1:『冬の悪魔』1:冬神の憂鬱
四季を統べるは四人の旅人神。
触れしすべてを凍らせ眠らせるは、忌み嫌われし冬の君。
雪と北風を従えし深き眠りの君は、死操る神。彼を人は冬の悪魔と呼び恐れ敬うが常。されど長らく続く冬の日に、人は恐れを失わん。
愚かな怒りに取り憑かれ……彼を厭う心ばかりが世界を包む。
そんな俗世に嫌気が差した冬神は、山奥へと身を隠し……孤独に時だけを送る。
老人は子供らに恐れを語る。
“ほら、見てご覧。冬神様の住まう白き森は、夏の日にも白き衣で山を飾るのだ。
森に踏み込んではいけないよ。冬神様は人間嫌いでいらっしゃる。
冬神様の歌は大気を振るわせ雪を降らせる。彼が触れれば人は命を失うよ。彼の怒りを買えば、このまま冬は終わらず終わるのはこの村、この国さ。我らは春を讃えるのではなく、今一度恐れを思い出すべき。それが冬神様の怒りを解く方法なのだ”
それでも怒りに取り憑かれた愚かな人間は、春を讃える祭りの仕度に忙しく、老い先短い老人の戯言など相手にしない。
長い永い冬の国が語る、一人の神のお伽話。
*
冬の悪魔は考える。それは一人の少女のことだ。
「主様、何かお悩みです?うちが相談に乗りますわー」
「てやんでぇ!お前に話しても冬の旦那の機嫌は急降下に決まってんだろ!」
穏やかに笑う長い白髪の少女の名前は雪。その隣にいる枯葉色の髪に鋭い目つきの少年は北風。そのどちらも冬の悪魔に従う忠実な配下。ただし個性が強すぎるのが欠点と言えば欠点。物静かな悪魔の孤独を紛らわせてくれる二人も、時には思考の妨害になり得る存在。
小さく賑やかな従者達の言葉に応える気力も今はない。憂鬱な気分で吐いた溜息に、二人の従者が気がついた。
「あ、うちの子分がまた一人生まれました」
「お、あっしのもですぜ旦那」
悪魔の憂鬱が雪を呼び、溜息が風を産む。
少女と出会ってからというもの、このように二人の部下が量産されてしまい、そのことでこの付近に暮らす人々から悪魔は更に忌み嫌われる存在となっていた。
「……懲りずにまたやって来たみたいだな」
主語を抜かして物を言っても長い付き合い。二人の従者は主が何を言わんとしているかをすぐに察した。
「それじゃあ僕はここに来られる前に雲隠れすることにしよう。後のことは頼んだよ」
「へい、あっしにお任せを」
「あのー主様」
「なんだい雪?」
「たぶんもう遅いと思いはります」
雪の言葉に悪魔の顔が蒼白へと変わる。そしてまもなく背後から聞こえる声。荒い息づかい。それに乗って地の底から響いてくるようなそれ。そこから届く亡者の呪いめいたその声。恐る恐る振り返る悪魔が目にしたものは……
「冬の悪魔ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!出たぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
声の主に脅え、木の上に飛び上がり退避する悪魔。その木下で枝が揺れる程蹴りまくる少女が一人。
顔半分を覆ったマフラー。厚手のコートに手袋に鋭いスパイク付きの冬用山歩き用ブーツと言った完全装備の中からふわふわ揺れる長い金髪だけが彼女が少女なのだと感じさせる要因だ。鬼気迫ったその表情は、少女の方こそ余程残忍な悪魔に見える。そんな獣のように咆吼を発する少女に脅えた悪魔は木の上でガタガタと震え出す。
「病弱のか弱い乙女がはるばるわざわざ会いに来てやってんのよ!少しは歓迎しなさいっ!」
「僕は君を呼んでいないっ!」
「は、嬉しい癖に、可愛くないわね。なるほど、冬神だけあってツンドラって奴なのね」
「違うと思う!違うと思うっ!絶対違うからっ!」
「ええい!人里離れたところで一人寂しく暮らしてる貴方が私にときめかないわけがないじゃない!薄幸の美少女に迫られて何そんなに嫌がってんのよ!」
「普通、薄幸の美少女は自分でそんなこと言わないと思う」
「何ですってぇええええええええええええええええええ!このっ!このっ!くそがっ!」
「なぁ、雪。何時何処の時代なら薄幸の美少女はくそがとか言うんでぃ……」
「さぁ。そないなことうちに聞かれはっても。うちは精霊さかい、人さんの言いはることはようわかりまへん」
「まぁいいわ!貴方が私を嫌いだって言うのなら私はそれでも全然構わないんだから。ってなわけで冬の悪魔!今日という今日こそ……」
これに続く言葉が逆であればどんなに楽か。悪魔は再び溜息を吐く。
「私を殺しなさいっ!!」
これだ。これだからこの少女は厄介なのだと悪魔は思う。
冬神討伐に来るような人間なら返り討ちに遭わせるのも結構。それでもこの少女はわざわざ殺されに来るという風変わりな人間。
「だから何回言えば君は理解してくれるんだ?僕は基本老衰以外の死に関わるつもりは微塵もないんだ」
どうやっても助からない。生きていても苦しむだけ。そんな人間を安らかに眠るような死へと誘うのが冬の悪魔の仕事。
痛みのない死を与えることが出来るという言い伝えが一人歩きして、時折悪魔を求めて山へと踏み入る老人がいる。確かにそんな風に自らやって来た者の前には姿を現し、眠らせてやることはある。それでも少女はまだ若い。老人達とは訳が違う。
