後
翌日、宗二朗は荒川の依頼を受けて寺子屋の帰り、大川手前にある大きな寺院に赴いた。
荒れ寺、と聞いていたがその造りは堅牢であり、静寂と静謐な趣がある。
あの日、鍛錬を勝手に切り上げたことを喜助と共に怒られた。それは納得している。宗二朗も良くなかったと自覚しているのだ。
だが、交換条件のように言いつけられたこの依頼は、別に宗二朗が出向かなくてもいいと思うのだ。子供に大人相手の伝言など頼まず、自分で言えばいいだろう、と思う。もしくは大人に伝言するのなら、同じ大人に頼んでほしい。草の三人はいい年齢の大人たちだろうに、と。
そう、あの日の夜、遠方の仕事に出かけていたはずの寛太が帰宅していたのだ。
仕事が予定より早く終わってしまったらしい。本人は「終わった」しか言わないのだが、口惜しそうにしているため不本意だったことはわかった。
「明日からは宗二朗の鍛錬につきあうのはお前だ」と喜助に指されていたが「お前が言うな」と為八に突っ込まれていた。
そんなやりとりもあって、荒川の怒りも幾分分散されていた気がする。
掃き清められた石畳を踏みながら開け放たれた門を潜るとそこに、武家の姿があった。
見るからにまだ若い。二十を幾つか過ぎたような男だ。荒川よりも若く見えた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
宗二朗を認めると、彼は深々と頭を下げて一礼する。
堅苦しいまでの礼儀正しさと裏腹に、醸し出す空気は優しく穏やかな印象だ。
「お武家さまが荒川のお知り合いですか?」
「まあ、私も知り合いと言えば知り合いですが、宗二朗どのにご足労頂いた理由は他にございます。どうぞ、こちらへ」
案内されるまま、宗二朗は寺院の奥へと向かう。
選定された松の木が石畳の側面に並び、その奥にある庭には桜や楓が程よく配置されている。枯山水の庭もあったし、鯉の泳ぐ池もあった。
かなり大きな寺院だ。
町人暮らしが長く、寺院になど行く機会がなかった宗二朗でさえ、この寺は格式が高いのだろう、と察しが付いた。
ただ、寺院なのに坊主と一度も出会っていない。
この広い空間に、先を行く若い武家と自分以外、誰の鼓動も感じない。
手入れの行き届いた庭と不釣り合いな気がして、宗二朗は不思議に思った。
広い庭園を抜け、奥にある建物の中に促される。
そこでもやはり、人気はなかった。
「奥にどうぞ」
勝手を知りつくたような案内に戸惑いつつ、宗二朗は立ち止まって口を開いた。
「私は作法をよく知りませんので、奥に行くのは遠慮したいのですが」
どこの屋敷でもそうだが、奥に案内されるほど正式な作法とやらが必要になる。
おそらく寺社でも大差ないだろう。
宗二朗も最低限度の知識は与えられているが、伯父の家で教えられるものはあくまでも町人のそれであり、門から近くの部屋でなら誤魔化しがきいても、奥まで進めば相手の不興を買うかもしれない。
「作法のことならご心配なく。私の主も作法には疎いかたで有名です。自分ができないことを相手に求めるほど狭量でもない。それは保証いたします」
そんな保証をされても、と宗二朗は思う。
若い武家の主とやらと、伯父の居候たる自分とが、同じ立場であるはずがない。
そして、主と聞いて更に足が重くなった。
相手は相応に身分のある人物なのだろう。
子供の宗二朗に伝言など頼まず、荒川自身が会えば良いではないか。
そうした悶々とした感情が漏れていたのか、「お早く」と案内役に急かされてしまった。
「無礼打ちになったら、恨みますから」
宗二朗がぼそっと呟くと、若い武家は微かに口元を緩め「そんなことにはなりません」と断言した。
磨かれた板が艶めく回廊をいくつか曲がり、文字通り建物の最奥へと向かう。先程歩いてきた庭の一部や、また違う整えられた庭を眺めるうちに、宗二朗は不思議と、界扉の奥に見た厄界を思い出していた。
花と緑と静寂と。ちらりと垣間見たあの異空間に似ている、そんな気がした。
歩調が鈍くなった宗二朗を振り返った若い武家が「どうかしましたか?」と声をかけた。
「いえ。見たことのある景色と、少し似た感じがして」
「厄界ですか?」
「ご存じなのですか?」
「直接は存じません。ですが、この庭を造ったのは厄介者なので、もしかしたら、と」
彼の意外な告白に、宗二朗は息を呑んだ。
厄介者、その人がいるのなら、宗二朗はもう、界扉の前で厄介物を手に入れる餌のようなことをしなくて済むのではないか、と。
「その方に会うことはできますか?」
「いいえ。しばらく音信不通でして、こちらも探している最中なのです」
「そうですか」
気落ちしながら返事をすると、彼はさらに驚きを重ねるようなことを言った。
「当代クサノオウに、いいように使われておいでのようで」
是とも非とも言い難く、宗二朗は曖昧に笑って返事をしなかった。
なぜわかるのだろう、と疑問には思う。
彼は荒川の知己なのだと言った。だが、宗二朗が荒川と出会ってからまだそれほどの月日は経っていない。最近のことまで知っているのなら、頻繁に連絡を取り合っている親密な相手なのだろうか、と。
「ですが、上手く飼いならしておいででもある」
「いえ、そんなことは決して」
荒川を飼いならすなど、宗二朗には荷が重い。振り回されているばかりだ。
「主も喜んでおられました。先行きが楽しみである、と」
「はぁ……」
単純に面白がられている気しかしない。
宗二朗の顔を見て反応を楽しんでいるような彼の眼は、優し気でいてどこか冷淡な色を宿している。
「本当に当代クサノオウから何も聞いていらっしゃらないのですね」
「何も、とは?」
「この寺は、宗二朗どののために建てられました。界扉も、ここに下ろすはずでした。そして宗二朗どのも、本来ならここで育つはずでした。この場所は、あなたのために用意されたのです。ここの全てはあなたのものです」
彼の突然の告白に思考の処理が追い付かず、宗二朗は混乱したまま「でも、私は伯父の家で……」、と知る限りの生育過程を述べてみた。
「あれがクサノオウが任命されたその日に、あなたを連れて出奔しました。あなたとクサノオウを見つけたのは、行方を捜すようになって十年を超えてからです。母方の兄弟まで調べたつもりでしたが、クサノオウは草を自由に使えたので、情報が錯綜しました。よくまあ今頃のこのこと、連絡などしてきたものです」
「えっと、なんかすいません」
彼から放たれる怒気に、宗二朗は思わず素のままで謝罪した。
「赤子だった宗二朗どのに非はありません。あるとすれば、クサノオウ本人でしょう。あと、あれに手を貸した厄介者、未だ行方不明ですが」
「その二人に、なにか罰でもあるのでしょうか。経緯はどうあれ、私は荒川に助けてもらっています。いま荒川にいなくなられると、私は困ります」
宗二朗は慌てて荒川の擁護をした。
事情を聴くと彼の怒りはもっともだと思うが、だからと言って即刻罰せられても困る。
なにせ彼は宗二朗の守役であり、界扉の番人であり、クサノオウその人だ。
厄払いの現場に立ち会っている宗二朗は、その大変さもよく知っている。
半身の刀でよく、あの異物を切断できるものだ、と感心したこともある。
「嘆願なら、我が主になされると良い。そこの奥座敷で宗二朗どのをお待ちしています」
「あなたの主、ですか……」
胃の腑に重苦しさを感じる相手を教えられ、宗二朗は言いよどんだ。
見知らぬ相手、しかも格式のある武家の当主らしい相手だ。
相手をしてもらえるかどうか以前に、子供の宗二朗では意見を聞いてもらえるかどうかも怪しい。
「ええ、そうです。我が主はあなたの父上です。罰を与える権限は、主にありますので」
「私の、父上?」
「そうですよ。会いたいと願われたのではないのですか? 当代クサノオウはそう申しておりましたが」
そういえば、と宗二朗は思う。
最初の出会い、初めて見た厄払いの後、親について教えてくれ、と頼んだ気がする。
確か荒川は「教えられないが尽力する」と言っていた。
これがその尽力の成果だったのか。
「ええ、確かに」と、宗二朗は頷いた。
「クサノオウの主は、界扉の主。界扉が消えるその時まで、彼の減刑嘆願ができるのはあなただけです、宗二朗どの」
荒川に何度か「主」だと言われていたが、宗二朗はずっと冗談なのだと思っていた。
大人が自分を言いくるめるための方便。
が、いまここで、それが文字通りの主を意味しているのだと知った。
突然、自分をとんでもないことに巻き込んだ男だと、宗二朗は心のどこかで思っていた。
主と呼びつつも、平然と我欲のためにこき使うし、己に利があれば弁も立つ。
意に添わず、無理やり押し切られたことだって何度もあった。
でも、荒川は宗二朗に必要な男だ。間違いなく、彼は宗二朗を守ってくれている。
「私の父上に、会わせてください」
宗二朗は顔を上げ、案内役の若い武家をしっかり見据えた。
どこか怯えを残す声だったかもしれない。
彼はただ微笑した。
「承知いたしました」
どこか嬉しそうな声が、静かな回廊に落ちて溶けた。
宗二朗が導かれて入った部屋には、一人の男が座っていた。
脇息を抱え、猫背になり、鈍く光る衣服に無数の皺をよせ、くつろいでいるのかだらけているのか区別がつかない。
そして、宗二朗の姿を認めると「来たか」と言って手招きした。
どうやら作法に煩くないと言った案内役の言葉に嘘はなく、宗二朗が隣に立つ彼の顔を伺うと、小さく頷かれたので前に進み出た。
上座に座る彼の前に腰を下ろし、頭を下げた。
「宗二朗と申します。初めまして。父上とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「お前が生まれた時に見ているので初めてではないが、父と呼ぶのは許す。面を上げよ」
