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 神無の長屋には、無宿者ばかりが住んでいる。

 大家の太平は守銭奴で、店賃をくれる奴なら誰でも住まわせてしまう。

 というのは、長屋周辺の住人が言う台詞。

 実際は、それほど広く知られていない。

 それもそのはず、太平が本業で構える店はそこそこの大店であり、名を聞けばまず知らぬ者はいない程度に周知されている屋号を持っている。しかも両替商だ。金は唸るほどあるし、あちらこちらに顔も広い。

 神無の長屋が太平の持ち物だと知る人間のほうが少ないはずだ。

 そもそも、長屋の住人が問題を起こしたわけではないし、何か不都合があったわけでもない。

 自分達が容易に住めないような立地の良い場所に無宿者が住んでいる、そのこと自体が気に食わないと理不尽な理由を正々堂々と説くものだから、ああ、そうですか、と大体は聞き流されるのだ。

 太平の細君はこの長屋の管理を厭い、宗二朗に押し付けた。

 近隣の評判の悪さが細君の足を遠ざけているのだろう、というのが大筋の見立てだ。

 これは勝手な推測でしかないが、大店の奥方は周囲の風評を気にするものだ。

 たくさんの使用人や女中を雇っている店なのだから、なにも主人や奥方が全てに出張ってくる必要もないわけだ。

 宗二朗は太平の妹の子供で、幼い頃に太平に預けられた。理由はよくわからない。

 もはや、両親の顔も、いると聞かされている兄弟のことも、宗二朗は思い出せない。それほど長く太平の家で厄介になっている。

 実際に宗二朗の世話をしてくれたのは太平の細君であり、彼女は伯母であると同時に宗二朗の育ての親である。

 だが宗二朗は物心ついたころに、当の本人から「伯母」とも「奥方」とも呼ぶこと禁じられた。

 では何と呼べばいいのか、と尋ねたところ、しばらく思案してから「細君」と呼べと言われた。

 本来、細君とは同輩以下の者の妻を指す語だ。若輩の宗二朗が年長の伯母に対して使うのは失礼にあたる。そう言ってみたが無視された。

 以来、本人の希望なのでそう呼ぶことにしている。

 家長の血縁という立場は、宗二朗をある程度守ってくれていた。

 太平の細君は宗二朗を邪魔だと思っている。その心情を隠すことなく態度に出す。

 そんな細君に阿ろうとし、宗二朗を虐めた女中の数人は即日解雇された。

 激怒したのは細君その人で、「使用人が主家の一員を蔑ろにするとは何事か」と、有無を言わさずたたき出したらしい。

 宗二朗はその現場を見ていないが、事あるごとに使用人の態度が急激に改まるので、不審に思ってこっそり聞き耳を立ててみたところ、そういう話を聞いた。

 太平夫婦ともに、宗二朗の存在は家族に属しているようだ。明らかに好かれていないのに不思議なことだ。

 そのためか、飯を抜くとか寺子屋に通わせない、という無体はされない。

 なんでも実の両親との約束があるらしく、宗二朗を成人まできちんと養育するための費用を受け取っているそうだ。

 家の中では太平の子供の下座に置かれはするが、座敷で膳を取ることを許されている。

 そして太平も時々、本当に稀にだが、宗二朗の存在を思い出したときだけ「不足はないか、不便はないか」と声をかけてくる。

 なのでその時、宗二朗が太平に余計なことを言わない程度には、使用人たちにも世話をしてもらっている。

 そのあたり、細君の匙加減は絶妙で、宗二朗は自分を厭う相手ながらいっそ天晴ではないかと思ってしまうのだ。

 この長屋の世話を言いつけられた時もそうだ。

 本来なら、嫌な雑用など使用人の誰かに命じればよいはずなのに、「寺子屋の帰り道であろう? ついでに」と言うためだけに、宗二朗の通う寺子屋をわざわざこの近くにしたほどしたたかだ。

 商家の奥方とは、このようにふるまうのが常なのだろう。

 別に宗二朗だけが特別扱いではない。

 細君の気に入らない使用人は皆、似たような感じで見栄の良い仕事、楽な仕事からは遠ざけられる。

 不満があれば辞めればよい、と言外に伝えられるのだ。

 ただ細君に良いところがあるとすれば、彼女は夫と違い決して吝嗇家ではなかった。

 嫌な仕事、辛い仕事には他の楽な仕事よりも手間賃を弾む、という基本を押さえていた。

 ゆえに、太平の家は程よく回っていた。

 裏方の地味な仕事は倦厭されがちだが、他よりも手間賃を弾むというのであれば我慢ができるというもの。

 長屋の世話を言いつけられた宗二朗も同じく、無事に回収できた店賃の二割はお前の駄賃として良い、と言われていた。

 子供の駄賃なら、一割が相場だ。

 なので、特に不満を抱くことなく、宗二朗は神無の長屋の世話をすることになった。

 長屋の世話と言っても、宗二朗はまだ子供であり、できることは限られていた。

 障子の張替や戸板の交換などという重労働は大人の仕事で、住人の入れ替えがない限り行われない。

 木戸の内側、長屋周りの掃除と店賃の回収が宗二朗の仕事になる。

 この長屋の周辺は目立つ建物がなく、似たような貸し長屋が並んでいる。

 ここから商家の並ぶ大通りまで近いせいか、近隣の長屋は商家通いの奉公人が借りているらしく、宗二朗が寺子屋帰りに立ち寄る時分は、周囲が明るいのに人気のない静かな場所だ。

 長屋は板間の縦長で、薄い壁で仕切られている。隣室の音など駄々洩れで、誰が在宅か不在かすぐにわかる。

「豪勢に暮らしたければ、勝手に畳を買って入れればいいのだ。それが普通の町民暮らしというもの」

 宗二朗にそう教えたのは、伯父の屋敷に住み込む使用人の一人だ。「うちには畳が二枚ある」と胸を張って付け加えていた。どうやら畳を持つことは自慢になるらしい。

 その際、板間の部屋というのは、底冷えするものだとも教えられた。

 宗二朗は伯父の屋敷で座敷の一間を与えられているせいか、真の町民暮らしは実感が乏しかった。

 彼は宗二朗がこの長屋の世話を任されるまで、ここの店賃を集金に回る係だった男だ。

 何をすればいいのか、どうすれば良いのか、集金はいつなのか、という段取りを教えてくれた大人である。

「まあ、宗二朗さまにはわからないだろうが」と余計な一言を加えつつ、性根は善人だったのだろう。

 最初の数日は毎日寺子屋から長屋まで付き添って案内し、色々なことを教えてくれた。

「この長屋は、無宿なんぞに貸すには贅沢なんですよ。ほら、木戸の内側に井戸があるでしょう? 井戸付きの長屋は相場の倍を出しても良いくらいの好条件なんだ。水を運ぶのが一番辛い仕事なんですから。旦那さまは一体、なにをお考えで無宿を住まわせているんですかねぇ。ここの世話が嫌になったら、いつでも旦那さまに泣きつくと良いですよ」

