愛をあげる
「あちゃ〜。言い過ぎたか」
最後の授業が終わっても、教室に帰って来なかった美佳の席を見て、俺は少し反省した。
だけど、今はそれどころではない。
俺が慌てて、片付けをしていると、片桐が横を通り過ぎていった。
俺の方をちらりとも見ない。
本当に待ち合わせをしているのかと、疑いたくなる。
教室を出ていく片桐を見送っていると、その横から総司が、こっちに近づいてきた。
「太一」
総司の言いたいことは、わかっている。
俺は席を立つと、
「すまん。急いでるんだ」
総司の横をすり抜けた。
「待てよ」
腕を掴まれようになったが、何とか走って逃げた。
「太一!」
「またな!」
俺は手を振りながら、教室から飛び出た。
「ごめん!構ってる暇がないんだ」
帰りの生徒でごった返す廊下を走りなから、俺は待ち合わせ場所の渡り廊下に向かった。
さすがに、帰り道から外れている為、人がいない。
渡り廊下の手摺の前に、両手で鞄を持った…片桐がいた。
片桐は近づいてくる俺を気付き、体をこちらに向けた。
俺は駆け寄った。
「本当に待ってたんだ」
俺の言葉に、片桐は苦笑し、
「そんなことで…」
俺に近づくと、腕を絡めてきた。
「女は嘘をつかないわ」
175センチある俺よりも少し低い片桐は、上目遣いで微笑んだ。
その妖しさに、俺はさらに心を奪われていった。
「さあ〜行きましょう」
片桐は絡めた腕で、俺の体を動かした。
「ど、どこにいくの?」
歩き出した方向は、正門ではなかった。
裏門。
駅からも遠くなり、静かな住宅地を通ることになる裏門から、帰る生徒は少ない。
俺と片桐は、人通りのない道を歩いていく。
「片桐!?」
2人で歩く間、片桐はあまり話さなかった。
2人で腕を組んで歩く姿は、どう見えるだろうか。
途中、その辺りに住む住民とすれ違ったが、 男だった場合…百パーセント、片桐を見た。
背も高く、スタイルの良くてモデルのような片桐は、目を惹く。
学校の中…以上に。
夕陽がいつのまにか、2人を照らしていた。
その眩しさより、そばにいる片桐の方が、俺には眩しかった。
そんな女と、俺は2人でいる。
改めて冷静になると、その事実に驚いた。
今さら…緊張してきた。
「神谷くん」
だから、片桐が俺のことを呼んでいるのに気づかなかった。
「神谷くん」
やっと、俺が気づいた時…2人は公園にいた。
結構広い公園だ。
こんなところ知らなかった。
思わず、キョロキョロしてしまう俺の動きを、 片桐は絡めた腕で止めた。
「え!」
そして、心の準備をする間もなく、片桐は唇を押し付けてきた。
甘いにおいが、鼻腔の中に広がり、 とろけるような感触が口の中に、広がった。
思考が飛ぶような口付け。
俺はしばらく気を失ったように、何も考えられなくなった。
片桐が唇を離しても、俺の唇はまだ震えていた。
だから、俺は気づかなかった。
片桐がじっと…俺の瞳の中を覗いていることに…。
「あなたは…不思議な人ね」
片桐は、優しく微笑んだ。
「え」
緩んだ…優しい笑顔に、俺は少し考える力を取り戻した。
片桐はゆっくりと、俺から離れ、少し項垂れた。
「多分…あなたもあたしは…本当は、こんな強引な人間じゃない。だけど…強引にしてしまう」
顔を上げると、さらに優しくなり、
「だって…。そうでないと、また無くしそうだから…大切なものを」
「!」
俺は、その時初めて…片桐本人を見たような気がした。
片桐はゆっくりと、俺にまた近づくと、
「あたしは…無くしたものを取り戻せない。だけど…あなたは」
もう一度、キスをした。
「違う。あなたは、取り戻せるわ」
離れた唇と唇の間に、唾液が糸を張る。
だけど、すぐに糸は切れた。
片桐は俺を見上げ、
「その為に、あたしが必要なら…」
再び俺の首に、手を回した。
「いいの」
また接近する片桐の唇を、今度は待つことなく、俺からキスをした。
長い口付け。
俺はその間に、心が癒されていくのを感じた。
心が安らいでいく。
そんなキスは初めてだった。
片桐の感触に溺れる俺は、自分のことだけで、相手のことを思いやることができなかった。
もし…その時、目を開けたなら、