気だるげな雰囲気だがどうも食えない印象のある男は、尊大な物言いで宗二朗の父であることを認めた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。親の厄を背負った子は、それだけで功績があるのだからな。当然の権利だ」
顔を上げた宗二朗を見て、面白そうに口を歪めた。
「珍しい。お前は母親に似たのだな。道理で、なかなか見つけられぬわけだ」
「家系的に、父親に似た子供が多いので有名なのですよ、この家は」
いつの間にか父と宗二朗の間に座っていた案内役の彼が、補足するように教えてくれる。
「そうなのですか。私には記憶がないので、返事のしように困るのですが」
母だけではない。父の記憶もなかった。この対面でようやく顔を知った。
事情を承知しているはずなのに、父はそういうことに頓着しない性質らしい。
「どこぞで生きているだろうとは思っていたが、まさかこれほど近くにいたとはな。持暇
にしてはよくやった」
相変わらず脇息を抱いたまま、父はどうでもよさそうな笑いを溢す。
「笑いごとではありません」という案内役の抗議を無視し、興味深そうに宗二朗を観察していた。
「私が生きていることをご存じだったのですか?」
「ああ。生活費として用意する金子だけは、毎月寺から消えていた。界扉が消えるのは、扉の主が死んだときか、成人したとき。どちらの跡もなければ、どこかで生きているものと誰でもわかる。なぁ?」
父は案内役に話を振り、彼は彼で頷いた。
「ええ。宗二朗どのが死んだとは思っていませんでした。まあ、最近は探してもおりませんでしたが。ああ、誤解なさらないでください。宗二朗どのの身は案じておりましたよ。ですが、十年以上も界扉からの影響がでていないのなら、探すまでもない時期に差し掛かっておりましたので」
「どういう意味でしょうか」
宗二朗の疑問に、彼は少し考え、そしてゆっくりとした口調で説明を始めた。
「界扉の主はほぼ、成人前に界扉に呑み込まれ、厄介者になると伝えらえてきました。事実、厄介者は今でも数名実在します。そして、界扉は主となる人間を呑み込むと消えてしまいます。そうすると、本来の厄の主、親のほうに証がでるのです。我が主にその証はでていません。ですから、宗二朗どのの生存を疑う者はいませんでした」
いったん言葉を区切り、彼は宗二朗の「はい」という理解を受けてから続きを語る。
「厄介者がその後、どうやって厄界からこの世に戻ってくるのかは、誰に聞いてもわかりません。厄介者自身にもわからないようです。行きたい、帰りたい、と願えば移動ができるらしい、と複数の証言は得ていますが、その仕組みは不明のままです。そして、厄払いを完了させ、成人を迎えた界扉の主というのは、過去の文献を紐解いても数名しか確認されていません。ただ、主を呑み込めなかった界扉は、周囲に甚大な被害を出しながら崩壊するらしい、と記載がありました。ですから、この広い寺が用意されたのです。被害を最小限度に抑えるために」
彼の語る事情を、荒川は知っていたのだろうか。
承知の上で、宗二朗をここから連れ出し、協力者となった厄介者とともに市井に身を隠したのだとしたら、とんでもないことだ。
宗二朗は震えそうになる自分の腕を抑え、続く彼の声に耳を傾けていた。
「界扉の番人、厄を背負った子供の守役にあたるクサノオウは、子供の親が選びます。もともとは自分の背負うべき厄ですから、始末をつけるのも親の役目ということで。ですが、クサノオウを用意されず、生まれて間もなく厄介者になる者も珍しくない。そうした赤子は、死体だけがこの世に残されます。その亡骸から生える厄介物は、厄払いの武器になる。厄払いの武器は、厄介者にしか加工できませんが、かなり高価な代物です。恥ずかしながら、それを目的に見殺しにされる子供も多いのです。厄介者になるにも、ある程度の年齢まで育つ期間、守役であるクサノオウが存在した恵まれた者たちという証。界扉は守役のクサノオウが決めた場所に下ろすと言われていますが、詳細はわかりません。界扉の主たる子供以上に、任命された界扉の番人、クサノオウ自身が死んでいる場合が多いので。クサノオウの生き様は相当な苦痛を伴うようですし、クサノオウ自身が弱ければ厄払いに失敗し、やはり、主たる子供は界扉に呑まれる。ですから、宗二朗どのの年齢まで成長した界扉の主というのは、実に珍しいのです。宗二朗どのは御存じでしょうか? 界扉の主が成人まで生き延びられたなら、どういう存在になるのか、を」
「確か、その家に繁栄や幸運をもたらす存在になる、とか」
荒川に会った時、そんな内容を聞いた覚えはあるが、ゆっくりと詳細を聞いた覚えがない。曖昧な記憶を頼りにこたえる宗二朗に、眼前の父が言い放った。
「その通りだ。だからこそ、いまのお前は生かしてみる価値がある」
「その言い方は誤解をうみますね」
即行で父の言葉を遮り、案内役の彼は宗二朗に笑顔を向けた。
が、宗二朗には理解できた。父の言い分が本音なのだ、と。
父の身分や立場ははっきりとしないが、少なくともこの寺院を用意したり、荒川のような腕の確かな男をクサノオウに据えることのできる家格の当主だと推察できる。
望んでいたのかどうかは知らないが、宗二朗が厄介者になる可能性も、また成人する可能性も考慮したうえで、この場所を用意したのだとすれば、金に困っているとも思えない。
繁栄や幸運を約束された存在になれる可能性の高い宗二朗はいま、利用価値がある。
「例えばそれは、荒川が死んだとしても?」
「当たり前だ。生き延びた界扉の主が無事、成人した界扉の主になれば、お前はこの世で三人目の快挙だ。持暇が無能とは言わんが、比べ物になるまい」
案内役の男が口をはさむ間もなく、父が即答した。なので、宗二朗も間髪入れずに質問を重ねた。
どれほど聞きなくない真実であろうとも、下手に取り繕う言い方で綺麗に誤魔化されたくはない。
宗二朗の父は、求める答えを隠さずに伝えてくれている。
聞きたいことは、父に直接聞いたほうが早いと判断した。
「私の成人とは、誰がどう決めるのですか?」
「人間が決めるのではない。クサノオウが決める。持暇ではない。黄色の花が咲く、界扉の主で初めて成人まで生き延びた人間を守ったと伝わる、あのクサノオウのほうだ。持暇は鉢植えを持っていただろう? あれが満開になる時がお前の成人だ」
ああ、と戸板の前に置かれていた鉢植えを思い出す。
あれの花はかなり咲き誇っていなかっただろうか。しっかりと覚えていないが、黄色の花は増えていたはず。
ならば、宗二朗の成人は自分が思う以上に近いのだ。
もしかしたら、今にも界扉が開いているかもしれない
「父上。申し訳ありませんが、私は急いで戻らねばなりません」
「何故だ? お前は持暇ほど剣を使えまい。体力も足らぬし、足手纏いだ」
「それでも、戻らねばなりません。私は荒川と約束をしました。厄払いの度にその報酬を、その場に残った厄介物の量で決める、と。これまでにも何度か、厄払いに同席しました。荒川が私を守れなかった時は一度もありません」
「今回ばかりは話が違います。主を呑み込めなかった界扉の話をお聞かせしたはずです。宗二朗どのは、貴重な三人目になる可能性が高い。少なくとも今は安全な場所で、結果を待つほうが無難と心得てください」
宗二朗が立ち上がろうとしたとき、案内役の男がそれを止めた。が、父は面白そうに宗二朗を見ている。
「ということは、最後の厄払いがもう、始まっているのですね」
しまった、というように眉を寄せた男を無視し、宗二朗は立ち上がる。
「私は戻ります。止めても無駄です。あの界扉の主は私です。扉の開閉は、私の意思が何より優先される」
「どういうことだ?」
父が真面目に問うので、宗二朗も答えざるを得なかった。
「何度か厄払いに同席して、私にもわかったことがあります。界扉の開いた先に見える厄界に、何度も心を奪われました。何度も誘われ、何度もあの場所に行きたいと思いました。でも、最後に正気に戻った私が拒絶すると、界扉は必ず閉まります。おそらく偶然などではない。主が拒絶するから閉まるのです。荒川一人では、どれほど腕が立とうと界扉は容易に閉まらない。番人はあくまでも番人であり、閉めるのはおそらく主の役目です。主が逃げたら、番人であるクサノオウは死ぬだけ。私は荒川に死んでほしくはありません」
「主命を無視し、お前を市井に放り投げた張本人だぞ。持暇の不義理は死んで詫びても足らぬくらいだ。それでもか?」
「はい」と、宗二朗は父に向って即答した。
「確かに、私は伯父の家で肩身狭く生きてきました。嫌なことがなかったと言えば嘘になる。ですが、知っています。私は守られていたのだ、と。案じてくれている誰かがいたのだ、と。その象徴が荒川です。彼を死なせてしまっては、私は一生後悔します」
「なに後悔することがある。生き延びたお前は厄払いの功績を認められ、跡目の一人として正式に披露される。確かな身分も手に入る。それでは不足か?」
「生き延びた私に褒賞をくださるというのなら、荒川と、彼に協力した厄介者の助命をお願いいたします」
「身分は要らぬか?」
「今までなくとも不足なく生きてきました。これからも必要になると思えません。あ、荒川からの伝言です。『拙者は初めて、感謝してやってもいい、と思った』と。では、失礼いたします」
言いたいことだけ言い捨てて、宗二朗は立ち上がった。誰かが制止の言葉を放つ前に背を向け、走り出す。
言葉通り、足音荒く駆けていく宗二朗の背を見送りながら、宗二朗の父にあたる男は「ふん」と鼻を鳴らした。
「軟な見かけと裏腹に、意外と剛毅だな。将軍家の跡継ぎに興味がないと言い切るとは」
抱きかかえていた脇息を離し、手元に置いてひじを乗せ、はぁ、と深く息を吐く。
「……そして持暇は、相も変わらず偉そうだな」
怒っている様子はなく、面白そうに笑い飛ばしていた。
傍らに控える若い男が「上様」と声を上げる。