 彼は長屋の前で堂々と、しかも大声で聞こえるように宗二朗に言った。

 その時は彼がなにを考えているのか宗二朗にはわからなかったが、ややしばらくしてから、あれは長屋に住む無宿たちへの牽制だったのだと気付いた。

 大人から子供に管理が変わると、甘く見られるのが世の常だ。

 彼は大人の立場から、子供の宗二朗を気遣ってくれたのだろう。

 無宿と言うと兇状持ちを連想する者も多いが、人別改帳から名を外された者のことを指す。よって、無頼漢ばかりではない。

 いま、神無の長屋に住まうのは四人だ。

 宗二朗が一人で長屋に通うようになってから、無宿たちはそろそろと様子見のように顔を出し、彼らとは顔見知り程度になった。世間話くらいならするようにもなったし、彼らは出自を隠すことなく宗二朗に聞かせていた。

 そのせいか、宗二朗には彼らが無宿だという感覚がない。

 ただの店子だと思っている。

 寛太はいつも無精ひげを生やしているので素顔を見たことがない。無口であまり話さず、掃除中の宗二朗が邪魔だと感じると、無言で抱き上げて移動させられることがある。意外と力持ちだ。

 喜助は色黒のひょろっとした優男といった風体をしている。一度口を開くと、とにかく話が長い。

 為八は特徴のない平面な顔をしている。どこにいても違和感なく溶け込んで同化する存在感のなさが特徴だろうか。気付くと背後に立っていたりするので、時々怖い。

 この神無の長屋は四部屋ある。そう、最後の一人を宗二朗は知らなかった。

 顔を見たことがなく、部屋の中にいる気配を感じたことがない。

 その部屋の前、戸板の正面には大きな鉢植えが置かれていて、よく見かける小さな花をつける植物が植えてある。

 出入りに邪魔ではないのだろうか、と思った宗二朗は、掃除の途中に何度かそっと鉢植えを隅に寄せてみた。

 だが、翌日には必ず同じ場所に戻っている。

 鉢植えを移動させるのは余計なお世話なのだ、と気づいて以来、宗二朗はそのままにしていた。

 正体不明の店子だが、店賃だけはきっちり貰っていた。

 月末の集金日になると必ず、懐紙に入れた金子が戸板に挟まっているのだ。

 寛太も喜助も為八も、四人目を詳しく知らないという。

 そして三人の話を合わせると、その四人目こそがこの長屋に一番長く住んでいるらしいということだった。

「なにをしている人なんでしょうね」

「さあな。無宿にそれを聞くのは御法度だろう。俺らも、特に自分から聞くことはないな」

 なんでも気安く話してくれる喜助に聞いてさえ、この程度の素っ気ない答えだったので、宗二朗はこの件を追及したことがない。そして、気にしないようにしていた。

 この日も宗二朗は寺子屋の帰りに長屋の木戸をくぐり、掃除をしてから店賃を回収するつもりだった。

 この数か月、長屋の世話を任されて手間賃を貰うようになり、宗二朗はほくほくだった。

 自分で稼いだ、自由に使える金子があるというのはこれほど幸せなのか、と実感していたのだ。

 今までなら細君の顔色を伺いながら「寺子屋で必要だといわれた」と言い訳がましく説明しつつ揃えてもらっていた墨や半紙、筆などを自由に買うことができるし、我慢するしかなかったお菓子を時々だが買えるようになった

 特にまんまる堂の饅頭は絶品で、味が良いのは勿論のこと、大きい。とにかく大きい。手習いの教本よりも大きいのだ。その分、値も張る。

 寺子屋の帰りにこの饅頭を買えるヤツは、おこぼれ欲しさにその場限りの人気者になれる。

「今日はまんまる堂に寄って帰るか」と一言いえば、皆がちやほやしてくれる。

 通っている寺子屋で、勘吉がよく宣言しては子分宜しく皆を引き連れて帰っていく。

 呉服問屋の倅というのは金が余っているに違いない、と宗二朗は羨ましく思いつつも、なぜか一度たりとて勘吉の後についていこうとは思わなかった。

 勘吉のことは好きでも嫌いでもなかったが、誰かにお愛想を振りまいて分けてもらう饅頭は、とても美味しそうには思えなかったのだ。

 でも、今日の店賃を回収したら、数か月分コツコツと貯めていた金子で、宗二朗にもようやくまんまる堂の饅頭が買える。

 一人で食べるには大きいだろうが、美味しいと評判の饅頭はきっと、半分くらい明日に回しても美味しいに違いない。

 宗二朗の中でもう、饅頭を買うことは確定事項だった。

 浮足立った気分で長屋の木戸を抜け、内側に足を入れた宗二朗の前に、大きな人影があった。

 それは無口な寛太よりも頭一つ大きく、風来坊の喜助よりも横幅があり、存在感の薄い為八よりもずっと気配のない、見たことのない人物だった。

「……誰?」

「おや。これはこれは。拙者としたことが、出会うてしもうたか」

 宗二朗を見てへらりと締まりなく笑うその顔は、渋い口調とは裏腹にまだ若く見えた。寛太や喜助、為八とそう変わらない年齢だろう。そして、腰に差し物がある。

「お武家さま?」

「今は浪人だ。これか? 案ずるな、竹光だ」

 ほら、この通り、と宗二朗のまえで抜いて見せた刀身は、確かに金属の気配がない。

「家主の身内に向ける刃は持っておらん」

 明らかに偽物の刀を鞘に納め、腰に戻すと、男は宗二朗を見てもう一度相好を崩した。

 人好きのする明るい笑顔に優しい口調。

 なのに、宗二朗は思わず一歩下がって距離を取った。

 この男は危険だ、と本能が警告する。そして口を開いた。

「よく、わかりましたね」

「何がだ?」

「私は伯父の子供と間違われるか、小僧の一人に思われることが多いのです」

「そんなもの、名を聞けばわかろうぞ。其方の名は、そこらの商人や農民がつける名ではない。ゆえに小僧ではない。金銭を扱う仕事を任されるには若すぎる。雇われているのでなければ身内だろう。あれだけ長屋の皆に呼ばれていれば、嫌でも覚えるわ。なぁ、宗二朗どの?」

