことが在ってもならない。それが神という存在の存在の大前提。
「ウェール?どうしたんだい、私は何か君の気に障ることでもしてしまった?」
「いいえ……気になさらないでください、王」
女神を心配そうに見つめる青年。引き留めるため縋り付いてきた時の彼は、屈まなければ視線も合わせられない程に小さかったと女神は思い出す。
それが今はどうだろう。もしあんな風に抱き付かれたら、自分の方が彼の胸の中に収まってしまう。
(わ、私は何を考えているのかしら……そんな、はしたない)
頬を染めて頭振る女神に、青年は首を傾げる。そんな動作は昔のまま、澄んだ色の目は子供のように素直。
「神様相手にそんなに畏まられても困るよ。私は唯の人間なんだし」
「そんなことはありません!キルシェ、貴方は立派な人間です!私がこれまで旅をして見てきたどの国の王よりも貴方は立派な王です」
「あ、やっと名前で呼んでくれた」
「……はぁ。私が貴方の育ての親とはいえ、適当な言葉遣いでは周りに示しがつかないでしょう?敢えて神の私が貴方を敬うことで、周りが貴方をちゃんと敬うようになる」
「私はあんまりそういうのは好きではないんだけれど。みんなで仲良くやれたらそれでいいじゃないか。立派な言葉とか身分とか立場とか、そういう壁を作るから人はおかしな認識を持ってしまうんだよ。みんなで思ったことを話し合って、これからの在り方を考える。そうやって私達は問題を少しずつ乗り越えて来たんじゃないか」
女神自慢の立派な王は、言うなれば立派すぎた。時代が彼に追いついていないのだ。
王政による独裁ばかりが続く世界で、この王が目指しているのは王政、そしてすべての身分の撤廃。王も貴族の農民も、全てが等しい身分の民に。
そんなものを公言すれば、臣下の中にも王の正気を疑う者が出てくる。王の心を理解したとしても、今ある利益を立場を失うことを恐れるのが人間というもの。
「キルシェ……それは確かに昔のように民がほとんどいなかった頃はそれも可能でした。全員で話し合うことも出来ました。それでもこの国は大きくなった。人も増えました。だからみんなの意見を聞いて叶えることは神の私にも出来ませんし、ましてや人である貴方にはもっと難しいことです」
「それでも……それはウェールが私に教えてくれたんだ。君はみんなに優しい人だ。君が来てから……この国は、人は大きく変わったよ。戦争で多くを失った私の民は人を疑い、人を傷付けることを何とも思わないように冷え切った心を持っていた。それでも君が優しく笑って、綺麗な花を沢山咲かせてくれたから……みんなは優しい心を取り戻せたんだ。だから私は君のような王になりたい」
憧れるように女神を見つめる青年の瞳に、女神は僅かに視線を逸らし照れ隠しのように口を尖らせる。
「それでもキルシェ……政務が農作業と花の手入ればかりというのはどうかと思いますよ」
「お花だって麦だって米だって立派な商品だよウェール。食べ物と綺麗な花がそばにあれば私はそれで満足だし、きっと他の人だってそうだよ。食べ物があれば戦争は起こらないし、花があれば心が安らぐ」
「……はぁ、みんな貴方みたいな人間ばかりならそうなんでしょうけど、世の中はそんなに簡単ではないんですよ」
強く優しい女神が傍で守り続けてきたせいか、この王は人を疑うということも知らない。そんな彼の変わらなさを、女神は時に呆れ……時にそれ以上に愛おしく思う心がある。
この国に留まった頃は本当に幼い子供だった少年も、今では臣下達からやれ嫁をもらえだのやれ世継ぎを作れだの口うるさく言われるような年。再来年辺りが彼の成人の年だろうか。
(……となると私は十年近くもこの場所に留まり続けていると言うことなのね)
この十年で、国は随分豊かになった。復興した。
そろそろ去り時だ。新しく桜が咲く度にそう思う。それでも二本の足が土に根付いてしまったかのように、女神はなかなか王へ別れの言葉を切り出せない。その度に桜はもう散ってしまう。
狂い咲いた花たちは季節を忘れたように咲いては散って、また咲いて……あっちこっちでそんなことが繰り返されているから年がら年中この国は花が咲き誇っているように人の目には映るのだ。
(私がいなくなったら、この人は……)
母のように姉のように……それ以上の愛情を注いで育てた分、女神にとってこの王は強い思い入れがある。神が育てた人の子は、汚れを知らずいつまで経っても純真で……だからこそ女神は彼が心配でならないのだ。
国が豊かになれば、人の心には余裕が出来る。唯生きていくだけ。それ以上の望みを抱く者も出てくる。今日この国で王の座は、この青年の命を脅かすものに変わりつつある。
それでも旅は続けなければ。他の土地の人々が春を待ち望んでいる。それを救うことこそが女神の使命。それは重々承知している。それでも人の心を持つ女神は、どうしてもこの青年を置いていくことが出来ずにいた。
「そうだ、それならあの桜を見に行こう!そろそろ満開だったと思うよ」
「どう話が繋がったらそうなるんですか?」
「ウェールの機嫌が良くないからだよ」
「……貴方は本当に桜が好きですね」
「ああ、勿論だよ。桜は私が一番好きな花だから、何度見ても飽きないんだ。桜はウェールの髪の色みたいに綺麗な色だからね」
無邪気に笑い手を引く人間の顔を、直視できなくなった女神は俯き大地を見つめて歩く。