「おそらくあの方は、自身の父親が将軍その人だと存じませんよ。どこかの武家の当主程度に思っていらっしゃると感じました。それよりもなぜ、宗二朗どのをお止めしなかったのですか? 折角あの年まで生き延びたものを」
「それを余に問う前に、お前もなぜあれを止めなかった。腕力でなら、お前でも止められただろう? やはり、兄の命は惜しいか?」
「まさか。兄を跡目から引きずり落した私が、今更惜しむわけがありません」
「強すぎる剣は平和な時代に不要」と言って、持暇を失脚させたのは、彼の父と弟の二人。それに手を貸したのは宗二朗の父その人。
それほどに荒川持暇という男の刀は早く鋭く重く、群を抜く強さを誇っていた。
その腕を買われて将軍家に仕え、宗二朗の父に仕えていた。
だが、彼は強すぎた。
剣だけが強かったのではなく、その精神も強かった。
朱に交わっても一人、清廉な精神を保って周囲から浮くほどに。
小細工も媚もなく、ただ一人、凛と立つ姿は、周囲との軋轢を生んでいた。
「兄を惜しいとは思いませんが、宗二朗どのの真摯さは微笑ましいと思いました。私はとうの昔に失い、それを無くしたことにも気づけませんでしたが」
彼の独白に「そうか」と主は頷いた。
「誰しも生まれるとき、生まれる場所、生きる環境を選べぬ。一つの道しか許されなかった余にとって、持暇は良心そのものだった」
嘘がなく、媚もなく、率直に苦言を呈する。そんな相手は彼以外にいなかった。
耳に痛いこともあったし、鬱陶しく思ったこともあるが、彼の言葉だけは素直に信じられた。
過去を振り返り、持暇の評価をすると、こういう言葉しか出てこない。
そんな告白をする主を見て、側近の若者は首を傾げた。
「では、なぜ上様は兄の失脚に手を貸してくださったのですか?」
「死んでほしくなかったから、だ」
「致死確実と言われるクサノオウに任命なさっておられたのに?」
「持暇ならどうにかするだろう、と思っていた」
少なくとも、荒川の家に戻せば確実に死ぬ道を用意されていただろう、と確信していたから、とは口にせず、宗二朗の父は小さく笑う。
生まれたばかりの子供を理由に、持暇に密命を与えた。
子供は口実だった。少しでも長く生きていてくれたら、と思っていた。
「だが、まあ、あれが大事にしてくれるのなら、それでいい」
二人とも意外にしぶとく、意外に気が合っている様子。
「もしも界扉の主と番人が揃って生き延びたら、史上初の快挙ですね」
主と番人、両名が生き延びた例は一度もない。必ず片方が死ぬ。悪ければ両方が死ぬ。そして、守役が生き延びることはありえない。
それは番人であるクサノオウが背負う業だと思われていた。
「上様はどう思われますか? 私は案外、二人揃って生き延びる快挙という結末に賭けてみたいと思うのですが」
「結論が同じでは、賭けにならん。お前は二人揃って死ぬほうに賭けよ」
「横暴ですね。拒否してもよろしいですか?」
「ならん。主命である」
本気とも冗談ともつかない軽口を叩きながら、残された二人は動かなかった。
ただ祈りながら待つことしかできない時間をどう過ごすのか、模索している最中だった。
広い回廊を早足で抜け、長い石畳を踏みしめ、寺の門を転げるように飛び出し、長屋を目指して宗二朗は走っていた。
界扉の開く速度は遅い。
前触れに風が吹く。徐々に強くなる。
宗二朗が傍にいなければ、数日かかると言われていた開閉。
全開するまでにたどり着けば、主たる宗二朗の意思が勝つはず。
走る最中、色々な出来事が脳裏をよぎる。
初めて荒川に殺気を向けられたこと。
自分の生まれに意味があったこと。
守役という存在も、界扉の存在も、厄界という異世界も知った。
巻き込まれた、と思っていたが、実は自分の宿業に彼を巻き込んでしまったのかもしれない、と今は思う。
味のない厄介物しか食べられないのが不満だと言っていた。
もっと、変化させたものを食べさせてやればよかった、と今更ながらに思う。
宗二朗と再会するまでずっと、彼は不味い厄介物を食べながら厄払いをしてくれていたのに。
少し考えればわかったはずなのに、初回で倒れたこと言い訳に逃げていた。
運動は得意じゃなかった。もっと体を鍛えろ、という荒川の助言を無視していた。
こんなことになるのなら、鍛えておけばよかった。
湧き上がる後悔に押しつぶされそうな心を抱え、宗二朗は懸命に足を動かす。
呼吸が苦しい。脇腹に重しを乗せられたような鈍い痛みを感じる。
片手で腹を押さえながら、宗二朗は前だけを向いていた。
なぜ、自分の歩幅は大人のそれよりも小さく、伸ばす腕の距離はこんなにも短いのだろう。
自分が子供であることがこんなにも悔しいと思ったのは初めてだった。
見慣れた通りまで出ると、ほぼ直線に進む。
少しほっとした瞬間、草履の鼻緒が切れた。
迷う暇もなく、草履そのものを脱ぎ捨てた。
あとで細君に怒られるかもしれない。伯父にも叱られるかもしれない。
でも、履いている足袋の底は雲斎織で丈夫なはずだ。
宗二朗は足袋で地面を蹴り飛ばす。
息が苦しい。脇腹も痛い。たまに踏む小石で身体が傾く。
それでも、足を止めようとはしなかった。
神無の長屋まで、あと少し。
ああ、この時間帯、人が少ない場所で本当に良かった。
宗二朗の行く手を阻むほどの人波はなく、まばらに行き交う商人が、汗を流して走る宗二朗を不思議そうな顔で振り返り、見送る。
なぜ、自分はこれほどに急いでいるのだろうか。
荒川を助けたいから?
それもある。
自分のせいで誰かが死ぬなんてこと、あって良いはずがない。
それよりも、彼に死んでほしくない。
間に合え、間に合え、と心が騒ぐ。
宗二朗は一生懸命に最短距離を考えていた。
幸いにして目的地は慣れた場所、慣れた道。裏道も細道も頭に入っている。
そうだ、真っすぐ行くだけが道ではなかった。
他人の家の裏木戸から違う通りに抜け、塀を超えて長屋の裏に出たほうが早い。
知っていたけれど行ったことがない道を、宗二朗は選んだ。
「すいません、失礼しますっ!」
掠れた声だけを残し、他人の家の庭を通り抜けた。
その先にある通りは細く、近隣の住人しか通らない。
昼と夕方の中間、というこの時間、人気がないその細道を抜け、塀に突き当たった。
長屋を囲む木製の壁は頑健に見えるが、宗二朗は知っていた。左から三番目の板は腐っている。いつか伯父に告げて補修を頼もうと思っていた箇所だ。
その左から三番目の板を、宗二朗は遠慮なく蹴飛ばした。
派手な破壊音とは逆に、板は簡単に割れた。
その隙間を、宗二朗の小さい身体は容易に潜る。
着物のどこかが引っ掛かり、破ける小さな悲鳴が聞こえた。
行儀だの作法だのというものはもう、気にしていなかったので無視する。
長屋の裏に出た宗二朗は、そのまま戸板の並ぶ表に駆けて行った。
揺れる鉢植えの黄色の花が目に入る。
長屋にはまだ、何の影響も出ていない。
間に合った、と宗二朗は確信した。
「宗二朗? お前、どこから?」
鉢植えの前で座りこんでいた喜助が、宗二朗を見て驚いた顔をする。
それはそうだ。長屋の入り口、木戸は宗二朗が出てきた方向の反対側にある。
喜助の疑問に答える猶予はない。
宗二朗はあえて答えず、思わず立ち上がった喜助の前で要件だけを告げた。
「そこを、退いてください」
「ダメだ。旦那に誰も入れるな、と言われている。特にお前を近づけるなと厳命だ。だから木戸の前には寛太と為八が逆方向を向いて立っていたはずなのに……」
喜助の答えに、宗二朗はやはりそうか、と理解した。
自分がなぜこの日、あの寺に行かされたのか。
荒川は今日、最後の厄払いがあることを知っていたのだ、と。
「いいから早く退いてください、喜助さん」
「ダメだと言っている。ほら、大家の所に帰れ」
「うるさいっ! 退けっ!」
自分を掴もうと伸ばした喜助の腕を払いのけ、宗二朗は力の限り怒鳴った。
無力な自分が情けない。知ろうともしなかった自分が不甲斐ない。
この日、この場所まで戻ってきたのは、誰のためでもない。自分のためだ。
宗二朗の意外な反応に固まった喜助をよそに、宗二朗は足元の満開の花を咲かせた鉢植えを持ち抱え、叩き落した。
鉢植えは甲高い打楽器に似た音と共に割れ、土と根が空気に触れ、咲いていた花は震えるように揺れる。
この鉢植えがクサノオウの任命になるのなら、失くしてしまえばいい。
短絡的にそう思っての行動だった。
宗二朗の顔と着物に、黄色の斑点が無数に浮かんでいた。
全身にかかる小さな黄色い液。それは、鉢植えを割ったとき、地に落ちたクサノオウから飛んできたものだった。
「本日をもって、クサノオウは解任する。同じく草も解任だ。私こそが界扉の主。私が界扉を封印する」
だから一刻も早くそこを退いてほしい。
立ちふさがる喜助を前に、宗二朗はそれだけを思っていた。
「……できるのか? お前に?」
喜助は怪訝な顔で宗二朗に問うた。
そこには不安や疑心とともに、少しだけ期待も浮かんでいた。
「できるかできないかじゃない。やります」
そのためにここに来た。できるだろうか、なんて不安は微塵もない。なにがなんでも封印する。
強い決意とともに宗二朗は喜助を見上げた。
視線と視線がぶつかり合う。
「どうやらおれは、クビになったらしい。だから、仕方ねぇよな」
喜助はやや大仰に溜息をついたあと肩をすくめ、身体を半身捻り、ふさいでいた戸板の前を宗二朗に見せて苦笑した。
「はい。その通りです」
宗二朗も頷いて同意する。
そう、先程、宗二朗が告げたのだ。クサノオウも草も解任する、と。
「これは喜助さんのせいじゃなく、止めようがなかったこと、です」
宗二朗は答えながら、荒川の部屋の戸板に手をかけた。
厄払いの最中に部屋の戸を開けたことはない。外がどうなっているのか、なんて知らない。
ここを開けた途端に、なにが起こるのかもわからない。