 笑う男は一歩、宗二朗に近づいた。その分、宗二朗は後退る。

「ふむ、勘は良いか。悪いよりマシだ。その面構えも良い。だがな、相手を睨みつけるだけでは意味がない。拙者のように笑って見せる、ゆとりが欲しいな」

 そんなもの、あるわけがない。

 心の中で応えながら、宗二朗はなんとか踏みとどまっていた。

 本当は逃げ出したかった。だが、この男に背を向けた途端、自分は死ぬのではないか、という嫌な予感が脳裏をよぎる。おそらくそれは、間違っていない。

 肌を突き刺すような気迫がある。全身を押しつぶすような威圧がある。

 源は全て、眼前の男からだ。

「逃げぬのか、つまらん」

 男がふんと鼻を鳴らすと、宗二朗に圧し掛かっていた重い空気が一瞬にして解けた。

 途端にどっと汗が吹き出して、宗二朗は何度も息を吸い込んだ。

 荒い呼吸を繰り返しながら、宗二朗は初めて見るその男を観察した。

 腕力、脚力、判断力、すべてにおいて宗二朗は劣っている。

 絶対的な強者の男は、初対面の宗二朗に遠慮のない殺気を放ってきた。

 なぜ? と単純な疑問を抱く。

 家主の身内に刃は向けないと男は言ったが、殺さないとは言っていない。

 向けられたあれは、確かに殺意だった。

「草の旦那。初対面にしちゃ、いささか荒い挨拶なんじゃありませんか?」

 気が付くと、喜助が宗二朗の背後に立っていた。

 そして、苦笑交じりの困った顔で男に軽口を叩く。

「これでも十分手加減している」

「旦那の手加減は一般的じゃないですよ? 宗二朗はまだ、子供じゃないですか。血の気引くまで脅さなくても良いと思いますがね」

「なら、お前が庇ってやればいい」

「そりゃ御免こうむります。おれは自分が可愛いんで」

 喜助は言葉通り、宗二朗を盾にするように男と対峙していた。

「もうちょっと殺気と気配を消してくださいよ。おれは自分の部屋で寝たいんです」

「寝れば良かろう」

「冗談言っちゃいけません。宗二朗より前に出た瞬間、おれのことを切ろうと思っている人が放つ物騒な言葉、鵜呑みにするほど抜けちゃいませんよ。おれは永眠したいわけじゃないんですよ」

「そうか。残念だ」

 男は微笑を浮かべ、喜助が望んだ通り、さらに気配を薄くした。

 大人の男がそこにいるのに、視界に入っているのに、なぜか気にならない。

 先ほどまで感じた威圧感が嘘のように消え、長屋はいつもの静寂さを取り戻していた。

「よし、これで大丈夫だ、宗二朗。あとは任せた」

「えっ? 喜助さん?」

 宗二朗を助けてくれたのかと思いきや、喜助はさっさと自分の部屋に入り、戸を閉めてしまう。

 残された宗二朗は自然、男と向き合うことになった。

「まあ、この日に出会ったのもなにかの縁であろう。茶でも飲んでいかれよ、宗二朗どの」

 男は大きな鉢植えがある戸板をすっと開け、宗二朗を中に誘った。

 先ほどまで殺気を放っていた相手を茶に誘うとは、なにを考えているのか。

 宗二朗は身構えた。だが、男はそんな宗二朗を見て呆れたように笑う。

「拙者が本気なら、宗二朗どのはとうに黄泉路を渡っていると思わないか? なに、宗二朗どのと拙者は大家代理と店子、言わば親と子の関係にある。無駄に警戒せずとも良い」

 そう言われても、殺されかけたほうとしては、素直に信じることも頷くこともできない。

 宗二朗はじっと男を見つめたまま逡巡する。

「今なら其方を殺そうと思った理由を教えてやるぞ」

 男はにやりと笑い、部屋の中に消えていった。

 宗二朗は迷いながら考える。

 確かに、あの男が本気で宗二朗を殺す気になれば、一瞬で事足りるだろう。

 部屋の中に招き入れて殺す、という面倒な手順を踏む必要がない。

 それに、わざわざ竹光を見せてから、自分に殺気を放った理由を知りたいと思った。

 先程、あの男に言われた台詞も気にかかる。

 宗二朗という名は、商人や農民の子につける名ではない、と。

 伯父の家では口にすることができない宗二朗の実の両親について、あの男は何かを知っているかもしれない。

 命を狙われる理由があるとするならば、それしかない。宗二朗自身には、心当たりがなにもないのだから。

 男は今なら、と言った。今を逃せば理由は教えてくれないということだ。

 宗二朗は大きく息を吐き、拳を握り締めた。

 あの男は怖い。近づきたくない。でも、腹を括ろう。

 こみ上げる恐怖を無理やりに抑え込んでも、知りたいと思ったのだ。

 殺意を向けられる自分の立場、というものを。

 そうして一歩前に踏み出した。

 毎日通って見慣れているはずの長屋が大きく、そしてどこか不気味に感じられた。

 開いたままの長屋の一室の奥は暗く、明るい外の光とは異質な、まるで別の時間が流れているような闇が広がっていた。

 宗二朗の足元で、鉢植えに茂った緑が揺れる。その中で咲く小さな黄色い花が、入り口を灯す光のように見えた。



 雨戸を締め切ったその部屋は、暗いだけで湿った空気は籠っていない。

 どこからか風が吹き、宗二朗の頬を撫でて通り過ぎる。

「中に入ったのなら、戸を閉めてくれぬか? 明かりがつかぬ」

「……はい」

 昼間なのだから明かりなど点けず、雨戸をあければ済む話だろうに。

 宗二朗は訝しみながらも、言われた通りに戸板を閉めた。

 すると同時に室内が外と同じくらいの明るさで照らされる。

 天井からだけではなく、壁の四方にも光源があり、不思議なことにそれは全て植物の形をしていた。

「花が、光ってる?」

 宗二朗は我が目を疑う。自分で見ているこの現象を信じられずにいた。

「花ではなく草だ。和蘭芥子という」

「よくわかりませんが、凄いですね」

「凄いかどうかは知らぬ。勝手に自生しているのだ」

「へぇ……」

 男の説明だけでは宗二朗の理解が及ばず、ありきたりな返事をしてしまう。

 どこからともなく頬を撫でていく風の流れを感じ、宗二朗は周囲を見渡した。

 すると、どうだろう。室内が長屋の大きさと合致しないほど、奥行きのある広い空間になっていた。

 長屋は全部、同じ造りのはず。

 この部屋だけが広く、畳を敷き詰めた座敷の様相をして、奥座敷につながる襖絵が見える、などという現象がおきるはずがない。

 先ほどの男は、座敷の中央に腰を下ろしていたが、手にはあの竹光を握り締めていた。

 宗二朗は閉めた戸板の前で、またも警戒を強めた。

「これは、どういうことですか?」

「奥座敷が気になるか? 宗二朗どのになら見えるであろう?」

「なぜ、私になら見える、と?」

「あれは宗二朗どのが生まれた時に背負った厄だ。こう言えばわかるか? 本来ならば親が背負うべき厄を、宗二朗どのが代わりに引き受けてこの世に下ろした。あれは厄災が出てくる扉を可視化したもの。我らはあれを界扉と呼んでいる。あの先には、厄界が広がっていると言われている。拙者は見たことがないので専門家に聞いた話だが、まあ、なんぞは出てくる。その前触れに風が吹く」

