10:『春の女神』3:眠りの春
ある国では、花嫁は琥珀の首飾りを身につける。若き王からの贈り物は、春の女神にとっての宝物。離れていてもいつも彼の姿を思い出せる。握りしめれば仄かに香る琥珀の香りが、女神の心を慰めた。
「これは一体……?」
……また、春に会おうと約束をした。その日を心待ちにしていた。少し予定より早く戻って来てしまったのは……逸る心の所為。詳細を述べるのは野暮という物。同僚の冬神を早めに追い立ててやろうとしたのは、女神の心がもたらす力。
けれど春神を迎えたのは、別れ際より成長した王の姿ではなく……悪夢のように再び戦火に包まれた春の国。隣国に攻め込まれたのか?いや、それだけでこんなに国が荒れるはずがない。
「キルシェ……?キルシェっ!返事をしてっ!!」
人の良い王の噂は国を超えて届いた。キルシェ王は懸命に季節を越えている。女神に育てられた素晴らしい王は、秋の女神だけではなく、夏の悪魔とその配下にまで気に入られたという。夏神は本当に気に入った人間に害をもたらすことはない。だからこの国には居着かず、ちゃんと決まった季節を治めた後に立ち去った。そう……聞いている。それなのに今、走る女神を濡らす大雨は……夏を感じさせる夕立。
「キルシェっ!」
銀の甲冑を鳴らし、春の女神は荒廃した国を走った。見れば春の国の陣営で、唖然と立ち尽くす破滅の三姉妹。そうして向かい合う方向に、隣国の王に抱きかかえられた……幼い少女。その娘は髪に向日葵の花を刺した夏の娘……四番目の破滅の女神、戦争。揃ってしまった破滅の四姉妹。こうなればもう誰にも止められない。この国は、暗殺暴力強姦戦争の嵐が吹き荒ぶ。それはこの世の地獄絵図!
(そんなことさせるものか!ここはあの人の国っ!)
夏の悪魔を捜すべく、血眼を走らせる春の女神は二国の兵の衝突点……その間に佇む少年の姿を見る。黒いマントをこの世の闇の如く暗く湿らせ、雨に凍えているその少年。外れたフードから覗くのは、不吉の黒猫の耳。夏の悪魔の証だった。夏の悪魔は掌で触れないように、大事そうに何かを抱えている。動かない、人の塊。それは女神が誰より愛した人間だった。
「アエスタスっ!!お前が……お前が王を殺したのか!!」
女神が王に預けた剣は、あろう事か彼を絶命せしめた背中傷。多くの血を吸って、すぐ傍に落ちていた。
「……っ、俺は……」
夏の悪魔が泣いている。それ上何も言えずに泣いている。彼が泣けば泣くほど雨脚は強まって、雷を落としていく。春の女神は空に槍を翳して、その雷を受け流す。けれど防ぎきれなかった災いにより、二国の兵が感電し、命を落とす。
「何故この国から、私から、彼を奪った!答えろ!夏の悪魔っ!」
春風のフルートで滅ぼせる相手ではない。絶対に勝てるはずのない勝負。それでも戦わない訳にはいかない。旅人神には心がある。生きた人間のように熱き血潮が流れている。愛しい人を失って平然としてなど居られない。
槍を放り投げ、悪魔の足を貫いて……よろけた悪魔から愛しい人を取り返す。そうして預けた剣を拾い上げ、夏神を切れない剣で何度も打ちすえた。夏神には効かない剣。それでも鈍器としては使える。幾つもの青あざと打撲を彼に与えて、それでも怒りが収まらない。その間悪魔はじっとその場に留まり女神の攻撃を受けていたが、女神の怒りが四姉妹に向いたことに、動揺を表した。
「止めてくれっ!あいつらは無関係だ!」
「関係ないですって!?あの女達が揃ってしまったから!だからキルシェはっ!この国はっ!」
災いの嵐を止めるためには、四人の娘を殺さなければならない。一人を殺せばそれは一時的には止まる。それでもまたすぐに揃ってしまったらどうする?一度に四人殺せば、新しい夏の娘は世界各地に散らばり生まれる。また揃うするまで時間が出来る。平和のためにも、国のためにも……全員殺しておくべきだ。
「春神様……どうか怒りを鎮めてください。貴女の悲しみ、嘆きはよく解ります」
怒り狂った女神の足下に跪く娘が一人。それは夏の娘の次女、暴力を司る娘だ。長い髪を地に伏せて、娘は懇願を送る。
「人間の小娘などに私の気持ちがっ!」
「私は、夏神様を愛しています!だから私は夏神様をお守りしたいっ!出来ることなら、そう……ずっと!」
夏の娘は神性宿った娘。人間の身でありながら低級の神である。それぞれもっとも神の力が高まった年齢で不老になるが、不死ではない。死ねば新しい夏の娘が生まれるだけ。
「次の次女は……私じゃありません!私の気持ちは、私だけの物。私が死んだら、私はもうアエスタス様をお慕いすることが出来ません……!」
「……お前は、何を……?」
「どうかこの場は、私の命でお怒りをお鎮め下さい!」
女神の剣に自ら身を躍らせる夏の娘。それは夏の娘の力を退けるための剣だ。そこに自ら飛び込むことは、自殺以外の何ものでもない。
何を馬鹿なことをと止める暇もなかった。あっと言う間に娘は深々と身を貫いて、絶命してしまう。愛しい人に二度と会えない、悲しみから流れ出た涙に……春の女神も我に返った。夏の娘達も最初から悪人ではない。迫害されて性格が歪んでしまっただけ。こんな風に真っ直ぐに誰かを思える気持ちを持った娘を殺してしまった。この娘はもしかしたら……夏神にとっては自分にとっての王と同じ?
