接近した距離よりも、戸惑う気持ち
「まあ…だからと言って、やるかどうかは」
俺は教室に戻ると、真っ直ぐに自分の席に向かうはずだった。
なのに、俺の足は止まった。
自然ととらえた目が、そこから動くのを拒否したからだ。
目の前に片桐がいた。
(畜生)
俺は心の中で、毒づいた。
これじゃ…あまりにも露骨だ。
休み時間もどこにも行かずに、ただ教室で、本を読んで過ごす片桐の美しさは、どこか近寄り難く…遠くから眺めるのがあっているように感じた。
それは、クラスの女子もそうなのか… 話しにくそうだった。
というよりも、片桐のそばに近寄ると、クラスの女子なんて、ガキに見えるのだ。
冷たいとかではなく、やたら落ち着き、大人の雰囲気を醸し出していた。
だからと言って、無口という訳でなく、話しかけると結構気さくにこたえてくれる。
頭がいいので、授業でわからないところをきくと、嫌な顔をせずに、教えてくれる。
つまり、別格なのだ。
そんな別格の片桐をしばらく見つめてしまった…俺。
さすがに、片桐も妙な視線を感じたのか…顔を上げた。
俺と目が合う。
「あっ…よお」
片手をあげて、気さくに挨拶してみた。
少し驚いたような顔を俺に向けた後、片桐は視線を本に戻した。
「…」
あまりにあっさりと、視線を戻されたから、俺は結構…ショックを受けてしまった。
(そりゃあ〜笑顔とかは、期待してないけどさ)
俺は席に戻るまでの途中、ずっと片桐の顔を見てしまった。
席についてしまうと、片桐の席は後ろだから、振り返って見つめる訳にはいかない。
顔を伏せた為に、強調される長い睫毛。
その奥にある瞳の色に気付いた時、俺は…片桐に背を向けて座りながら、首を捻った。
(何だ…この気持ちは)
俺の胸に、切なく…やるせなく…そして、深い悲しみが浮かんだ。
(どうしてだ?)
頭は綺麗と認識しているのに、その奥では深い悲しみを感じていた。
自分の体なのに、その理由がわからなかった。
それを知るには、俺には経験が足りなかった。
そうだと気づく経験さえも。
授業中も、片桐のことが気になっていた。
(さっきの瞳は…)
どこかで見たような気がした。
なのに…わからない。
少しもどかしさを感じてしまうが、わからないものは、わからなかった。
心の中で、頭を抱えてしまった。
そんな俺の様子を、斜め前に座る美佳が見ていることに、まったく気づかなかった。
規則正しく鳴り響くチャイムを聞きながら、俺は立ち上がり、後ろに向かって振り返ろうとした。
「太一!」
突然、前から声をかけられた。
反射的に振り向くと、美佳がいた。
「たまには…いっしょに帰らないか?」
「え」
少し照れたように上目遣いで言う美佳の様子に、驚いてしまい…一瞬、動きが止まってしまった。
「帰ろうぜ」
念押しをする美佳。
「…」
無言になってしまった俺の横を、片桐が通り過ぎた。
「あっ」
俺の口から、声が出た。
俺を見つめる美佳の横を、通り過ぎる片桐。
その片桐の姿を、目を見開いて見送る俺。
そんな俺の表情に気付き、少し悲しげな目をする片桐。
だけど、片桐のそんな変化など…俺の目には映っていない。
だから、俺は…片桐が視線から離れると、
思わず手を伸ばしながら、声をかけた。
「片桐!」
俺の声に、片桐の足が止まる。
ゆっくりと振り返る片桐と、道を開けるかのように…顔を伏せる美佳。
「何?」
初めて聞いたかのような…透き通った声に、俺は唾を飲み込んだ。
本当は…いっしょに帰ろうと言いたかった。
だけど、片桐の顔に見つめられた瞬間、出た言葉は…
「気を付けて、帰れよ」
だった。
俺の言葉に、片桐は少し驚いたような顔をした後、
「ありがとう」
と礼を言って、前を向いた。
その時、ほんの一瞬だけ、俺に微笑んだ片桐の表情に、俺の息が止まった。
「た、太一!」
耳元で大声を出され、俺はびくっとして、再び現実に戻った。
「帰るぞ!」
強引に俺の腕を取った美佳は、怒ったような顔をしながら、教室の外に連れ出した。
そして、キョロキョロと廊下の左右を確認した後、片桐が歩いていく方と反対側へ、俺の手を引いて歩きだした。
「何だよ」
俺には、美佳の行動の意味が理解できなかった。
「お前って、やつは!」
美佳に腕を取られ、廊下を引きずられるように外に連れ出された俺。
帰る正門からは、遠ざかっている。
「離せよ!」
俺は、美佳の手を振りほどいた。
「お前が、あんな年増を好きだなんて知らなかったぜ」
美佳は、無理矢理ほどかれた手を見てから、俺を睨むと背を向けた。
「年増?」
俺は…怒ったような様子の美佳の背中に、首を捻った。
「し、知らなかったのか?」
美佳は思わず振り返り、驚いた顔を向けた。
「?」
「へえ〜」
美佳はいやらしい顔をすると、また俺に背を向け、
「みんな…口にはしてないけど、有名だよ。本当は、一つ年上だと」
「そうか…」
俺は、頷いた。
片桐の顔を思い出していた。
あの雰囲気は、年上だからか。
でも、それだけではないような気がした。
あの瞳の色。
「だから…」
言葉を続けようと振り返っ美佳は、ショックを受けるよりも考え込む俺を見て…逆にショックを受けていた。
「だから…」
言葉が続かない。
「う〜ん」
深く考え込む俺を、美佳は無言になって見つめてしまった。
やがて、美佳は拳を握りしめると、
「だから!あんな年増を!」
大声で叫びだした。
だけど、それ以上は言わせなかった。
俺が手で、美佳の口をふさいだからだ。
「そんなことを言うなよ。何か事情があるんだろうし」
そう言った後、俺は手を離した。
「年上とか…関係ないし。今は、クラスメイトだしな」
俺は頭をかくと、歩きだした。
「つまらんことを言うなよ」
少し吐き捨てるように言った俺の言い方に、美佳の瞳に涙が滲んだ。
「お、おれは!」
美佳は離れていく俺の背中に、叫んだ。
「心配してるだけだ!」
その言葉に、俺は足を止めずに、後ろに向けて手だけを振った。
遠ざかっていく俺を、美佳は追いかけることができなかった。
ただ…本当にききたかった言葉だけを呟いた。
「好きなのか…片桐さんのことが…」
だけど、その言葉が、俺に届くことはなかった。