片桐の閉じた瞼の横にある涙に、気づくことができたのに。
それから…俺は記憶がない。
甘く優しい口付けに包まれて、夢の中を彷徨うような感覚だけが、全身を包んでいた。
意識が現実に戻った時、俺は見知らぬ部屋にいた。
そこが、片桐の家であると気付いたのは、隣に裸の片桐がいたから…。
俺は布団の上に、全裸でいた。
体についた自分のではない…においに、初めて俺は、完全に意識を取り戻した。
がばっと起きあがった俺に、隣にいる片桐が声をかけた。
「疲れてたのね…終わったら、すぐに寝ちゃったから」
クスッと、片桐が笑った。
「えええ!」
俺は立ち上がると、自分の下半身を確認した。
その様子を、おかしそうに眺める片桐。
「心配しないで、つけてなくても大丈夫だから」
「ええええ!」
それは、男の俺でも驚く展開だったのに…片桐は妙に落ち着いていた。
へなへなと、布団の上に崩れ落ちた俺を見ながら、
「やっぱり…初めてじゃなかったんだね」
微笑むと、
「手際がよかった」
俺の頭に手を伸ばすと、髪を撫でた。
突然、お姉さんのように感じた片桐を見つめてしまう。
布団の上で膝を抱えているから、大事なところは見えない。
あまりにもじっと見つめるから、片桐は少し顔を赤らめると、照れたように、
「あ、あたしは…勿論初めてじゃないよ」
咳払いとすると、立ち上がり、俺に全身を露にした。
贅肉一つない綺麗な体は、宝石のようだった。
思わず見とれていると、片桐は衝撃的な言葉を発した。
「結婚してたからね」
そして、はにかんだ。
「え?」
思いがけない言葉に驚き、固まっている俺に気付かず、片桐は言葉を続けた。
自分のお腹の辺りを確認し、
「大きくなる前だから…できなかったし…妊娠線も」
そんな片桐の言葉も、俺には聞こえない。
意識が、飛んでいた。
結婚って…。
おかしいだろ。
いや、おかしくないのか。
女は結婚できるのか。
ということは。
キョロキョロと部屋を見回す俺の様子に気付いた片桐は、
「もうとっくに、離婚してるから…この家には、あたししかいないわよ」
おかしそうに笑った。
そして、そのまま上から、俺に覆いかぶさった。
「おい!」
俺は、布団に背中から倒れた。
片桐は、俺を抱き締めると…耳元で囁いた。
「誤解しないでね…。離婚後、こうなったのは、あなただけだから」
そして、微笑みながら、顔を離すと、
「この学校に転校してきた時から、気付いてたの…。あなたの痛みを…。あたしに似た痛みを持ってることに」
片桐は起き上がった。
俺に股がる格好になる。
「だけど…あなたは癒せる」
俺を見下ろしながら、微笑んだ。
「片桐…」
「大丈夫」
俺の髪を優しく撫で、
「あたしは…壊れた人形なの。何をしても大丈夫」
上から、俺にキスをした。
「あなたの傷が癒えるまで、いてあげる」
「片桐!」
俺は、片桐を抱いた。
今度は、ちゃんと…意識を保って。
すべての…今までの奥にあるものを吐き出すように、激しく。
その時の俺は、嬉しくて…だだ夢中で…片桐がなぜこんなことをしてくれたのか…考えることもしなかった。
壊れた人形。
片桐が口にした言葉の意味を考えなかった。
あの時の俺は、片桐を感じる喜びだけにとらわれていたから。
片桐が住むアパートは、学校から二駅離れていた。
そこまで、知らずに歩いた事実に驚いた。
「じゃあね。気をつけて」
駅まで送ってくれた片桐に、
「ありがとう」
とお礼を言った。
そして、今朝買った定期券を改札に通そうとして、俺は動きを止めた。
「片桐」
「何?」
俺は振り返ると、携帯を取り出し、
「番号、教えてくれない」
「...」
少し間をあけて、片桐は俺に向って、手を合わせた。
「ごめん!あたし...携帯持ってないんだ」
俺は驚き、
「そ、そうなんだ」
「前は持っていたんだけど...」
声のトーンが、少し下がった。
「どうして...」
口にでてしまったけど、俺はそこで口をつむんだ。
「また...誰かを傷つけそうだから..」
俯き、呟くように言った片桐の言葉の意味を、俺はわからなかった。
俺の学校に来る前、片桐が誰よりも輝いていた時期に、何があったのか。
それを知るのは、少し後になる。