また心ない人間も居て、わざと老いた親を山へ捨てる者もいる。そういった場合は本人が死にたがっていたら眠らせてやる。どうせ帰っても辛い思いをするだけだ。本人が死にたくないと願うのなら、帰り道を開いてやる。
それ以外の死は冬の悪魔とは無関係。山への畏敬を忘れ山に入って遭難するのは自己責任。悪魔に近づきすぎた自分の浅はかさを呪えばいい。この少女だってそうだ。そんなに死にたいのならこんな重装備を止めて来ればいいのにと悪魔は何度も思った。
それでもこの少女がそうしないのは、つまりは本心は死にたくないからなのだろうとも。そんな間違った方向に進んだ思春期特有の死への憧れなどに付き合わされる我が身にもなって欲しい。
あまりに煩わしいから殺してしまおうかとも思う時もあるけれど、死を司る立場の者として殺しにはルールが必要だと、自らを戒めている。それを破るわけにはいかないと悪魔は思い直した。
「いいかいフィーネ。確かに僕は触れたものを凍らせる……安らかに眠らせることが出来る。それでも僕は子供を殺すような趣味はない」
「爺専婆専ってマニア過ぎるわよ。この老人性愛者!ここは健全に私を殺しておきなさい」
「君の発言と行動の何処を取ったら君が健全に見えるんだろうな」
またもや続く悪魔の憂鬱溜息に従者達が口を挟んだ。
「おいそこのお嬢、いい加減諦めやがれ。これ以上冬神様をブルーにさせるとお嬢の村が雪で沈みやがらぁ」
「もしくは風でお家が倒壊しはったり?」
「そうそう。はっきり言って君は迷惑なんだ。君が僕の所に来るとこの冬は強まる。いろんな人が困る。僕はもっと嫌われる。負の連鎖だよ」
「それならそうなる前に私を殺せばいいじゃない」
ああ言えばこう言う。自我の強すぎる少女を説得するのは神である彼にも骨の折れる作業だった。神とて万能ではないということだろう。
「それに今日の私はいつもと一味違うのよ!見なさい冬の悪魔!そして平伏すが良い!」
「本当、君の方が悪魔って言うか魔王みたいな顔をしているよ」
「我が村に伝わる悪魔大全!この本にはしっかり貴方の弱点も記されていたわ!」
「僕は悪魔じゃなくて神なんだけどなぁ……」
したり顔で少女が掲げたのは一冊の本。
「“冬の悪魔を殺めることが出来るのは春の女神唯一人。しかしこれには例外がある。条件さえ満たせば冬の悪魔は人が触れることでも殺めることが可能となる”……どうよ!何か異論はあって!?」
「そんなどや顔されても……。まぁ確かにそれは概ね正しいけれど」
「なら!私に触られて死にたくないなら私に触れて殺しなさいよ!」
「ねぇ、フィーネ。君は自分でそれを言っていておかしいと思わない?」
「え?何が?」
猪突猛進という言葉が相応しい少女は大事なことを見落としていた。
「その後条件について記されてはいないかい?」
「ええと何々?“この条件とは、悪魔が恋した相手に限る”……って何ですってぇええええええええええええええええええええええええええ!?」
「わかってもらえたようで何より。ということでお引き取り願おうか」
「ううううううううう、この私としたことがっ!思わぬ所に盲点がっ!」
「それ以前に穴だらけだと思うけどな君の計画」
「くそっ!今日の所はここで諦めてやるわ。感謝するのね!」
少女の捨て台詞に悪魔は息を吐く。今日初めての安堵の息だ。
「それじゃあさようなら……早く木の下から消えてくれない?君が怖くて降りられないんだ」
「嫌よ」
「何で!?」
「まぁ、殺して貰うのは二の次で、薪拾いの仕事もあったのよ。貴方が私の変わりに籠一杯に薪を拾ってくれるまでここに居座ってやる」
「お、鬼ぃっ!悪魔っ!」
「それは貴方の方でしょ。ほら、さっさと拾わないと日が暮れるわよ」
シートを広げ弁当まで寝転がり、ぼりぼりと菓子まで食べ出した少女相手に、悪魔は涙ながらに思う。薄幸とか美少女とかってどういう意味だっただろうか。
薪など殆ど落ちていない冬山。北風の力を借りて木から枝を分けて貰う作業に移った悪魔を見つめる雪はにやにやと意味深な笑みを浮かべている。
「何を笑ってるんだ君は……?」
「冬の旦那、気づきはりませんの?ヒエムス様はさっきから憂鬱そうで溜息ばかり吐いてはる。それなのに……うちの子分はんがあの子が来てから一人も生まれてはりません」
「言われてみりゃあ……あっしの子分もですぜ」
雪や北風が生まれる憂鬱も溜息が、生まれていたのは少女がここに辿り着く寸前までだと従者が語る。
「何を言っているんだい君たちは」
悪魔は再び溜息を吐く。
確かに孤独は薄れた。それでも悪魔もいい年だ。幼い頃はそれを寂しく思うこともあったような気もするが、長すぎる時の果てを生きていれば孤独の寂しさなど忘れてしまう。騒がしい少女はまるで天災のようだ。泣いても叫いても逃れられない。今となってはあの頃の方が余程マシだったとさえ思う。
「天地が逆さになったって、僕があんな子を好きになるはずがないじゃないか。神を恐れない所か、神に薪拾いまでさせるような人間相手に」
「まぁ、それもそうっすね」
「うちらの勘違いでしたわー」