カメラ
父は公務員だった。教師や警察ではなく、役場に務めるごく普通の。それを幼少期から知っていたにも関わらず、僕は具体的な仕事内容を父が他界するまで知らなかった。思えば僕は、父とあまり会話をしてこなかった。幼い頃は仲良く遊んでいたような気がするがその記憶も薄く、思春期に入る前後からは互いに口数も減り、職場に向かう、ヒョロ長くカッチリとした父の背中を眺めるばかりだった。
父の葬儀の最中、こうして父の記憶を振り返った僕は、無性に父のことを知りたくなった。葬儀のあと、残った母と兄で今後について相談し、僕が遺品整理を担当することになった。僕が強く希望したからだ。
父は読書家だったらしく、部屋は本で埋め尽くされていた。お堅い本よりもオカルトやSF本の方が多かったのは意外だった。
片っ端から運び出していると、本棚の奥から数冊のアルバムと、古いインスタントカメラが出てきた。一冊を除いてアルバムには番号が振られている。セットで安かったのであろうそれらは、ぶ厚く膨らんでいた。アルバムはともかくなんでカメラが本棚に、と思いながら番号順にアルバムを捲ると、幼少期の兄の写真が大量に入っていた。時折若い父と母も一緒に写った写真があり、さらに見ていくと僕の写真も混ざり出す。なんとも微笑ましい、家族のアルバムであった。
父の部屋にこんなものが眠っていたことに驚きながらも、僕は夢中で写真を眺めていた。おぼろげな記憶を拾い上げつつ、幼い頃の記憶に浸っていると、すぐに番号付きのアルバムを読み切ってしまった。
感傷に浸りつつ、残った一つのアルバムに手を伸ばす。番号はなく、他のものに比べて明らかに薄い。それまでと違う雰囲気に見るのが躊躇われたが、父のことを知るためだと、軽く意気込んで開く。
開いた勢いで、ページがパラパラと捲れた。何も入っていない。シワのついたポケットもあり、最初から使われていなかった訳ではないようだ。少しばかり拍子抜けした気分でパラパラめくってみると、最後のページに一枚だけ写真が挟まっていた。
知らない男の写真だ。三十代中頃だろうか。ずんぐりむっくりとした、部屋着姿の男が、古臭い一眼レフをこちらに向けて構えている。カメラで顔は隠れているが、穏やかそうな印象の男である。インスタントカメラで撮ったのであろう、大きめの写真だった。恐らく一緒に置いてあったこのカメラだろう。何故この一枚だけ残っているのだろうか。そもそもこの人は誰なのか。色々と疑問はあったが、後で母に聞くことに決めて、そのまま整理に戻った。
整理もひと段落して家族と思い出話に花を咲かせている時、母に聞いてみたが、全く知らない人物であるということだった。父がインスタントカメラを持っていたことも初耳だったようだ。僕はますます気になって、その写真とカメラを東京の自宅へ持ち帰った。
デジタル全盛のこの時代、インスタントカメラを触る機会など無かったもので、とりあえずこのカメラについて検索するところから始めることにした。床に敷かれた布団に寝転がりながら、似たような見た目のカメラ達と格闘すること数十分、分かったことはこのカメラは主要なメーカーのものではないということ、そして恐らくは量産品ではない一品ものであるということである。何せメーカーも品番も書いていないのだ。オーダーメイドなのかもしれない。
一度検索を切り上げ、カメラを手に取ってみる。シンプルな緑のカメラである。構造自体は他のものと大差ないようで、調べて出てきた手順通りに動かせばフィルムを取り出すことができた。半分も使われていないようだ。劣化しているかと思ったが、見たところその様子は無かった。
故障も見られなかったので、適当に一枚撮ってみることにした。部屋を見渡して、被写体を探す。いい歳して未だ独身、男の一人暮らしの部屋である。少しばかり反省した。結局部屋全体を取ることに決め、カメラを構える。
パシャリ。
撮影の余韻を味わいつつ、プリントされた写真を見て、僕は思わず目を見開いた。
そこに写っていたのは、僕の部屋とは似ても似つかない、乱雑にものが置かれた部屋だったのだ。壊れているのかと思いもう一枚撮ってみると、今度は多少汚いものの整頓された部屋が写った。
おかしいと思い何度撮り直しても、その度に違う部屋が写る。もしやと思い、窓の外から見える道へカメラを向けてシャッターを切った。結果、写っていたのは幅も街灯の形も違う、馴染みのない道だった。
どういうわけかこのカメラは、目に見えるものとは違う景色を映し出すようだった。単なる故障ではあり得ない、不思議な現象に年甲斐もなく興奮してしまう。だが、結局のところ知らない写真が出てくるだけであり、すぐに疲れの方が勝ってしまい、そのままベットに潜り寝てしまった。
それから僕は、このカメラの検証という名目で、色々な景色を撮影するようになった。元々好奇心が強い方で、気になったことはとことん調べないと収まりがつかないのだ。家や会社の周辺から、次第に普段行かないようなところまで足を伸ばして撮影を行った。全てが知らない景色ではあったが、一つ、また一つと写真が増えていくのはなんとも言い難い充実感があった。あまり趣味らしいものもなかったので、すっかりこの写真撮影にのめり込んでしまったのだ。
そうしてしばらく使ってみると、細かい仕様がわかってきた。
まず、このカメラはフィルムを消費しない。どれだけ撮っても最初のままである。正直こっちの機能も十分超常の類だとは思うが。
そして、出てくる写真は、その元になった風景と似たものが出てくる。部屋を撮れば別の部屋の、道を撮れば別の道の写真が出てくるように。ただ、そう単純に似たものが出る訳でもないようで、例えば世界遺産の写真を撮ると、全く違う種類の歴史的遺物が写ったりする。以前京都で有名な世界遺産の渋川神社を撮ったところ、湖に浮かぶ金色の和風建築が写っていた。カメラが作った景色なのだろうが、趣味が悪いものだ。最初の頃はなんの変哲もない写真を撮ってはいたが、特徴のあるものを写すとそれに応じたユニークなものが写されると気づいてからは、なるべく特徴的なものを撮るようになった。休日にはできるだけ遠出をして、その地の名所を撮影して回った。大きな門と迫力のある石像、雪が積もった巨大な青い山、都会に聳え立つ紅白の電波塔。不思議で魅力的な景色をいくつも収めてきた。
存在しないものを撮れるというのはなかなか便利なものである。何かと権利にうるさい世の中、完全オリジナルのものは使い勝手が良い。特に人の写真は重宝した。試しに兄を撮影してみたら、姉とは似ても似つかない男が映されており、その写真は営業の資料として使われている。
このカメラのことは母にも話した。母はこう言ったことには昔から興味がなく、母の写真を撮ってみたところ大興奮だった。
しばらくそんな生活を続けていたが、さすがに行ける場所も少なくなり、目新しさも無くなってきた。撮れるものは撮ったし、何か他に撮れるものはないだろうか、と部屋を見回してみると、置物となっていた姿見が目に入った。短く刈られた髪、古臭いスウェット、最近出てきている腹。見慣れた自分の体が映っていた。
これだ、と思った。灯台下暗しというか、自分を写してみるという考えはなかった。自分じゃない自分の写真というのは興味がある。善は急げだとカメラを構え、ピントを合わせる。
パシャリ。
カメラの画面には、短髪の男が写っていた。特に特徴もない、小太りの中年である。
こんなものか、と拍子抜けする気分だった。長くなった髪をかき上げながら、この後の予定を考える。もうこれはいいかな、と手の中のデジカメを見て、首をかしげる。
データは、この一枚しかなかった。