「この微かに吹いてくる風のことですか?」

「そうだ。だからこの部屋の戸板は滅多に開かぬ。戸の前に鉢植えを置いている理由も同じ。早く戸を閉めてほしかった理由も同じ。開け放つと厄災が外に溢れ出る」

 俄かには信じられないことを、男は真顔で言った。

「聞いたことはないか? 親が厄年の年に生まれた子供は、親の厄を代わりに背負いてこの世に生まれる。だから、一度は捨てなければ、とてつもない災いを運んでくる。厄を背負った子供の命は短いと言われているが、万が一、成人まで生き残ったのなら、その家に素晴らしい繁栄をもたらすだろう、という話を」

「知りません。初めて聞きました」

「宗二朗どの自身ことだ。覚えておかれよ」

 自分のことだ、と言われても、宗二朗に自覚はない。

 そもそも親の顔を覚えていないし、会いに来てくれた記憶もない。情もなければ恨みもない。

 自分は親の厄年に生まれたのか、ということを今、理解した程度だった。

「拙者はかつて、宗二朗の父上に仕官していた。不祥事を起こしたのだが、腹を切ることを許されず、代わりに宗二朗どのの守役を言いつかった。ゆえに、こうして界扉の番人をしている」

「それは、……お疲れ様です」

「したが、厭きた」

 彼の率直な意見に、宗二朗は返答を迷う。

「ですが、それは不祥事に対する主君からの罰なのでは?」

「拙者もそう思っていたので今まで耐えていたのだが、最近になってもっと良い手段があることに気付いたのだ。宗二朗どの自身が本来背負うべき厄災をその身に受ける覚悟があれば、もっと違う手段がとれるのではないか、と」

「もっと違う手段、とは?」

「わからん。だが、試す価値はあると思うのだ」

 真剣な顔で語っているが、内容はとんでもなかった。

 少なくとも、宗二朗にとっては凶報以外のなにものでもない。

「私の父から、それ以上の罰は受けないのですか?」

「受けるのではないか? 実家の父か、家督を継いだ弟が。少なくとも、拙者ではあるまい。拙者は表向き、蟄居のうえで出奔したことになっている」

「ご実家のことは、どうでもよいと?」

「拙者はとうに跡継ぎではないし、主君の密命を受けた身。実家とは縁が切れておる」

「……主君と呼ぶ相手の密命ならば、命を賭しても果たすのが武士だと思うのですが」

「表向きは浪人だ」

「そういう問題じゃないですよね? 過去の不祥事はどうしました? っていうか、一体なにしたんですか、あなた」

「些細なことだ。主君の刀を質に入れて流してしまった」

「……些細、ですかね、それ」

 武士の魂と呼ばれるものを質入れし、流してしまう。それも、主君のものを。

 ふわりと、流れてくる風を頬に感じ、宗二朗はあきれた口調で問い返した。

「金で解決できることは全て些細なことだ、と、宗二朗どのの父上が申していたのだ。些細だ。なのに、あの馬鹿殿は拙者に責任をなすりつけおったのだ。そもそも刀を質入れしたのは拙者ではない。殿ご自身でなされたのだ。拙者は止めた。そのあと、流れるまで忘れていたのは拙者も悪かったと思う。ゆえに今まで耐えてきたが、もうそろそろ限界が近い」

「浪人暮らしに飽きた、と?」

 彼の口ぶりから、それなりの家に仕えていたようだ。暮らしぶりが落ちぶれたのが不満なのだろうか、と思いきや、彼は首を横に振った。

「阿呆な主君に仕えているよりは、界扉の番人をしながらのんびり暮らせる今に満足している」

「なら、なにに耐え難いのですか?」

「それを今から見せてやる。ゆえに其方を呼んだのだ、宗二朗どの。その目でしかと見ておかれよ」

 男はそう言って、腰に差している竹光をゆっくりと抜いた。

 外では確かに竹そのものだった刀身は、微妙に光を帯びていた。まるで金属のように。

 そして鞘から抜かれた部分に、確かな波紋が見える。

「この竹光は、厄介物からできている。厄介物とは、親の厄を背負いきれず死んだ子供の亡骸から生える、厄界の植物のことだ。陽の光の下と姿が違うであろう? それが厄介物の特徴の一つ。この世と厄界の融合物であり、厄界から流れ来る厄災を留めることができる唯一のもの。これら厄介物を変化させることができるのは、厄介者のみ。先程拙者が申した、専門家という奴だ。厄介者は、親の厄を背負った子供の一人」

「では、私と同じ立場であっても、生き延びている人がいるという事ですね?」

 宗二朗は己の活路を見出した気分になり、少し浮足立った声で問いかけた。

「そうとも言えるが、正しくは違う。厄介者は人間ではない。それゆえ、彼等厄介者はこの世と厄界を自由に行き来できる。この世の仕組みには従わぬ自由な奴等でな、これを見よ」

 男はそういうと、竹光を鞘から抜き放った。

 その刀身は鞘の約半分。しかも先端はなにか齧られたような不ぞろい気味の楕円形をしてる。

 これを他人に見せたくなくて、男はずっと半身しか抜かずにいたのだろう、と宗二朗にも察しがついた。

「このような厄介物で厄災を払うことを、厄払いという。厄払いした厄災もまた、厄介物と呼ばれる。正しく言うと違うものになるそうだが、この世に存在できる厄災、という括りで厄介物と呼ばれている。そして、界扉から出てくる厄災は、界扉の主を目指すらしい」

