忘れるわけない
私は何を、忘れているのだろう。
何か大切なことを、忘れている気がする。
何かが届くような気がする。
そしてそれが、とても待ち遠しい。
郵便受けが気になって仕方がない。
今日は、ハガキが届いていた。
スガイからだ。
学校を卒業したあと、スガイは都会へ出て、そこで仕事をして暮らしているらしい。
ハガキには「彼女ができたぞ。ザマーミロ」と書かれていた。
つい笑っちゃう。
私もあれから、仕事についたり、都会へ出て働いたりして、恋もして、つきあったり、結婚しようかと思った人もいた。
でも何か、忘れているような気がして、また生まれ育ったここへ戻ってきてしまった。
何かを忘れている私が、覚えているもの。
それが「トーノ」という言葉。
何かの単語なのか、名前なのか、はたまた呪文かもしれない。
呟くたびに、胸がしめつけられるようになる言葉。
そして同時に、切ない嬉しさも感じる言葉。
「トーノ」
私は口に出してみた。
「トーノ」
「トーノ、トーノ。…トーノ」
口に出すたび、幸せな気持ちに満たされて、自分を抱きしめるように、体に腕を回して、うっとりと目を閉じた。
その時、温かくやわらかな空気に包まれた気がした。
そっと目を開けると、すぐ目の前に男の人の顔があって、優しく口づけしてくれていた。
ああ…。
途端に涙が溢れだして、その人にしがみついた。
「俺の名前、覚えててくれたね」
「忘れるわけない」
あの口づけの時、そっと名前を告げておいた。
ハドリには、ずるいと言われるかもしれないけど、リサが覚えててくれるかどうかは、わからなかった。
****************
それから、どれくらいの時が流れたのか分からないほど、長い時が過ぎた。
リサは、親も兄妹も友達も、スガイの子も孫も、ひ孫も見送った。
そしてとうとう、リサが本当に長い長いあいだ、待ち続けていたものを、ようやく届けることができる。
数えきれないほど開けてきた、リサが待つ家の扉を、こんな気持ちで開けたのは初めてだ。
出迎えてくれたリサの顔が、驚きと喜びの表情にみるみる変わる。
この手に持っているふたりの宛名がついたベージュの封筒を、一緒に開けよう。