なにかあったら、すべて宗二朗の責任だ。
それを承知の上で、宗二朗は戸を開けた。
漆黒の闇が見える。見慣れた厄払いの空間がそこにあった。
額から垂れてきたクサノオウの飛沫を、宗二朗は袖口で一度拭った。
そして、迷うことなく足を踏み入れた宗二朗の耳に「死ぬなよ」という喜助の声が聞こえた気がした。
漆黒の空間に入った途端、いつもの暴風が宗二朗の全身を拒絶するように強く押す。
厄払いはまだ終わっていない。
宗二朗は壁を伝いながら、奥座敷にある界扉を目指して進んだ。
狭い室内のはずなのに、少しの距離が酷く遠い。
ただ、界扉が開いているのは宗二朗にもわかった。
少し遠くに眩く穏やかな空間が、相変わらず宗二朗を招くように広がっているのが見えるから。
そして、壁の上部で光を放っていた草が、不気味なほどに太い蔦のようなものになり、あちこちに先端を伸ばしている。それが暴風に揺れているのではなく、意思をもった生き物のように、ゆっくり、ゆっくりと壁や天井を這って動いていた。
ぶん、と暴風とは違う、空気の鳴る音が響く。
あれは剣圧だ。幾度も聞いた、荒川の剣が鳴る音。
なのに、姿が見えない。
「荒川? どこにいるんですか?」
「……その声、宗二朗どのか? なぜ、ここにいる。親子の対面はどうした? 積もる話があったのではないのか? まさか、相手が来なかったのか?」
「いいえ、ちゃんと会いました。荒川の伝言も伝えました。私は、自分で望んでここに戻りました」
姿を見つけられないまま、宗二朗は答えた。
「引き止められなかったのか? あの馬鹿殿め」
舌打ち交じりの声が響き、宗二朗は顔が見えないのに眉間に深く皺を刻む荒川の顔を思い浮かべることができた。
「いいえ。確かに止められました。でも、荒川との約束を思い出したので、戻ってきました。私がいないうちにした厄払いの報酬、勝手に決められると困るな、と思って」
ふと、宗二朗は自分の足元に見覚えのある厄介物を見つけ、その傍らに膝をついた。
先端が歪な楕円形なった半身の刀。荒川の厄介物だ。
彼の姿は見えないが、おそらくこの近くにいるのだろう。
「……そうであったか。最後の最後に内緒でふんだくってやろうと思ったのだが、残念だ」
苦笑交じりの荒川の軽口が、近くで聞こえた。素直じゃない物言い。
なのに、姿は見えない。
不思議に思いながらも、宗二朗は彼の気配を感じていた。
「荒川、私にはあなたの姿が見えません。でも、厄介物の刀は見えます。近くにいますよね?」
「ああ。拙者も宗二朗どのの姿は見えぬ。だが、刀は手にしている。これが見えるのなら、刀の右側には寄るな。咄嗟に切りかねん」
「わかりました。で、荒川はなぜ、床に手をついているのですか?」
宗二朗のやや近くに見える刀は、捨てられたかのように無造作にあった。この持ち手を荒川が握っているとしたら、座っているか床に手をついているかのどちらかだろう。
「これか。つい先ほど、突然厄払いの対象が見えなくなってな。拙者としたことが吹き飛ばされたわ。いや、なぎ倒されたのかもしれんが」
それは、少し前までの宗二朗に当てはまる。
厄払いに同席していた時、宗二朗には厄界から来るという厄災の姿が見えなかった。
少し苦しそうな荒川の声に、負傷したのかもしれない、と宗二朗は思った。だが、姿が見えないので黙っていた。
界扉は開いたままだ。厄災はまだ、払われていない。
「荒川。私は界扉を閉じようと思います」
「どのようにして? 方法でも授けてもらったか?」
「いいえ。ですが、私たちが一番最初に出会ったとき、あの厄払いを思い出してください。私には厄界からくる厄災が見えませんでした。でも、界扉の奥にある厄界は見えました。でも、荒川には厄災は見えても厄界は見えていませんでした。そして、私が拒絶して、界扉は閉じました」
「そうだったな、で?」
「今の私には、界扉の奥にある厄界が見えています。そして、この部屋のいたるところから奇妙に伸びる、半透明の蠢く大きな蔦のようなものも見えています。もしかして、これが厄災なのではないのですか?」
宗二朗の疑問に荒川は少し沈黙し、やや間をおいてから「おそらく」と答える。
「拙者に見えていたのは、あの奇妙な形の厄介物が連なった不気味ななにかであったが、人によって見える形が違うのなら、おそらくはそれが宗二朗どのに見える厄災だろう」
「私には、壁一面に自生していると聞いた、あの発光植物が肥大化した姿に見えます。最後の厄払いに最大級の厄災がおりるというのは、もしかして、今までの厄払いで払い損ねた、この微細な厄災の積み重ねが、厄界と呼応するからなのではないのでしょうか」
厄災にしてみれば、厄界に帰ることができる最後の機会だ。
界扉は宗二朗を呑み込んでも消えるし、宗二朗が成人しても消える。
界扉の開閉は、帰還の機会だ。
あれが厄災ならば、元の姿に戻り、界扉に影響を与える主と番人を始末してしまいたいだろう。最後とあらば、是が非でも。
宗二朗の推察を聞いた荒川は、「ありえるな」と答えた。
「いつもなら、厄災は正面からだけ来る。だが、今回は縦横無尽に現れ、かなり手古摺った。だが、ならばなぜ、宗二朗どのを連れて行こうとせぬのだ? いつもはそうするはずだ。厄災は、界扉の主を目指しておりてくる」
「わかりません。ですが、私を認識はしているようです。茎の先端が近くまで寄ってきますが……」
一定距離を保ってそれ以上は寄ってこない。
「宗二朗どの、ちょっと待て。先程から、なにか匂うな。厄災は本来、無味無臭のはずだが……」
それは長年、厄払いをしてきた荒川にだから言えることだった。
厄払いで匂いなどしたことがない。残された厄介物を食べても味などしない。
宗二朗が厄介物を無意識に変化させるまで、荒川はそれが普通だと思っていた。
「すいません、それ、私かもしれません。寺からずっと走ってきて、汗が止まらなくて……」
まだじわりと滲んでくる汗は緊張によるものだったが、宗二朗の汗は止まっていない。
「違う、そうではない。なにかこう独特な、薬のような匂いだ」
「じゃあ、クサノオウの飛沫ですかね。戸板の前に置いてあった鉢、勢いあまって割りました。すいません。その時に跳ねてきて、全身にかかったんです」
「それだ、宗二朗どのっ!」
ざっ、と音がして、目の前に見えている半身の刀が宙に浮いた。
「拙者はずっと不思議に思っていた。界扉の番人、主の守役であるクサノオウに、なぜあの植物が渡されるのか、を。草を使う権限だけならなにも、守役自ら植物を育てる意味がない。満開になれば最後の厄払いが始まる、と聞いていたので、目安にはなるだろうと思うが、それまでに死んだ守役のほうが多い。ならばなぜ、生き延びた初代はクサノオウを伝えたのだろうか、と」
「なぜなのですか?」
宗二朗は姿の見えない荒川に尋ねた。
「拙者に渡されたクサノオウの鉢は、戸板の前に置いてあった」
「そうですね」
「厄災は、戸板より外には出ていかなかった」
「はい」
「そして今、厄災は界扉の主である宗二朗どのに近寄れないでいる。おそらくクサノオウは、厄払いに有効なのだ。厄災は植物のクサノオウに近寄れぬ。だから、クサノオウは番人である守役に渡される。実際に厄払いをするのは、界扉の主になる子供ではなく、番人たる守役だから。番人が死なぬ限り、厄災は主の子供まで到達できぬ。もしも番人が厄払いに失敗して死んだとしても、主たる子供がクサノオウを持っていたのなら」
「助かる可能性が高い」
「そういうことだ」
生き延びた初代の子供はおそらく偶然、厄払いに有効なクサノオウの存在を知ったのだろう。だから、クサノオウを伝えた。
どのような効果があるのか、説明できるほどには知らなかったのかもしれない。
ただ、これのおかげで助かった、という証言は伝わっている。
「宗二朗どの。我等のどちら、必ず生きて戻る必要ができたな」
「ええ。クサノオウの意味を、正しく伝えることができます。でも、どちらかではありません。ここまできたら、二人で生きて戻りましょう」
「その心意気は嬉しく思うが、拙者はどちらにせよ長くは生きられぬ」
「生まれて間もない私を連れて、行方を晦ませたからですか?」
「聞いたのか?」
「ええ。ついでに私、あなたの減刑嘆願もしてきました。厄払いを完了させた褒賞をくれるのなら、荒川と協力した厄介者の命を助けてくれ、と父上に」
宗二朗の告白に、荒川はしばらく答えなかった。
「拙者は、……恨まれるのだと思っていた」
誰に? と、聞くまでもなく、対象は宗二朗を指している。
「なぜです?」
「宗二朗どのが町人暮らしで苦労したのは、拙者の咎なのだ。本当ならば、宗二朗どのはあの寺で養育され、もっと武家らしく育つはずだった。勉学も作法も武芸も、専用の師が用意されるはずだった。あの社の主として、苦労などと無縁に育っただろう」
無駄に広い、としか言いようのない寺の境内と社を思い出し、宗二朗は頷いた。
「そう、かもしれません」
あれほどの建物を用意し、荒川を守役にあてることができる父なら、宗二朗の養育にだけ手を抜く、ということはあるまい。
「クサノオウを拝命した拙者は、殿に似て育つであろう男子を見ながら、その子が背負うはずの界扉の番人を務めるのは難しい、と思ったのだ。拙者に罪を被せた殿と似た面差しを見ればいつかきっと、厄払いの手を緩めてしまいそうな気がした。だから、宗二朗どのを連れてあの寺を出た。宗二朗どのを伯父に託し、界扉はこっそりここにおろた。厄払いを続けていれば、拙者の役目は十分だろうと思っていた。だが、違った」
荒川の告白に、そういえば案内をしてくれた若い武家が、父の家系は似た顔が生まれることで有名だ、と言っていたことを宗二朗は思い出した。
父に遺恨があるのなら、似た顔の子供を見るのは嫌だろう。その子を守り育てることも、苦痛だろう。