それに気付いたとき、女神はとんでもないことをしてしまったと血の気が引いていく。それまで黙っていた夏神が……ゆらりとその場に立ち上がる。その手には黒く禍々しい死神の鎌。命の収穫をするその鎌が、地獄の業火の温度で刃先を燃やしている。触れたら唯では済まない。ごくりと女神は息を呑む。例えこの先夏の悪魔が他の誰に愛されても、二度と同じ少女は現れない。掛け替えのないものを失ったのだ。いや、二度と愛されないかもしれない。彼は忌み神だ。失うまで大切さに気付けなかった彼の怒りは、女神の怒りを上回る激情の炎。
(いけない、このままでは……!)
ひとまず四姉妹の脅威は去った。それでも夏神の逆鱗に触れた。彼の力は腐敗と病。疫病の風が吹き、敵も味方も倒れていく。
(例え殺せなくとも…ッ、相打ち……せめて仮死に持ち込まなければ!)
他の神を頼る暇もない。戦線離脱で更に多くの人が死ぬ。恵みの女神がそれを見過ごすことは出来ない。
(でも……)
王を背負ったまま本気で戦うことは出来ない。このまま戦場に王を捨て戦う?それも出来ない。せめて墓くらい自分の手で建ててやりたい。
「駄目だよ……ウェール」
「キルシェ!?貴方……」
耳元に聞こえる微かな囁き。
まだ王に息はあったのか。女神の生命力に触れ、一時的に息を吹き返しただけなのか。どちらにせよ致命傷だ。今日中には死ぬだろう。強い死の香りを感じさせる声だった。
「私の、不手際なんだ。私が駄目な王だから……部下に隣国と結ばれて、国を荒らしてしまった」
「もう、もういいの……!喋らないで……っ」
「喋りたいよ、……君にも、彼にも」
王は小さく微笑んで、女神の身体から降りる。そうして女神を一度抱き締めた。
「お帰り、ウェール……」
女神から身体を離し、王が見るのは夏神だ。王は春神にそうしたように、両腕を広げ夏に微笑んだ。
「アエスタス……君も、お帰り」
「止めて、キルシェ!!」
全ての季節を平等に愛さなければならない。それを務めたつもりでも間違っていたのだと王は知ったのだ。春を愛し抱き締めたなら、夏も同じように迎えなければならない。その采配が間違っていたから、これは起きた災いだと……王の背中は語るように、春の女神を今拒む。そういう風に他の季節を愛せないなら、春に恋してはならなかったと。
「どちらにせよ、私はもう……長くない。けじめは付けるよ」
怒りに支配されそれが誰かも解らない夏神は、王の行動を威嚇と認識したのか飛びかかり鎌を振りかざす。身を焼き斬られそれでも、王は夏を抱き締める。友との再会を喜ぶように、向日葵のように明るく笑い……もう一度お帰りと言う。穏やかなその声に、夏の悪魔も我に返って……見開いた目で王を見た。
「キルシェ……?」
「うん……お帰り、やっと……帰ってきて、くれた」
泣き顔の夏の娘とは違う。胸のつかえが取れたような笑みを湛えたまま、王は事切れた。王を焼かないように。抱き締め返せなかった夏の悪魔から、もう十分でしょうと春の女神は王を受け取り背を向ける。
そして女神が歩き出すのは、王が治めた国の方向。
「この国はこれより、春の女神の領土とする!踏み込むと言うのなら、何処の人間であろうとも容赦はしない!叩き斬る!私の怒りを買った国々よ!二度と恵みの春は貴様の国を訪れない!」
宣告に縋る敵兵を、容赦なく女神は斬り殺した。それを人々によく見せて、女神は再び歩き出す。
「ウェール……頼みがある」
それを夏の娘を抱きかかえた夏の悪魔が追いかける。他に埋められる土地もない。娘の亡骸がある場所に、新たな夏の娘が生まれるという迷信で拒む者が多いのだ。ならば夏を受け入れてくれた王の国に、娘を眠らせてくれないかと悪魔は女神に頼み込む。女神も王の気持ちを酌み取ってそれを許した。
「私は……またこの国を建て直します。私の旅は、終わりです」
「ウェール……何を!?」
「春は永遠に桜の王の側に寄りそう。桜の花は永遠に彼の墓しか飾らない」
「そ、それは旅人神として……」
「神として私が間違っているというのなら、いつでも殺しに来て下さい。上へ告げるのも自由ですよ、アエスタス」
微笑んだ女神の瞳は既に半分壊れていた。