その足が、散った花弁を踏みつけていく。桜の花弁は命を模っているように女神には見えていた。
こうやって青年に手を引かれ同じ場所を歩く幸せ。その足下で、多くの命を見捨てていることの罪深さ。
(もしも私が人間だったなら……貴方に手を引かれることを、唯々至福と思えるだろうに)
何故自分は神なんて厄介な身分に生まれてしまったのか。女神はどうしようもないことに溜息を吐く。
自分は神で、彼は人間。追い越された背丈が何よりの証。
いつか置いて行かれるのだ。それなら置いて行ってもいいはずだ。
彼が他の女と添い遂げる所を見ずに済む。彼の死を直視せずに済む。墓石に彼の名前が刻まれるくらいの時が流れてから、またこの国を訪れればいい。そうやって毎年彼の墓の前で一人で花見酒でも一杯飲むのだ。死人相手なら、言うことも許されるだろう思いを墓前に語りかけながら。
(それでも私は……)
振り払えるだろうか。この温かな彼の手を。
「ウェール、君が今日まで私の傍にいてくれたからこの国はここまで復興することが出来た。私はそれにとても感謝している」
「突然どうしたんですかキルシェ……」
一番大きな桜の木。その一体はここが人の世であることを忘れさせるような幻想的な風景を醸し出す。十年前の戦火を免れた奇跡の桜。女神が少年と出会ったのはこの木の下。
その木まで辿り着き、手を放したのは青年だった。
「ううん、突然なんかではないよ。私はずっとそれを君に伝えようとしてきた。それでも今日までそれは叶わなかった」
女神を見つめる青年の瞳はとても優しく……寂しげだ。
「私はとても我が儘な人間なんだと思う。君のようになりたいと思いながら、そんな風にはなれないんだろうとも私は思う。私は全然立派な王なんかではないんだ。君と離れたくなくて……もっともらしい言葉を吐いていただけ。それでも私は君のようになりたい。今からでも間に合うのなら、少しでも君に近づきたい。だから言うんだ」
桜の雨を浴びながら、青年は春の空を見上げ……眩しそうに目を伏せる。
「君には君の使命があるのに私は私の我が儘で君の旅を邪魔してしまった。……でも、それも今日で終わりにしよう。私ももう子供ではない。我が儘が許されるような年でもなくなってしまった」
女神に傍にいて欲しい。そう思うのは自分の我が儘。彼女のようになりたいのなら、彼女を縛るわけにはいかない。青年の語る言葉を春の女神は驚きと悲しみと……誇りの中で聞いていた。
「これまで君を引き留めてしまった分、君は何年もここへはやって来られないかもしれない。それでも私は花を植えるよ。君が訪ねてきてくれた日に、私が育てた花で君を迎えたい。ウェール……私は何時でも君の帰りを待っている。何時でも構わない。またここを訪ねて欲しい」
「キルシェ……」
「この国が君の帰る家だなんて思っていないよ。でも、そんな風になれたら素敵だと思う。君の旅の疲れを癒せるような国にしていきたいと私は思っているんだ」
照れくさそうに笑う青年を見て、女神の頬も赤らんだ。それを見て青年は、気恥ずかしさを誤魔化すように片手を女神に突き出してみせる。
「これは……」
「凄いだろう?あの木の傍から見つかったんだ」
女神に押しつけられたのは、自然が生み出した見事な宝石。桜の花を内に固めた琥珀の首飾り。
「私の代わりに君の旅に一緒に連れて行ってはくれないかい?」
「…………キルシェ、それは……」
旅の最中に耳にした、琥珀の伝承。それが確かなら、これは……
女神はそれが間違いであって欲しいと思いながらも、そうであって欲しいとも感じていた。
「私はこの国を守りたい。けれど王は世襲制ではなくて構わないと思う。みんなを大事に思って守ることが出来る人がいるなら、そういう人に国の運営を譲り渡していってもいい。だから私は君の他の人を娶りたいとは思わない」
「私は常々思うんだ。王も貴族も農民も……そして神もだ。心がある者は皆、自由に誰かを愛する権利があるんじゃないかな。その気持ちに嘘をついても良い結果にはならないし、誰かが悲しい思いをすることになるんだと、私は思う」
すぅと息を吸い、青年が一つ一つの言葉を大事そうに吐き出した。
「ウェール、私は君が好きだ。出来ることなら……ずっと君に傍にいて欲しい。でも私はこの国を離れられないし、君には君の役目がある」
女神には世界、王には国という守るべき抱えるべき重荷があった。その鎖のような存在を、煩わしいではなく愛おしいと思える二人だからこそ、彼らはその身分にあるのだろう。
「だからせめて……言葉だけでも形だけでも、君と繋がるものが欲しい。そう思うのも私の我が儘……なのだろうけれど、どうかそれだけは許してくれないかな……」
「…………キルシェ、これをどうぞ」
返事の代わりに女神が差し出すは一振りの剣。
夏との戦の際に用いるその剣は、四姉妹の脅威を振り払う。春神は夏神に勝てない定めの神ではあるが、勇ましい戦女神は早すぎる夏の到来に逃げることは選ばない。雨期は二人の戦いが招くもの。夏の旅路を遅らせるための時間稼ぎに用いられるのがこの剣。
「これは君の仕事に必要な物だろう?」
「私の代わりに……私が戻るまで貴方を守ってくれるように残していきます」
女神が司るは春。……そして平和。夏神の配下の戦争が引き起こす災い達を追い返す力となるよう、女神は剣を青年の腕に押しつけた。
「九ヶ月後に、また……」
贈られた首飾りを身に纏い、春の女神は春風のように優しく微笑んだ。