「食べ物を融通してくれていた厄介者と連絡がつかなくなり、飢えた拙者は、仕方なく宗二朗どのに会った。だが、宗二朗どのは殿の面差しはかけらもない、似ても似つかない顔の子供だった。そして、伯父の家では肩身が狭い、先が見えないと泣いていた。そんな思いをする必要は、どこにもなかったはずなのだ。すべては拙者の我儘故。先の短い拙者にできる償いは、せめて厄払いを最後まで完璧にすることだけ」
「先が短い? なぜです?」
「殿の密命を無視し、行方を晦ませ、長く音信不通であった。界扉の主を生き延びさせたとしても、沙汰は良くて切腹だろうに」
武家の仕組みに絡めた荒川の考え方は、町人育ちの宗二朗には理解しがたかった。
荒川を死なせることなど考えていない。
もしも自分が生き延びられたなら、関係した二人の命を助けてくれ、と宗二朗は確かに願ったのだ。
褒賞をくれるというのなら、功績のある人間の意思を無視する意味がわからない。
「くだらないことを考えていないで、守役なら最後まで私を守ってください。私も荒川の主として、最後まであなたを見捨てるようなことはしません。幸い偶然にも、クサノオウの匂いをまとって私はここにいる。私はこのまま界扉を封印します。あの扉を完全に閉めて、終いにします。あなたは襲ってくる厄災から、私を守るのです。これが最後なら、相手も死に物狂いで襲ってくるでしょう。生き延びますよ、二人で。腹を切るためではなく、これからも生きるために、です」
宗二朗は必死に言葉を紡いでいた。
生きることを勝手に諦めてしまわれては困る。捨て身になって守ってもらうのも困る。
宗二朗は荒川を盾にして生き残りたいわけではない。
声しか聞こえない今、姿が見えない今、伝える手段は言葉しかない。
しばらく動かなかった荒川の刀が切っ先を上げ、開け放たれた界扉の正面に向けられる。
そしてようやく、返事が聞こえた。
「拙者を生かせば、宗二朗どのはこの日のことを後悔するぞ」
「なぜです?」
「自慢ではないが、拙者は強い。幼い頃から負け知らずだ。誰も拙者についてこれず、肩を並べる者さえいなかった。強すぎる剣は毒だと言われたこともある。生まれる時期を間違った、とも。そして自分でもそう思う。誰も拙者を殺せないのなら、誰かが死を命じるしかない。その嫌な役目を、宗二朗どのの父上が担った。それを知ってなお、拙者は面白くなかった。毒だ、害だと言われる強さを、望んで手にしているわけではないのだから、それを理由に死ねと言われても承服いたしかねる。だが、宗二朗どのには本当に申し訳ないことををした。拙者の我欲を優先し、生き方を歪めてしまった。其方を守って死ぬのなら、拙者も納得できたのだ。それなのに、拙者に生きろと申されるか」
静かな荒川の声には、深く重い彼の苦悩が滲んでいた。
荒川自身、生きるのが苦痛だったのかもしれない。
抜きん出て秀でる、というのは、凡人と違う苦悩を背負うことかもしれない。
十年以上も宗二朗本人に気付かせず守り切った腕は、確かに強いのだろう。
今もなお半身の刀で厄災を払えるのは、おそらく荒川くらいだ。
でも、と宗二朗は思う。
「自惚れないでください。まだ、最後の厄災を払っていないのに」
界扉はまだ開いたまま、いつでも宗二朗を招き入れようと美しい桃源郷に似た幻影を映している。暴風は止まず、壁を伝う巨大な蔦は、時間を経るごとに太くなっている。
「この先、私が後悔するか否か、私が決めることです。あなたの苦悩も、この場を終えてから考えても遅くはない。なにより嫌なのは、勝手に私を死ぬ理由にすることだ。私は何度も、あなたに生きろと言っているのに」
大人は誰も彼も、いつも揃って勝手なことばかり言う。
宗二朗の意思など、碌に聞いてくれない。勝手に与えて満足する。
今もそうだ。勝手に危険から遠ざけて守ったつもりでいる。
それで荒川が死んだなら、宗二朗がどう思うのか、誰も聞かない。
この部屋で最初に厄界を見た時、荒川は宗二朗に聞いてくれた。「なにが欲しい」と。
一方的に与えるのではなく、宗二朗の意思を聞いてくれた。
だからこの男には、言っても良いのだと思った。本心を、本音を、弱音を、願望を。
「今から界扉を私の手で閉じる。あの奥座敷の襖を目指して、私はここから真っすぐに向かう。厄災は私を襲うだろう。荒川は生きたまま私を守れ。厄災が見えずとも必ず守り切れ。己で豪語できるほどに強いのなら、私の前でやってみせろ。そのあとでもし本当に死にたいのなら、今度は私が死を命じてやる。だから今は死ぬんじゃない、生きろ」
自分でも、奇妙なことを言っている、と宗二朗は思った。
死にたいのならあとで死んでもいいから、今は生きろだなんて、矛盾している。
荒川の返事はなく、界扉に向けられていた切っ先がゆっくりと下に落ちていった。
あちこちで轟、となる風の中、宗二朗は見えない守役の姿を探す。
この半身の刀の先にいるはずの彼を、その声を、逃してはいけないと神経をとがらせていた。
かちり、と金属が鳴る。鍔鳴りだ。
「御意」と、低い声が響く。
「大して回らぬ頭で考えても時間の無駄だ。拙者もあとでゆっくり考えるとしよう」
死の願望を捨てた男の声に、宗二朗は我知らず口の端をあげてた。
この状況から二人が生きて戻るには、無駄な荷物を背負っていては無理だ。
迷いだったり悩みだったり、当たり前に人が抱える感情を上回る生への執着が必要だ。
宗二朗は界扉を閉じる。
荒川は宗二朗を守り切る。
目的は単純なほど明快なほうがいい。
「では、行きます」
宣言した宗二朗が一歩を踏み出す。泥の付いた足袋がささくれ立った畳を踏み、浅く抉る。
荒川に宗二朗の姿が見えずとも、足跡なら見えるだろう。
宗二朗の意図を解したのか「ああ」という返事の後、背後に気配を感じた。
それは懐かしく温かく、背を預けるのに不足のない男の声だった。
室内は暴風で荒れ果てていた。
壁には亀裂が入り、障子の紙は破れ、ひっくり返った畳もある。
徐々に太くなる半透明の蔦が、宗二朗に狙いを定めていた。
もともと壁に根を張っていた植物だ。界扉以外の全てを覆うように、四方を取り囲んでいる。
近寄れないのはやはり、クサノオウの効果なのだろう。先端を伸ばしては引っ込める、進んでは後退する、を繰り返し、宗二朗の腕よりも太い蔦が行く手を遮るように空中を塞ぐ。
直接触れられないのなら、行く手を遮る作戦か。
「荒川、界扉の二畳分前に厄災がいます。斜め格子に絡まり、界扉まで近づけません」
「承知。宗二朗どのは動くなよ」
不可視の誰かが宗二朗の隣を過ぎて前に出た。
今の宗二朗にはなぜか、厄災と荒川の放つ気配の違いが明確にわかる。
厄災はとても美しい。だが、異質なものだ。
こう言ってはおかしいが、宗二朗には厄災の姿を見るようになってから、彼らの意思が聞こえるような感覚があった。
帰りたい、還ろう。一緒に、あの世界へ。
気を抜くと頷いてしまいそうな誘惑に、宗二朗は耐えていた。
荒川は姿こそ見えないのに、その鼓動を感じている。息遣いが聞こえる。彼の意思が、次の動きがどうなるのか、宗二朗には予測できた。
宗二朗の前に、半身の刀が浮かんでいた。見慣れた荒川の厄介物。
あれは今から、上段から下段に落ちるのだ。そして、下段から斜めに逆風を描く。
ぶん、と空気のなる音、彼の剣圧が響く。その一瞬で刀の軌跡が光の筋になる。
「これで良いか? 宗二朗どの」
「はい」と答えた瞬間、宗二朗の腕をなにかが掠めた。
袖口が切れ、腕がのぞく。そこには赤い線が走り、見る間に血があふれて腕を伝う。畳に落ちた血を眺め、それが自分のものだと自覚する前に、痛みが走った。
頬、足、甲、背中、ほぼ同時に攻撃を受ける。
どこから、なにが? と思う間もなく、体中のあちこちが痛かった。すべて似た鋭い痛みが、一つ一つは小さくとも、数を重ねて激痛に近い。
思わず膝をつきそうになった宗二朗の頭上を、半身の刀が音を立てて掠めていった。
「宗二朗どの、無事か? こいつらなにか、飛ばしているのであろう? 風の流れが変わった。血の匂いがする」
荒川は本当に強いのだな、と宗二朗は思った。
知っていたけれど、その剣は自分に向けられない。
自分の足元に落ちた無数の葉を見て、宗二朗は感心していた。
自分に直接触れることができないから、葉を飛ばしていたのか。
宗二朗が気付く前に、荒川が気付いてこれを止めてくれたのだ。
「荒川が防いでくれたので大丈夫です」
自分の眼前にある半身の刀に触れ、宗二朗は告げた。
刀身に血がついた。もう、どこの傷口から流れている血なのかわからない。
背中が酷く痛む。そうか、クサノオウの飛沫は、正面からしか浴びていない。背後は盲点だった。
変に納得しながら、宗二朗は歩き出した。
荒川の切った蔦の壁の隙間から、開いている界扉が見えた。
宗二朗の役目はこれからが本番だ。
厄払いができる武器で切られた厄災は、元に戻らないのだろう。他のまだ蠢く蔦と違い、荒川の切った蔦は動きを止め、瞬く間に茂っていた葉を、ぼとりぼとりと床に落としていた。彼が切り開いた部分だけは安全なはず。
宗二朗は見える界扉を目指し、歩を進める。
一歩進むたび、全身が悲鳴を上げた。慣れない痛みに、涙が出てきた。思わず足を止めたくなる。
たった数歩の距離が、とても長く感じた。
荒川が切った蔦の前に立つと、宗二朗は一度立ち止まった。
「背後を頼みます」
少しくぐもってしまったしまった声に、苦痛は乗せていなかっただろうか。
気遣わないでほしい、と宗二朗は願った。
見栄を張りたいときがあるなら、今この瞬間がそうだ。
傷ついていると知られたくない、立ち止まりそうになったと気付かれたくない。自分が子供でまだ弱く、足手纏いなのは承知しているが、この時だけは荒川と対等な立場で居たかった。
「任せろ」
彼の返答は一言だった。
きっとあの、凶悪な面構えで不敵に笑っているに違いない。
そんな荒川の顔を連想させる、強く確かな声だった。