 この場合、扉の主とは宗二朗のことだろう。

 今から開く界扉から出てくるなにかは、宗二朗を目標にして出てくる、ということだ。

 男を見据えたまま、宗二朗は無言で頷いた。

 室内に風が吹く。それは微風ではなく、確かに壁の明かりを灯す草を揺らす程度に風速を増していた。

「厄払いには副作用があってな。良い機会だ。拙者の口から聞くより、その目で見て、宗二朗どのが判断されよ」

 男が最後まで言い終えるか否かの瞬間、豪、と室内が揺れた。

 すさまじい強風が室内で荒れ狂う。

 男が睨む先、奥座敷にある襖が半分開いていた。

 嵐の最中に外出したような、立っているのがやっとの状態で、宗二朗は襖の奥に見える世界に息をのんだ。

 眩しい銀色の世界、その光が弱くなった途端に見えた色とりどりの花が揺れる風景。

 それはまるで、浄土と呼ばれるに相応しい満ち足りた光景に思えた。

 穏やかで優しく、美しい物だけが存在できる、異質さを覚えながらも魅了される。

 そして込み上げる思慕が宗二朗の足を動かした。

 あの場所に、あの世界に、帰りたいと思った。

 あれこそが自分の存在すべき場所だと、感じた。

 あの世界が自分を拒絶しないことも、受け入れてくれることも宗二朗は知っていた。否、そう思い込めるほどの郷愁に似た感情が宗二朗を突き動かす。

 ゆっくりと導かれるように、宗二朗はその開け放たれた襖の奥に向かって歩を進めた。

 一歩、二歩、と進むたび、宗二朗の行く手を阻むような強風は徐々に緩み、歩きやすくなっていく。

 どこかで宗二朗を呼ぶ声が聞こえた気もするが、足を止めるには至らなかった。

 帰りたい。いや、帰るのだ。

 自分を受け入れてくれる世界に手を伸ばそうとした、その瞬間、宗二朗は襟首を掴まれて引き戻された。

「正気に戻られよ、宗二朗どの。あそこに行けば、二度とこの世には戻れぬぞ」

「それがどうしたのです。この世に私の居場所があるとでも? 伯父の家で肩身狭く、このまま先の見えない状態で生きている私に、碌な未来などあるはずがないっ!」

 自分を引き留める相手を確認することなく、宗二朗は抱えていた思いそのままを放っていた。

 物心ついてよりずっと、宗二朗は孤独だった。

 親代わりの伯父夫婦はいた。生活に困らない手配もしてくれた。勉学も習い事も、実の子と同じようにさせてくれた。

 だが、毎日のように目の前で見せられる親子の会話に、宗二朗が加わったことは一度もない。宗二朗になにかを問う相手もいない。気遣われることは稀だった。

 細君は苦手だったが、従妹の頭を撫で「よく頑張ったね」とほほ笑む姿は、正直、憧れだった。あんなふうに自分も誰かに褒められてみたい、と思った。すぐに諦めてしまったけれど。

 伯父の後を継ぐのだと、他店に奉公に出た従兄も、年に二度の帰宅をするときには家族総出で「よく帰ってきた」と出迎えてもらっていた。

 実の家族とは、実の親とは、あんなふうに接してくれるものなのか、と幾度羨望を抱いたか知れやしない。

 知らなければ、憧れることはなかっただろう。

 でも、毎日のように見えてしまう家族の姿に、宗二朗はいつしか諦念を覚えるようになっていた。

 ただ、諦めることを覚えたからといって、欲しくないと言えば嘘になる。

 手をつないで歩く親子の姿、名を呼びながら迎えに来る親の影、手を振って嬉しそうに帰っていく友人の背。

 ただただ、置いて行かれるだけの自分を惨めに思う。

 宗二朗を迎えに来るのは店の使用人の誰かであって、家族ではないのだから。

「肩身狭く生きていれば、未来がないのか? 本当に? 未来は自分で作れるのだぞ」

 声の主は耳元でそう言うと、宗二朗の顔を片手で覆った。

 途端に視界が暗くなる。

 前に見えていた、宗二朗を受け入れてくれる美しい景色が遮られ、不安と不満で渦巻く闇を眼前に突き付けられたような感覚になる。

「見えるものに囚われるな。与えられなかった不遇を嘆くな。宗二朗どのが欲しいものは、宗二朗どの自身がこれから新しく手に入れればよいのだ。己に問え。宗二朗どのは今、なにが欲しい?」

 問われてから、ふと、思う。自分はいったいなにが欲しかったのだろう、と。

 褒めてくれる親だろうか。

 迎えに来てくれる誰かだろうか。

 つないでくれる手、撫でられる暖かさ。

 どれも間違ってはいないが、正解ではない気がした。

「……居場所が。ここにいても良い、と、いつでも帰れる場所が、……そんな、家が」

 あったなら、どれほど安心できるだろうか。

 仮住まいでもなく、部屋住みでもなく、ここが自分の家だ、と言って帰れる場所。

 色々と欲しいものはあるが、まず、場所が必要だ。

 多少、不自由な生活になっても良い。貧乏でも良い。この長屋の一室でも構わない。

 決して手に入らない家族の暖かさを見なくても良い場所。

 誰にも気を遣わずに寝転がったりできる部屋。

 そしていつか、自分に子供ができたなら、羨ましいと思った親の姿を全部与えてやりたいと思う。

 嫌がられるほど抱きしめて、お帰りと出迎えて、褒めて、愛して、悪いことをしたときは真剣に叱る。そして「いつでもここに帰っておいで」と言ってやりたい。

 だからまず、場所が欲しいと思った。

「居場所と家か。当座の目標としては上出来だろう。なあ、宗二朗どの。厄界に家はないと聞く。そして、厄界では家族をつくれん。なぜなら、厄界は厄の世界だ。人間の世界ではない。厄界は厄介者を受け入れはするが、人間としては変質してしまう。最終的に馴染むことができない異端として、死体はこの世に送り返される。だが、この世にあれば、家を持つことも、妻を娶ることも、子をなすこともできる。宗二朗どのはそれでも、厄界に行きたいか? あの世界に一度でも足を踏み入れたなら、宗二朗どのは生涯、厄介者として生きる以外にないのだぞ」

 ひゅっ、と息をのむ音が耳の奥に響いた。

 それが自身のものだと気付かぬまま、宗二朗は徐々に光が差してくる視界の先に戸惑っていた。

「心して選べ。拙者が引き留めるにも限度がある。厄を背負った宗二朗どのが己で抗うしかない」

 そうして、宗二朗の視界が元の明るさを取り戻す。

 眼前に広がる豪奢な襖絵の界扉。

 いつの間にか宗二朗は界扉の前に立っていた。否、ずるずると美しい異界へ引きずり込む見えない力が、宗二朗の全身を縛り付けている。

 振り返ると、宗二朗に語り掛けていた浪人の姿があった。

 その場所は宗二朗の背後であるのに、轟々とした嵐のごとく荒れた空間だった。

 髪も着物も宙を上下左右に暴れているような乱れ具合で、彼の手にする半身の刀は鈍い光を放っている。

 反対に宗二朗のいる場所は、風など吹いていない穏やかな空間そのものだ。

「私は……」

 言いかけて、宗二朗は迷った。

 自分を強制的に招き入れようとするあの美しい世界は、きっとどんなに居心地が良いだろうか、と。これほど強烈に「帰りたい」と思う世界が、宗二朗に辛い場所であるはずがない。

 それに比べ、この世は宗二朗に優しくなかった。

 伯父家族の幸せを見ながら、他人の笑う姿を羨みながら、自分は独りだ、と思い知らされる。しかも、顔も覚えていない実の親は、宗二朗に己の厄を背負わせてこの世に送り出したらしい。宗二朗の背負った苦痛の半分は、実の親のせいではないのだろうか。

