自分より大切な人の為だけに
練習は続いた。
たった一曲の為だけど、美佳を筆頭にバンドメンバーの好意により、練習時間はたっぷり用意してくれた。
初めて合わせてから、1週間が経った頃、俺の歌に変化が表れた。
音と歌声が一体化を持ち…さらに、それらが混ざり合い、一つの塊…つまり、曲になったのだ。
「フウ〜」
熱気を帯びたスタジオ内で、俺は額から流れる汗を拭った。
演奏は、もう完璧に近い。
あとは、本番で緊張しないことぐらいだ。
「お疲れ様」
ジョリーの練習が終わった俺が、スタジオから出ようとしたら、 ドラムセットの中から美佳が声をかけてきた。
「太一!」
「うん?」
俺は、ドラムセットの中を見た。
何か言いたげに、少し口を開けているのに、美佳は言葉に出せなかった。
「?」
俺が首を傾げると、
美佳は息を吐き、力が抜けたように…微笑んだ。
「本番…頑張ろうな」
「ああ」
俺は頷くと、ドアノブを掴み、スタジオから出た。
ドアが閉まる音を確認した後、美佳は大きくため息をついた。
「美佳…」
心配そうなバンドのメンバーに、美佳は笑いかけると、
「みんな!次の曲いくぞ」
美佳は、スティックでカウントを刻んだ。
仕方なく、メンバーもそれに合わせた。
「あとは…ライブ本番か」
最近は、何時に終わるかわからないから、片桐には先に帰るように言っていた。
携帯を持っていれば、連絡できるのだけど…まだ持つ気はないらしい。
だから、俺は…。
自転車乗り場に向かい、自分の自転車を引っ張りだすと、裏口から飛び出した。
急いで自転車をこぐと、俺は片桐の家を目指す。
片桐のアパートの前に自転車を止めると、彼女の部屋をノックした。
「はい」
着替えた片桐がドアを開け、顔を出す。
俺は手短に、今日の練習の成果を伝えると、 頭を下げ、自転車へと戻った。
「上がっていく?」
片桐はいつもそう言うが、俺は家の中には入らなかった。
入りたくないことはない。
だけど、まだ正式に付き合っていない俺が、簡単に中に入るのは、駄目だと思っていた。
2人の手順は、おかしいかもしれないけど、 俺はきちんとしたかったのだ。
彼女に見送られながら、自転車に飛び乗る。
帰りは勿論、国道沿いを走るのだが、 あの女の店の前を通っても、振り向くことはなかった。
今、思えば…何だったのだろうか。
無理して合わせていた日々を、懐かしむことも悔やみこともなくなった。
ただ…悲しみを知り、傷を負ったから、俺は片桐に出会えたと…今は、そう思えるようになった。
ジョリーを口ずさみながら、俺は自転車のスピードを上げた。
日々が過ぎるのは早い。
特に、幸せな日々は…早いのだろうか。
軽音部のライブの日が来た。
たった一曲…ゲスト参加みたいなものだけど、 俺の緊張はピークだった。
一応、一般のお客も入場フリーであるけど、 高校の視聴覚室まで、見も知らない人が入ってくるとは思えなかった。
「まったく…太一やつ」
ライブが始まる…数分前、美佳が俺に電話をかけていたけど、つながらなかった。
何回かコールしていると、後ろから声をかけられた。
「橘さん!もうすぐ始まります」
視聴覚室のドアが開き、廊下にいる橘に、関係者が声をかけた。
「あっ、はい」
美佳は携帯を切った。
ドラマー不足により、美佳は何組かのバンドを掛け持ちしていた。
「遅れるんじゃないぞ」
美佳は携帯をスティックに持ちかえて、ステージへと向かった。
映画館のように、なだらかに下へと下がっていく階段。
その周りにある机の前には、軽音部の関係者達が早くも座っていた。
美佳は、視聴覚室の一番奥に設置されたドラムセットの中に入った。
見上げなければ、一番後ろの扉は見えない。
スティックを指で回し、叩くことなく、寸止めでタイコの配置を確認する。
問題はない。
あとは、演奏するだけだ。
美佳の神経が、ドラムだけに向けられた時、 後ろのドアが開き、総司と正利が視聴覚室に入ってきた。
もうすぐ最初のバンドの演奏が始まる。