数歩進んで宗二朗は前に出た。
開いた界扉が厄界を広げ、宗二朗を待ち受ける。
招き入れようと、呑み込もうと、これ以上ない歓待で宗二朗の身体を引き込もうとしている。
これが見えていない時にはわからなかった。
彼らはただ、宗二朗を迎えに来てくれていたのだ、と。
異界に落ちてしまった同胞を心配し、拾い上げて迎えるためにこの扉を開いている。
美しく完璧な世界を見せ、郷愁を誘い、戻って来いと声を上げていた。
背後で蠢いている厄災も元は同じ。
この世界から逸れた厄を、その厄を背負った子供を不憫に思い、差し伸べられた手の一部。
「本当に、あなたたちの世界は美しい」
それは宗二朗の素直な感想だった。
宗二朗の言葉に、厄界で歓喜が沸いた。
完全なる調和、完全なる均衡、そして差し伸べられる庇護も。
今まで厄介者になった子供たちの気持ちが、宗二朗にはわかる。
これほどに優しく受け入れてくれる場所を拒絶する意味が分からない。
溶け込んで同化してしまえば、きっと幸せになれる。
完璧な美しさを感じるのは、調和と均衡と平穏が満ち満ちている理想郷のような世界だからだ。
宗二朗のどこかに溶けている厄の一部が、あの世界に戻りたがっている。
だからいつも、強烈な郷愁が溢れて止まらない。
「私を、迎えに来てくれてありがとう。でも、私はそこに行けません」
厄界は言葉で例えるのなら、界扉の襖絵に似た絢爛豪華な金箔の世界。金箔の上に描かれる木々も花々も、完全な美しさでそこにある。
でも荒川が言った通り、無味無臭の温度を感じない世界でもある。
なぜ、と困惑する厄界は、宗二朗に近寄れなかった。
宗二朗の前面はクサノオウの飛沫で汚れ、独特の匂いを放っている。
彼らの苦手なものらしい。
宗二朗は開いている襖に手をかけ、力任せに自分の方へと引き寄せた。
すっと音もなく引けたはずの界扉は、宗二朗の身体くらいの幅だけを残し、中途半端に止められた。厄界のほうから止められてしまった。
無理などせず帰っておいで、と誘いを受ける。
自身の一部も、帰りたいと懇願している。
でも、宗二朗は首を横に振った。
「わかります。わかっています。この世界は美しく優しい。あなたたちは、小さなかけらも見捨てることなく迎えに来た。それでも、存在すべき世界を自分で選べるのなら、私はこちらの世界で足掻きたいと思うのです」
こうまで頑なに拒絶するのは、傷つけてしまったからか? わざとではない。
悲鳴に似た意思が伝わり、宗二朗はまた首を横に振った。
「違います。確かに痛いけれど、怒っても恨んでもいません。むしろ、あなたたちには感謝しています。迎えに来てくれてありがとう。私を界扉の主にしてくれてありがとう。だから私は、こちらの世界で大切なものを見つけることができました。自分にできることを知りました。全部、あなたたちが迎えに来てくれたおかげです」
宗二朗の血濡れた手に、背後から半透明の蔦が伸びた。
痛そうだ、と心配する声がどこかで聞こえた。
自分の血でクサノオウの効果が薄れていることに、宗二朗もようやく気付いた。
「大丈夫、平気です。それよりも、あなたたちは界扉を潜って帰ってください。ずっと厄界に帰りたかったのでしょう? 界扉はもうじき、私が閉じますよ。その前に、早く」
小さな同胞への心配を残し、戸惑うように揺れながら、巨大化した蔦の一本が界扉を潜った。
それを機に、一本、また一本と宗二朗の腕や足をすり抜けるように、室内にいた蔦の形をした厄災が厄界に戻っていく。
彼らは皆、厄界に戻ると四方に枝を張る木になったり、一面を埋める花になったりと、それぞれに形を変え、厄界に溶けていった。
本当にそちらに残るのか? と、厄界が宗二朗に問いかける。
今ならまだ間に合う。お前も此方に来い。そんなに歪な世界では苦しいだろうに。
断ち切れない未練のような細い誘惑が、最後に届けられた。
宗二朗は、決して首を縦には振らなかった。
絶叫とも号泣ともつかない、自分から切り取られた激しい感情が宗二朗の内面から湧き上がる。呼応した宗二朗も、涙が溢れて止まらない。
「私が自分で選びました。だから、心配は無用です」
訣別の言葉は、できるだけ晴れやかに飾りたい。
それは自分と共に残される、この身に同化している厄災に言い聞かせるように、ゆっくりと確かな決意を口にした。
厄界を見知れば、宗二朗の生きる世界はさぞかし歪に見えるだろう。
完璧でもなく、共通の美しさもなく、個の強い世界だ。だが、変化する余地がある。
完璧な厄界にそれはない。すべてを共有しているから美しく、全き世界に整っている。
「私は変わりたいのです。もっと大きくなり、もっと強くなり、もっと変わりたい。必ず良くなるという保証はできませんし、抱える歪さが増すだけかもしれません。でも、私は変わりたい。だから、そちらには行けません」
厄界に行くということは、この美しい世界の一部になるということ。
大人に誘いがなく、子供だけを連れて行こうとするのは、厄界が歪みの少ない子供しか受け入れられないからだ。
まだ間に合う、というのは、瀬戸際の刻限なのだろう。
わかった。お前がそれほどに望むのなら。
宗二朗の意思が固いのを知り、厄界の誘いはようやく止まった。
不満そうに揺れる一部はやがて大きな意思に呑み込まれ、世界は徐々に意思を統一していった。
ならばせめて、界扉はこちらで引き取ろう。もともとこちらから下ろしたものだ。小さな同胞に無理をさせるのはしのびない。
厄界はそう告げると、宗二朗に界扉から手を放すように伝えた。
戸惑いながら宗二朗は襖から手を放し、言われた通り一歩下がる。
達者で生きろ、愛し子よ。お前の今後に幸多からんことを願う。
その言葉を最後に、ぱん、と音と立て、界扉は閉ざされた。
宗二朗の前にあるのは、金銀の箔で飾られた豪奢な襖。その襖も、下のほうから崩れるように形を無くしていた。
「宗二朗どの」
頭上で低い声が宗二朗を呼ぶ。荒川の声だ。
「界扉は爆ぜんのか?」
「多分もう、大丈夫です」
厄界が宗二朗の招聘を諦めたのだから、支障はないはずだ。界扉も、あちらが回収すると言っていた。無理な力が働くわけではないのだから、過去の記録にあるように爆ぜることもないだろう。
「それにしても、満身創痍ではないか。血だらけだぞ、特に背中が」
荒川の言葉で、宗二朗は姿が見えているのだと気が付いた。
振り向くと、そこにいる見慣れた男の姿はいつになく薄汚れ、中途半端な長さの刀をさげ、宗二朗の背中を覗くように襟首を掴んで引っ張っていた。
「荒川こそ、頬が腫れていますよ。色が変わっています」
伝う涙を慌ててぬぐい、飄々としているが紫に変色して腫れた荒川の頬を宗二朗も指摘する。
「頬だけではない。あばらも何本か折れた」
「大丈夫なのですか?」
「息をするたびに痛いが、すぐにどうなるものでもない」
視線と視線がぶつかりあった。姿が見えなかった時の戦いを、語る必要もない。
骨が折れていようとも、血だらけだろうとも、二人とも生きてここにいる。それが答え。
暗い室内が、界扉の崩壊と逆に頭上から解け、外の光を空間の中に受け入れ始めた。
厄払いの終わりだ。この闇が消えたら、すべてが終わる。
界扉が消えた。もう、そこにあった痕跡すらない。
骨だけになった障子、傷だらけの壁に破れた床。土間に転がる畳。天井の一部に穴が開き、空が覗いている。
絢爛な奥座敷の襖は消え、他の部屋と同じ六畳板の間の小さな部屋が、傷だらけの状態で夕日の真っ赤な光を受けていた。
宗二朗も荒川も、この部屋も、関係したすべてが満身創痍。無傷なものなどなにもない。
「終わったな」
荒川は自分が握る中途半端な流さの竹光を見つめ、感慨深そうに微笑んだ。
先程まで鈍い金属に似た光を放っていた刀は、一番最初に宗二朗が見せられた竹光に戻っていた。
厄災を絶つ武器だったものは、十年以上共にあった男の手の中で音もなく解け、ばらばらと板の間に落ちる。そこにはもう、金属のような重さはなく、軽く弾むような音だけが響く。
界扉の消滅と共に、荒川の武器も用途を無くしたのだ。
十年以上の長い年月、この長屋の一室で一人、厄払いを続けてきた男の真意を理解できる、なんて大言は誰にも吐けない。
宗二朗を厄界へと導くような行動を支配する感情も、意思も、もう聞こえない。
生まれたと同時に背負ったと聞いた親の厄はもう、気配すら感じなかった。
「はい。終わりました」
応えると同時に宗二朗は、重く落ちてくる瞼を支えきれず、意識を闇の中に飛ばかけた。
このままだと散らかった床に崩れ落ち、全身に衝撃を受けるだろう、とわかっていても、指一本動かすことができないほど、全身が重い。
そんな宗二朗の身体は途中で止まり、首の前面部分だけに感じたことのない圧がかかる。
「草の旦那は雑だから」と何度も言っていた喜助を声を思い出す。
襟首だけを掴んで止めたのだろう。本当に雑な男だ。
でも、このまま意識を失っても大丈夫、という安心感が宗二朗を包む。
大雑把で自分勝手で、我欲が強くて無理強いする男だけれど、言ったことは必ず実行する。出会ってからの数か月、それだけは知っている。
界扉の主と番人ではなくなってしまったけれど、守れと言った自分に、彼は答えた。
だからこのまま、意識を飛ばしても大丈夫。
「宗二朗どの、こんな所で寝るものではない」という困惑した荒川の声が、意識を飛ばす直前の宗二朗の耳にとどまった。
宗二朗は自分の部屋からぼんやりと庭を眺めていた。
あのあと気が付くと、細君がこれまでに見たこともない人間離れした形相で、目を開けた宗二朗を見つめていた。角がないのが不思議に思える。夜叉や般若を連想させる顔だった。
恐ろしい、と思ったが、全身が重くて痛い宗二朗に逃げ場はなく、滾々と説教された。
「男の子だから多少のやんちゃは仕方がないと見過ごしてきたが、死にそうになって帰ってくるとは許しがたい」