 宗二朗が逡巡する少しの間に、ずるり、と身体が動かされ、浪人との距離が開く。

 浪人は宗二朗の言動を見逃してなるものか、という形相でこちらを凝視していた。

 彼の真剣な眼差しを見ているうちに、宗二朗は「ああ、そうか」と呟いた。

 顔も覚えていない親が、宗二朗のために遣わしたのが彼なのだ。

 宗二朗を守るために、界扉の番人として。

 それにようやく気が付いた。

「私のことを案じてくれている人が、この世には間違いなくいるのですね」

「ああ、そうだ」

 浪人は厳しい表情で頷いた。

 そして彼は今、宗二朗の返答を待っている。

 宗二朗の意思を、言葉を待っていた。

 欲しいものはずっと、他人のものだと思っていた。だから諦めてきた。

 諦めなくても良いのなら、宗二朗は欲しいと思う。今からでも、遅くなったとしても。

 未練は希望と似ている。未練があるのは望みを捨てていない証拠だ。

「私はこの世で生きます。いや、この世で生きたい。どんなに魅かれても、厄界にはいかない。この世で、私を一人にしたままの実の親に文句の一つも言ってやりたい。それから人間として、生涯を全うしたい。欲しい物を手に入れて、必ず幸せになる。厄介者にはならないっ!」

「あい分かった。この荒川持暇、拝命したクサノオウの名にかけて、約束の時まで宗二朗どのをお守りいたす」

 宗二朗の叫びを聞いた浪人は、にやりと笑った。

 極悪人の笑みに似たそれは、宗二朗の胃の腑に氷を流したような後悔と悪寒を与える。

 出会ったときに感じた違和感など比ではないそれは、容赦のない殺気だ。

 確実に仕留めると決めた意思の力を感じた。

 宗二朗の足は竦み、身体は完全に硬直していた。

 彼の構えた半身の刀が一閃する。刀の軌跡が金色の線になり、宗二朗の身体を掠めた。

 その瞬間、宗二朗を束縛していた見えない何かが解かれた。宗二朗の足元に、ごとり、と落ちた感触があるが、襖の奥からさす銀色の光が視界を遮り、よく見えなかった。

「失せろ、厄災。我が主は人であることを選んだ。そちらに連れていくことは、守役の荒川が許さん」

 彼の低い声が宗二朗の頭上で響く。途端に、宗二朗は吹き飛ばさるかと思うような強風に身体を揺らされた。床に膝と手を突き、なんとか半身を起こして周囲を確認する。

 風に形を変えられた壁の草が、所々へたりと落ち、破れた葉が宙を舞う。障子の紙は破れかぶれで骨組みしか残っておらず、見える畳はささくれが目立ち、どちらも到底使い物にならない有様だ。

 先程、荒川と名乗った浪人は、いつの間にか宗二朗と界扉、絢爛な襖の間に立ちふさがっていた。

 身を挺する彼の大きな背を見上げ、宗二朗は自分が守られていることに気が付いた。

 開いた襖の奥に見える、明るくて穏やかな世界は徐々に光に包まれて輪郭を失っていた。

 少しだけ、得られたかもしれない未知の世界に未練を飛ばしそうになる。

 冷静になった今なら、なぜあの場所が自分を優しく受け入れてくれる、と信じてしまったのか不思議に思えた。そんな確証など、ありはしないのに。

 荒川が引き留めてくれなかったら、宗二朗はあのまま厄界に引き込まれていただろう。

 それほどに魅力的で、強い吸引力のある世界だった。

 少なくとも、宗二朗にはそう見えた。

「立てるか? 宗二朗どの」

「……え? あ、はい」

 手を差し伸べてくれるわけではないが、かけられた低い声に宗二朗は安堵した。

 自分が選んでこの世に残ったのだ。

 畳のささくれが手のひらを刺す痛みや、打ち付けた膝の痛みが、宗二朗の正気を促した。

「これが厄払い、なのですか?」

「そうだな。今回のは扉の主が傍にいたせいか、いつもより大きな獲物だったと思うが、まあ、毎回似たようなものだ」

 荒川は返事をしながら、宗二朗の横に転がる見たこともない奇妙な形の物体を掴み上げ、手にしている半身の刀を振り下ろした。何度も刻んでいるうちにそれは、一口大の大きさにまで小さくなる。

 そして荒川はひとつのかけらを掴み、口の中の放り込んだ。

「これ、食べられるのですか?」

 驚愕を隠せない宗二朗に、荒川はああ、と頷いた。

「宗二朗どのは食すなよ。これは拙者がクサノオウを拝命している間だけ可能なのだ。というか、クサノオウは厄介物しか食せぬ。これが厄払いの副作用だ。今まで拙者に厄介物を持ってきていた厄介者がこの一か月ほど現れぬでな。碌に食べるものがなかったのだ。仕方なく刀を食って空腹を誤魔化していたが、それも限界に近かった。それゆえ、界扉の主を連れてくれば、否応なく界扉が開き、食べ物が得られるだろう、と思ったのだ。ああ、さすがに長い空腹の後に肉体労働は堪える。そして、相変わらず不味い」

 荒川の説明は雑だった。

 よくわからない言葉も出てきたし、それについての説明も碌にない。

 ただ、彼が厄介物しか食べられないことと、その厄介物がなくて刀を食べて凌いでいたこと、宗二朗を餌に界扉とやらを開き、厄介物を手に入れたことは理解した。

 宗二朗の足元にはまだ、いくつかの奇妙な物が原形のまま転がっていた。

 緑色を濃くしたような、黒くも見えるその物体は、どう見ても食べ物には見えないし味など追及しようとも思わない代物に見えた。

 奇妙な形、とよく知らない宗二朗でも言ってしまえるのは、完全な球体だったり円柱だったりと、食べ物にも生き物にも見えない形をしているからだ。

 これが厄界からくる厄災、と言われても、恐ろしさは感じない。

 荒川が文句を言いながらも隣で食べて続けているせいかもしれないが。

 宗二朗はふと、手近にある球体を掴んでみた。

 不気味な色はともかく、大きさ的になんとなく、まんまる堂の饅頭を思い出したのだ。

 本当なら宗二朗は今日、この男から店賃を回収し、そのあとにこのくらいの大きな饅頭を買って食べるはずだった。

 つい数刻前まで、そんな平穏な未来しか想像していなかった。

 自分が親の厄を背負って生まれてきたとか、そのためにこの荒川という男が守役とか門番をしているという話など、まったく知らなかったし、知る由もなかった。

 荒川が刀を食べ始めるほど空腹だったという話に少しだけ同情も覚えるが、宗二朗にすれば、突然、奇怪な出来事に巻き込まれた感が強い。

「私も、まんまる堂の饅頭を食べたかった……。ずっと楽しみにしていたのに」

「そんなもの、明日に改めて食えば良いではないか。饅頭は毎日作って売られるものだ」

「それはそうですけど」

 顔を上げた宗二朗は、それまで眉間に縦皺を寄せながら無心に異物を食べていた荒川が自分を凝視していることに驚き、少し身を引いた。

「な、なんですか?」

「……宗二朗どの、それは?」

「それ?」

「手に持っているその饅頭だ。どこから出した?」

「饅頭? 持っていませんよ、そんなもの。大体まだ、買っていませんし。これはそこにあった、あなたの言う厄介物の一つですよ。ほら、真っ黒でまんまるの」

 宗二朗の抗議はまるっと無視し、荒川は宗二朗の差し出す厄介物をじっと見つめていた。

「差し支えなければ、それを拙者に渡してくれるか?」

「良いですよ、どうぞ」

 手を出す荒川に、宗二朗は持っていた厄介物を渡した。

 受け取った荒川は返す返す色々な方向からその厄介物を眺め、そして首を傾げながら半身の刀でその厄介物を刻んでいった。

 その欠片を一つ手に取り、口の中に放り込む。

 途端、男の目が大きく見開かれ、動作が止まり、身じろぎ一つしなくなった。

「あの、大丈夫ですか?」

 宗二朗は恐る恐る声をかけるが、荒川はしばらく反応しなかった。

 どうしよう、と宗二朗が狼狽しかけたころ、荒川は急に手にしていた厄介物すべてを口の中に詰め込み、ほどなく飲み込んだ。

 そして荒川は真剣な顔で宗二朗の正面に移動し、腰を下ろす。

「……宗二朗どの。先程、饅頭のことを話しておられたな?」

「え? ああ、はい」

「厄介物を持ちながら、饅頭のことを考えておられたな?」

「そうなりますね」

「ならば、少し付き合って頂きたい」

「どんなことに、でしょう」

 宗二朗は荒川の迫力に押し負けそうになりながら、精一杯の予防線を張った。

 なにかわからないうちに変なことに巻き込まれ、今の状況に陥っている。

 厄界だとか、厄介物だとか、厄災だとか、界扉とか。

 宗二朗をこの状況に巻き込んだのは、紛れもなく目の前に座るこの男だ。

 迂闊に返事などしてはならない、と宗二朗の本能が叫んでいた。

「そうだな、まず、この厄介物を持ちながら炊き立ての白米を思い出してもらおうか」

「はい?」

「なにをぼやっとしておる。さっさと受け取る。即、白米を思い浮かべる。さあ」

「はぁ……」

 胸元に押し付けられた厄介物を受け取りながら、宗二朗は混乱していた。そして、促されるままに白米を思い浮かべていた。今朝食べた、炊き立ての白米。白くてもちもちして、噛めば噛むほどほのかな甘みが滲む、馴染み深い食べ物。

「よし。次は魚だ。焼き鮭を思い出せ」

「え?」

 疑問を抱く間も与えず、荒川は宗二朗に厄介物を押し付けながら注文を繰り返す。

 卵焼き、揚げ出し豆腐、茄子の煮びたし、ほうれん草のおひたし。筑前煮に筍の煮物。味噌田楽に冷奴。蜆の味噌汁に蛤のお吸い物。

 そこまで数をこなせば、さすがに宗二朗でも推察できた。

 この男は、自分の食事を宗二朗に作らせているのだ、と。

 味がない、不味い、と言っていた厄介物は、宗二朗の思念を受けて食べられるものに変化しているのだろう、きっと。

 一切の説明なく、次々と具体的な料理ばかりを真顔で注文してくる男は、間違いなく飢えているのだ。

「あの、まだですか? 私、そろそろ帰らないと叱られるんですが」

「まだまだ。次は烏賊焼き」

「明日でも良くないですか?」

「明日になったらまた、不味い物体に戻るかもしれんだろうが」

「戻らないかもしれないじゃないですか。少しは残して試してみたほうが良いですよ」

「子供は大人のいう事を聞くのもだ」

「こういうときだけ都合よく大人にならないでください。子供の私を餌に、自分の食事を確保したばかりでしょうが、あなた」

 本人が厄払いの副作用で厄介物しか食べられない身体だ、と言っていたのだ。しかも、直近の一月ほど、食事がとれない状態だった、とも。宗二朗は彼の食事を確保するために、この部屋に誘導されたとみて間違いない。

「それを美味くできる人間がいるのだから、使わない手はないだろう。共存共栄というやつだ。人間、持ちつ持たれつだ。拙者は界扉の番人で、宗二朗どのの守役だ。守役に食事を与えるのは主の務めである」

「適当にもっともらしい理屈をこねないでください」

「真理だ、事実だ、現実だ。腹が減っては戦ができぬ」

「ええ、ええ。それはそうでしょうともっ!」

 無駄な口争いをしながら宗二朗が意識を失うほど疲れるまで、その作業は延々と続けられた。

 その日、宗二朗は生まれて初めての無断外泊をすることになった。



 陽の光が眩しい。目を開けた宗二朗は、晴天の青空を見上げながら半分ほど意識は混濁していた。

 目を開けてすぐに見えるのが、なぜ青空なのだろう。

 縁側で少し、転寝でもしてしまったのだろうか。

 それならば早く起きないと、細君に叱られてしまう。

 だが、身体を動かそうにも思うようにできなかった。

 骨に鉛でも埋め込んだかのように、身体のすべてが重かった。

 声を出そうにも、酷く喉が渇いて難しい。

「なにしてくれているんですか、草の旦那。宗二朗はまだ子供って、あんたが常々言っていたことじゃないですか。倒れるまでこき使ってどうしますか。人間の子供には睡眠も食事も必要なんですよ、あんたと違ってね」

 喜助の声が、朦朧としている宗二朗の耳にも届く。それほどに大声を張っている。

 その時点でようやく、宗二朗は自分が寝ている場所が伯父の屋敷ではなく、昨日はじめて入った長屋の一室であることを思い出していた。

 なぜ寝転がった体勢から青空が見えるのか、は、わからないが。

「十数年ぶりの味の付いた食事だったもので、つい……」

 喜助の叱咤にこたえるのは、昨日、荒川と名乗った男の声だ。

 自称、界扉の門番であり、宗二朗の守役の。

「だからといって、宗二朗が死んだら元も子もないでしょうが。本気になった旦那を止めることができる草なんていないんですからね、しっかりしてくださいよ」

 昨日、堂々と宗二朗を見捨てた男の台詞とは思えないまっとうさで、喜助は正論を唱えていた。

 初対面で軽い殺気を放っていた荒川の、今ならあれは空腹のため、多少の理性を飛ばしていたのだろうと思うが、あの飢えた獣のような男の前に宗二朗を置き去りにして自室にこもってしまった喜助に、しっかりしろと言われたくはないだろうな、と他人事ながら思う。

「宗二朗が倒れた時点で、おれか他の草に声をかければ済む話でしょうに。寛太も為八もいましたよ?」

「寝ているだけだ、と思ったのだ。まさか倒れたとは……。なんと脆弱な」

「だから、宗二朗は普通の人間の子供だって言っているんですよ。聞いてます?」

「やはりここはひとつ、鍛錬を強化し、体力をつけてもらったほうが良いかもしれんな」

「違います。人間に必要なのは、まず休憩。あと、食事。厄界と対峙させたあとに、飲まず食わずで働かせるなってことです。おれら成人の草が数人がかりで処理しても倒れることがある厄介物に数刻も触れさせておいて、なんで子供の宗二朗が平気でいられると思っているんですか。血の気が引いた、青白い顔をしているじゃありませんか」