説教の中身をまとめるとこんな感じで、内容に異論を唱える気はなかった宗二朗は、伯父が仲裁に入るまで数刻ほど、細君の小言を拝聴していた。
「貸し長屋の住人とはいえ、これからは無宿などについていかないように」
細君の締めの言葉に、宗二朗は無言を貫く。
どういう言い訳をして宗二朗を連れて帰ってきたのか知らないが、どうも宗二朗は長屋の誰かと出かけて、不幸にもなんらかの事故にあい、大怪我をした、という設定のようだった。背中に集中している傷も、背後から何かが落ちてきた設定のようだ。
細君の言葉の端々に、頼りにならぬ無宿など、と何度も出てくる以上、そうなのだろう。
詳細がわからないので「覚えていない」と宗二朗は言い張っていた。
そして、後で往診に来た医者も「事故前後の記憶がないのはよくあること」と宗二朗に都合よく細君を言い含め、深く追及されずに助かった。
血が多く流れたせいで意識を失ったと医者が言っていたので、怪我自体が命に直接関わるようなもの、というわけではないようだ。
一週間も寝ていると、腕を動かしたりゆっくり立ち上がったりするのは自力でできるようになった。
背中が酷い傷だったというだけあり、仰向け寝ることはまだできない。
ずっとうつ伏せで、包帯の撒かれた自分の腕を見ながら、ぼんやりと思う。
自分よりも大怪我をしていたはずの荒川はどうなったのだろう、と。
最後の厄払いを終えた後、意識を失った宗二朗を伯父の店まで担いできたのは、人相風体を聞く限り喜助だと思う。
細君曰く「色の黒い細っこい無宿」というのは、長屋の住人では喜助以外に当て嵌まらない。
とにかく、医者にも細君にも「絶対安静」と言われている宗二朗は、勝手に出歩くことができない。身体が自由に動かず、ただじっと自室から見える庭を眺めていた。
「宗ちゃん」
開け放たれた障子の外から、小さな女の子が顔をのぞかせた。
彼女は宗二朗の従妹である。まだ六歳の女の子だ。他の伯父家族は「宗二朗さん」と呼ぶが、幼い彼女だけは「宗ちゃん」と親し気に呼び掛けることが多かった。そのたびに他の家族に怒られているが、ふとした拍子に宗二朗をそう呼んでしまう。
「美玖さん、どうしました?」
「あのね、かあさまがおそとに出たらだめだっていうの。あたらしいねえやが来るまで、おそとに行っちゃだめなんだって。だから美玖、ここにいても良いかな?」
そういえば、彼女専用の使用人だった若い女性は嫁に行くとかで辞めたと聞いた。まだ替わりの人間がみつからない、と言っていたはず。
一人で寝ているのは暇で仕方がない。宗二朗の話し相手としては不足だが、お互い時間を持て余している者同士、一緒にいるのも良いだろう。
「いいですよ」と宗二朗は笑顔を向けた。
すると美玖も嬉しそうに笑って、宗二朗の枕元に近寄ってきた。
「宗ちゃんはけがをしてうごけないんでしょ? いたい?」
「動くとまだ痛いです。あ、包帯、その白い布の部分は痛いので触らないでくださいね」
「うん、わかった」
宗二朗に言われると、美玖は素直に頷いた。
そして、持ってきていたお手玉を取り出し、ぽん、ぽん、と投げては手に取る。
つたない手つきでお手玉を回し、時々調子を外しながらしりとり歌を歌う。が、途中で切れた。
「……宗ちゃん、つづき、しってる?」
「すいません。私にはちょっと」
お手玉は女の子の遊びだ。宗二朗は時々美玖のねえやが歌うのを聞いた覚えはあるが、ちゃんと記憶してはいない。
宗二朗の返事に、美玖は「そうだよねぇ」と頷き、期待した様子はない。
「やっぱり、あいてがいないとつまらないねぇ」と美玖は一人でぼやき、臥せっている宗二朗を見た。
「宗ちゃん。美玖ね、ないしょのお話、したいな」
「内緒のお話、ですか?」
「うん。そう言われたの。知らないおじさんとね、にいさまに」
美玖の言うにいさまは、この家の長男のことだろう。
「嘉一郎さんに?」
「うん。かあさまに言ったらおこられるとおもったから、にいさまに言ったの。そしたら、にいさまもないしょにしておけ、って言うの。でもね、ないしょだけど宗ちゃんには言っても良いんだって」
「どんな話でしょう」
宗二朗は話の内容に検討がつかず、先を促してみた。
「美玖ね、おそとに出たらだめっていわれたから、裏のお庭であそんでたの。そしたらね、知らないおじさんが美玖にはなしかけてきて、宗ちゃんのあんばいは? ってきかれたの。あんばいってなに? ってきいたら、けがのぐあいはどうですか? ってきくから、宗ちゃんはねてるってこたえたの」
「それは、どんな人でした?」
「おっきな人だったよ。おさむらいさん」
どくん、と宗二朗の鼓動が大きく響く。
荒川だ、と思った。彼自身はさほど大きくはないが、幼い美玖から見れば大きなお侍に見えるはずだ。
「……それで?」と促すと、美玖はうーん、と唸り、首をひねった。
「んーとね、ここでおさむらいさんにあったことは、家の人にはないしょにしてほしいって言って、こんぺーとーくれたの。あと、宗ちゃんが元気になったらおしえてほしいって言ってた」
「教えるって、どうやって? 美玖さん、外に出たら駄目だと言われているんでしょう?」
「んー、わからない。美玖、どうするんだろう」
こてんと首を傾げる従妹にかける返事を、宗二朗も持ち合わせていなかった。
そして、少なくとも荒川には従妹に金平糖をあげるような気の利いたことができると思えない。
人違いかもしれない、と思いかけた時だ。
「でもねぇ、にいさまが美玖の鞠を少しのあいだかりるぞって言ってもっていっちゃった。あの鞠、おさむらいさんのそばにいた人がくれたのに……」
「傍にいた人?」
「うん、にこにこしているくろい人」
喜助か、と宗二朗は思う。彼が傍にいたのなら、金平糖だの鞠だのと、女の子が喜びそうなものが用意されていたことにも合点がいく。
「嘉一郎さんが、どうして?」
「ほうこうさきのごようを、とうさまに伝えにきたって言ってたよ? あとね、用が済んだら鞠を美玖にかえしてくれるんだって」
喜一郎の奉公先は、伯父の同業者だ。奉公先はこの家からも近く、藪入り以外でもたまには店に出入りする。ただ、仕事として来る以上は表からではなく、裏から小僧の一人として出入りするため、家族と顔をあわせることはあまりない。
彼がたまたま居合わせた時、荒川と喜助が美玖に偶然接触した、なんてことはないだろう。
見計らっていたはずだ、最良の頃合いを。
「だから宗ちゃん、はやく元気になってね?」
なにがどうつながって、だから、になったのだろう。
宗二朗が枕元に座る小さな従妹を見上げると「美玖、またこんぺーとーもらいたいの」とふにゃっと照れたように笑った。正直すぎる告白に、宗二朗も笑う。
「はい。頑張って早く元気になります。教えてくれてありがとう、美玖さん」
「うん。元気になったらおしえてね?」
幼い従妹は、金平糖ほしさに伝えてくれただけだ。
それでもいい、と宗二朗は思う。
宗二朗の部屋は奥にある。使用人の誰か、では宗二朗に伝わらない。細君は握りつぶすだろうし、伯父では無関心がすぎる。
確実にこっそりと宗二朗に伝えられるのは彼女だけだ。嘉一郎も承知で、美玖に教えたのだろう。宗二朗には伝えて良い、と。
「はい、必ず」と答えると、宗二朗は瞼を下ろす。
彼らは元気でいるのだと、実の父になんらかの沙汰を下されてはいないのだと知り、安心した途端に強烈な眠気に襲われた。
宗二朗が一人で寝起きできるようになるまで約三か月ほどかかった。
実際は一月ほどで起きられるし着替えもできるようになっていたが、念のため、そして念には念を入れて、という細君の言い分が宗二朗の意思を凌駕した。
突然怪我をして帰宅し、心配させた宗二朗は強く言うことができない。
それでなくともあまり自分の意見は通らないのに、どうしよう、と幾分戸惑っていたが、細君は「生死の境を彷徨うほどの大怪我」と信じているようだ。
あれほど往診に来た医者が「ただの切り傷。数が多いから酷く見えるが、それほど跡も残らない」と目の前で断言していたはずなのに。
隙間を縫うように嘉一郎が顔を見せる。
本当に仕事の合間、隙間時間の暇つぶしの態でやってくるが「お前の仕事になっている長屋の世話とやらは、おふくろに言っておれが代わっていることになっている」と開口一番に告げられた。
「本当は親父に言われたんだけどな。宗二朗は長屋の無宿と仲良くしているから、お前、たまには役に立ってこい、と。言われたときは意味が分からなかったが、おふくろを見てわかった。あれだと迂闊にお前に近づけないわ」
笑いながらも彼にとっては勝手知ったる自分の家。嘉一郎は勝手に自分でお茶を淹れて飲んでいた。
宗二朗も身動きが取れない頃だったので、好きにしてもらうことに文句はない。
そして、改めて伯父はすべてを知っていたのだな、と思う。
荒川との繋がりも、親との関係も、宗二朗の複雑な立場も。
承知の上で引き取り、育ててくれていたのだ。
「おう。一番でかいあのお侍は怪我していたらしいが、今は元気っぽいわ。おれから見ると、お前が一番重傷だな、宗二朗」
「そう、ですか。私も特に重傷というわけではないんですが……」
起きると煩い人がいる。そして、傷が背中に集中しているので、起き上がるまでは確かに痛い。折角塞がりつつある傷をこじ開けるような趣味もない。
「まあ、良かったじゃないか。全部終わったんだろう? よく知らないけれど」
追及する気もないのだろう。嘉一郎はお茶菓子を食べながら宗二朗の返事を待っていた。
「はい、終わりました」
宗二朗が生まれながらに背負った親の厄、界扉は消滅し、厄払いは完了した。
極めて稀な生き残り。それが宗二朗の立場だ。
「それで、これからどうする?」
「どう、しましょうか」
「決まっていないのなら、これから考えればいいさ。商人になる気があるのならおれがこの店を継ぐとき、番頭として雇ってやるよ」
「それはありがとうございます」
「適当に返事するな。適当に言っているおれが言うのもなんだが、今のうちに真剣に考えておけ。これはおれの想像だが、お前の実家から迎えが来ると思うぞ。怪我しているうちはおふくろが追い返すだろうが」
それほど長くはない未来の話、と嘉一郎は匂わせた。
「まさか、今更? 私にくれるという報酬なら、先に願い出てきましたし、かなっているようなので。……迎えなど来ないと思います」
宗二朗が直接父に願った助命はかなっている。これ以上を望む気はない。
「そうか? 別におれは良いけどな。宗二朗がここに残る気ならそれはそれで。遠慮なくこき使える人材は何人いても構わないから」
ただ、と嘉一郎は少しの間を置いた。
「昔からおふくろはお前と一線を引くようにおれには言っていた。あれは、いつかお前を送り出すための準備だったんだと今は思う。それに、宗二朗に商人は合わないよ」
「どうして? どこがです?」
「人当たりは良いけれど頑固で、我が強くて、信念を曲げない。いつだって相手をおだてて言い包めるより正面から論破しに行く。そんな商人いても成功しない」
「嘉一郎さんも私と大差ないと思いますけれど?」
「おれはな、笑って受け流す程度の芸当はできるんだよ。お前、できないじゃん」
へらへらと笑いながら言う嘉一郎に、反論できる材料を持っていない。宗二朗は押し黙る。
「本当のことを言うとな、あの侍が言っていたんだ。準備ができ次第迎えが行くだろうって。突然だと宗二朗が驚くだろうから先に言っておけって。伝えたからな、確かに」
茶を飲み、菓子を食い散らかした嘉一郎は、そのまま立ち上がってさっさと部屋を出て行った。「ありがとうございます」と言った宗二朗の言葉は届いただろうか。
そんな短い面会を嘉一郎と数度交わし、さすがにもう大丈夫、と自由に動くことを許されたころには季節が変わっていた。
そういえば例外的に怪我をして二か月を過ぎたころ、宗二朗の見舞いと称して勘吉が一度訪れていた。同じ寺子屋に通う代表、と言いながら。
相手が普通の町人なら追い返されたかもしれないが、勘吉は名の通る呉服問屋の倅だ。同じ商家としてあまりに失礼な対応はできない、と判断したのか、笑いながらも嫌そうな雰囲気を隠さない細君が宗二朗の部屋まで案内してきたのだ。
勘吉は「見舞いには土産が必要だろう」と言いながらまんまる堂の饅頭を持参してきた。
「一度、宗二朗と一緒に食べてみたいと思っていたんだ」
「私は暇を持て余しているので構いませんが……、寝ころんだまま食べることになりますよ?」
宗二朗は起き上がっても平気だと思っているが、細君に見つかると怒られる。おそらく矛先は勘吉にも向く。
「怪我人なんだから無理をすることはないよ」と、器用に饅頭を切り分けながら勘吉は言った。
いつか買おう、いつか食べようと思っていたまんまる堂の饅頭が宗二朗の前に置かれた。
この饅頭にも縁があるような、無関係のような、複雑な心境になる。
荒川と出会ってからこのかた、饅頭のことなど頭から吹き飛ぶようなことばかりが続き、すっかり忘れていた自分に気が付いた。
「この饅頭、食べてみたかったんです。ありがとう」
素直にお礼を言う宗二朗に、勘吉は視線を彷徨わせた後、ゆっくりと口を開いた。
「おれはあの日、勇気を振り絞って宗二朗に声をかけて良かった、と思っている。宗二朗が大怪我で寝込んでいると聞いたとき、それを告げていないことを物凄く後悔した。おれのことを優しいと言ってくれた初めての他人だったのに」
「え?」
「生きていてくれて良かった。伝えることができて、本当に良かった」
ぼたぼたと涙を落としながら嗚咽をもらす勘吉に、本当は大した怪我ではない、と宗二朗は言うに言えなかった。
荒川に担がれた宗二朗を心配してくれた勘吉なのだから、怪我をして寝込んだと聞けば、それ以上に心配をかけた事だろう。何も考えずに暇だと思い過ごしていたことに罪悪感を抱く。
「これは、その、生きるための名誉の負傷みたいなものでして、最初から少しも死ぬつもりはなかったんです。でも、心配してくれてありがとう」
「深く聞くつもりはないけど、ご実家のことか?」
「はい、そちら絡みです。聞かれても詳しくは言えません」
親の厄を背負って産まれた事、厄界へつながる扉の主であったこと、その番人のこと。
付随する荒川の事情に草たちのこと。
どこまで他人に話していいことかの区別もつかない。
だが、勘吉を巻き込む気はかけらもない。
「お武家さまには色々しがらみもあるだろう。おれは家の仕事柄、言えない事情とやらを察して動くことを求められる場合があるのは知っている。だから聞かない。宗二朗が無事ならそれで良い」
涙をぬぐった勘吉は、そのあと寺子屋の他愛もない話をして帰っていった。
あれはとてもいい気分転換だった。
もう自由に動いても良いのなら、勘吉にお礼を言いに行った方が良いだろうか。
自室の中でぼんやりと出かける理由と行先を考えていた時だった。
女中の一人が宗二朗を迎えに来たのだ、伯父が呼んでいる、と言って。
店の方の座敷に案内すると言われ、そのあとに続いて宗二朗は歩を進めた。
家族だろうと店の区画に入るのは禁止されている。太平はその点、とても厳しかった。
金を扱う両替商という理由もあるだろうが、仕事と家の中はきっちりと分ける性分のはず。宗二朗は初めて店の方へつながる廊下を歩いていた。
こちらです、と女中が示した障子の前で腰を落とし、宗二朗は声を上げた。
「宗二朗です」
「入れ」
太平の声は近くから聞こえた。不思議に思いつつも障子を開くと、場の上座に座っている者がいた。太平は下座に座っていた。だから声が近かったのだ。
慌てて宗二朗の頭を下げる。
「お客さまがいらっしゃるとは思わず、失礼いたしました」
「頭を上げられよ、宗二朗どの」
「荒川!」
聞きなれた男の声に、咄嗟に顔を上げ、座る人物を確かめ、そして思わず名を呼んでしまった宗二朗は悪くない、と思うのだが、近くにいた伯父がぱんと畳を叩いて怒気を報せたので我に返る。
「なぜここに?」
「準備が整い次第、迎えが行くと伝えてもらったはずだが、聞いておらぬのか?」
「聞きました」
「では、そんなに驚くことはあるまい。拙者が上使だ。全く知らぬ者より気やすかろうという元主君の配慮でな」
上使とは、上意伝達のために派遣される使者だ。成程、上座に座るわけだ。
にんまりと笑う男は裃を身にまとい髷を結い、本物の侍に見えた。
「荒川、浪人はやめたのですか?」
「そうだな。今のところは暫定で。あの長屋も綺麗に直して太平に戻した。なあ、太平」
「左様にございます」
宗二朗は隣で伯父が頷くのを確認した。
そうか、荒川はもう浪人ではなく、あの長屋にもいないのか。
喜ばしいことであるはずなのに、心のどこかで隙間風が鳴る。
「それはおめでとうございます」
「暫定と申しただろう? 生憎とまだ、めでたくないのだ。では、関係者が揃ったようなので上意を伝える」
居住まいを改め宣言し、荒川は前に置いてある和紙をするりと広げ、朗々と読み上げた。
内容は格式ばった武家の言葉が多用されており、宗二朗には少し難しく、所々が不明である。
「以上、何か不明な所はあるか?」
荒川は神妙な面持ちで室内を見渡した。この場は大人しく頷き頭を下げるのが妥当なのだろうが、宗二朗は子供である。恥など捨てて手を挙げた。
「どうした、宗二朗どの」
「恥ずかしながら、半分くらいしか意味がわかりませんでした。もう少し噛み砕いて私にも理解できるよう教えてください」
「良かろう。どこから説明すればいい?」
「では、最初からお願いします」
続いた荒川の説明はとても端的だった。
宗二朗は生まれながらに背負った親の厄を見事払った功績を認める。
息子として正式に迎え入れる。
今回の功績を鑑み成人として遇し、独立した家を与える。
ついでに部下も付けてやる。
宗二朗にもわかりやすく言い換えると、こうなるらしい。
「独立した家? 部下? 成人? 私はまだ、十四です」
「元服していてもおかしくない年回りだと思うが、なにか問題か?」
「問題だらけでしょう。何も知らない私がいきなり当主とか、無理です。部下なんてもっと無理です」
「これから知っていけば良い。ついでなので、元主君からの伝言もこの場で伝えよう。『歎願助命したのはお前なのだから、責任をもって引き取れ』だそうだ。命を取らないという約束は守るが、扱いに困る部下はいらないそうだ。なので、宗二朗どのの家で使ってもらえ、と」
「では、私に与えらえる部下とは」
「拙者のことだな。あと、長屋にいた草三名。下男として引き取った。放置しておけばいつ次のクサノオウに始末されてもおかしくないのでな」
宗二朗はようやく理解した。
当主になる家と言ってもあの長屋の延長なのだ、と。
部下は荒川で、その配下も全く同じ。
「狡い……。こんなの狡いです。断りたくても断れないじゃないですか、私」
「大人は狡いものだと相場が決まっている。何を今更」
「威張って言わないでください。私の部下になるのでしょう?」
「いや、今までとそう変わらぬぞ。拙者の態度が気に入らなくて、元主君に追い出されたわけだし。これから変われるとも思えぬ。与えられた屋敷が古びていて、寛太が張り切って修繕しすぎてこんなに時間がかかってしまったが、どうだ、この上意、受けるか?」
真面目な顔をしているが、目は完全に笑っている荒川は、宗二朗の返事を疑っていない。
居場所が欲しいといった宗二朗の言葉を、彼は彼なりにかなえてくれようとしているのだ。
「はい、謹んでお受けいたします」
両掌を畳につけ、正の礼をして上意を受ける。そんな宗二朗を見て、太平も「恙なく」と頭を下げた。
己の父の正式な名を見て宗二朗が大声を上げるのは、まだ一刻ほど後の話になる。