「もともと色白だと思っていたが、違ったか?」

「もうちょっとよく、相手を見たほうが良いんじゃないですかね、旦那は。蛮勇を轟かせたクサノオウの名が泣きますよ」

 二人の会話を聞きながら、宗二朗は仔細を理解した。

 厄介物を欲した荒川に誘導され、界扉から厄災をおびき寄せ、厄払いをして厄介物を手に入れることには成功した。そこまではおそらく、予定通り。

 そのあと、不味いはずの厄介物を宗二朗が饅頭に変えたところで、予定が変わったのだろう。主に荒川の都合で。

 それでなくても空腹に耐えていた男だ。唯一の武器である刀を食べてしまうほどに。

 彼の前に御馳走を提供できる存在が現れた。

 利用したくなるかもしれない。それが自分でなければ、より良かったと思うが。

 全身の重さをこらえながら、宗二朗はなんとか声の聞こえるほうに顔を向ける。

 戸板が全開になり、明るい日差しが差し込んでいる。その前にある二人の人影。

 ぼやけてはっきりと認識できないが、喜助と荒川だろう。

「宗二朗、気が付いたのか?」

 聞こえたのは喜助の声だったが、人影は二つとも宗二朗のほうに近寄ってきた。

「おれがわかるか? 水と粥をもってきたんだ。食べられるか?」

 返事をしたくても声がでず、宗二朗はゆっくりと首を横に振る。

「じゃあ、水だけでも飲め。喉が渇いただろう?」

 その問いに、今度は何度も頷いた。

「厄介物は水分とられるからなぁ。欲しいだろうと思ったんだ」

 井戸からくみ上げた桶いっぱいに揺れる水を、喜助らしき人影が宗二朗の枕元に置き、「少しだけ待っていろ」と言って、小さな水音が響いた。

「ほら、草の旦那。突っ立って見ていないで、宗二朗の身体、起こしてください」

「お? おお」

 脇から背中にかけて、大きな手と腕が宗二朗の上半身を起こす。そして、宗二朗の口元に細長い竹筒が当てられた。

「最初はゆっくりと飲むんだぞ。慌てて飲むと咽るからな」

 言葉通り、冷たい水がゆっくりと細く長く、宗二朗の喉を通り落ちる。

 もっと、もっとたくさんほしい。

 そう伝えたくて、宗二朗は竹筒を掴もうと手を伸ばすが、喜助の手に阻まれた。

「駄目だ。お前は今、いきなり大量の水が飲めるような状態じゃない。慌てなくても水はたくさんある。ゆっくりだ、良いな?」

 身体が自由に動かない以上、嫌だと思っても従うしかない。

 宗二朗は渋々頷き、与えられるままに喉を潤していった。

 細い竹筒を何度も往復させ、声が出せると自分で思うまで水を飲み続けると、宗二朗の重かった身体も少しは動くようになり、声もだせるようになってきた。

「ありがとうございます、喜助さん」

「いやいや、こっちこそ気付くの遅れて悪かったよ。草の旦那の大雑把さを甘く見てたわ、おれ。落ち着いたら粥も食え。もうちょっとまともな状態にしてからじゃないと、大家の所に返すのが怖い。なに言われるかわかったもんじゃない」

「あ、伯父さんへの連絡は……」

「おれがしておいたよ。おれと寛太と一緒に、魚釣りに行ったことになっている。遅くなる、とは言っておいたが、泊めるとは言わなかったから説教されるかもな」

「いえ、助かります」

 怒られるのは決定のようだが、連絡なしの無断外泊よりは言い訳が立つ。

「喜助は、子供の介抱が得意なのだな。口だけしか取り得がないのかと思っていた」

「介抱なんて得意じゃないですよ。ただ、実家が貧乏子だくさん。兄弟は捨てるほどいましたし、おれは上から二番目で、弟妹の面倒を見なくちゃいけない立場だったんでね。数をこなして慣れました」

 荒川の失礼な物言いに腹を立てるわけでもなく、喜助は飄々と受け流す。

 喜助は田畑を捨ててきた元農民なのだが、とにかく口が立つ。幇間のようによく喋りよく笑う。気が付くと知り合いの座敷に呼ばれ、場を盛り上げては食事とお捻りを頂くような生活をしていると本人が言っていた。

 そのはずだ。

「喜助さん、少し聞いても良いですか?」

「おう、なんだ?」

「草ってなんです? クサノオウって、なんですか?」

 宗二朗の質問に、喜助の視線は宗二朗の背後にいる男に移り、そして、へっと嘲笑うような顔になった。

「もしかして宗二朗、お前、そういう基本的なことをなにも知らされていないのか?」

「基本かどうか知りませんが、なにも。その言葉だけなら何度か聞きましたけれど」

「旦那、なに考えているんですか? 説明なしにいきなり厄界のあれこれに巻き込んだとか? 宗二朗って、守らないといけないんじゃなかったんでしたっけ?」

 喜助の白眼を受け、荒川は少し不機嫌な口調で答えた。

「ちゃんと守ったではないか。厄界に取り込まれぬよう」

「そのあと、倒れるまで使ったくせに?」

「それは、不可抗力というか、不幸な偶然というか、たまたまだ」

「守役のたまたまな不可抗力で死にかけていちゃ、世話ないな、宗二朗」

 開き直った荒川の上げ足を取りつつ、喜助は目で笑いながら宗二朗に話題を振った。

「私としては、守役っていう所から疑っているんですよね。大体、守役が食事確保のために主を餌にするってどうなんですか? ないでしょ?」

「おう、ないわ。ありえないわ、それ」

「ですよね? 私の疑問、当然ですよね?」

 軽く盛り上がる二人の会話を聞き、荒川は反論に加わった。

「拙者は説明した。宗二朗どのは親の厄を背負ってこの世に生まれた、と」

「それだけですよ、説明したのは。クサノオウってなんですか? 草とは? 私の親は、どこの誰なんですか?」

「それは……」と言いつつ場を離れようとした荒川の着物を、宗二朗はしっかと掴んだ。

「教えてくれるって言いましたよね? 教えてください、今、ここで、是非」

 宗二朗は疲労の深い笑顔を作りながら、絶対に逃がすものか、と荒川を睨み上げた。



 荒川が宗二朗に捕まったのを見て、喜助は「じゃあ、おれは席を外しますね」と室内から出ていった。気を利かせたつもりなのだろう。だが、いつの間にか屋根がぶち抜かれ、青空が仰げるこの部屋の中の会話は外に駄々洩れだ。どこかで聞き耳を立てているに違いない。

 喜助の性格を考えれば、十分にあり得ることだった。

 それを加味して尚、宗二朗はこの男に聞きたいことが山ほどあった。

 胡坐をかき、困ったように眉を下げた荒川は、昨日と印象がまるで違う。

 険のあった雰囲気がなりを潜め、隠しきれない刃のような気迫が薄くなり、身形さえ整えばそこらを歩く武士と大差ない、余裕のある男に見える。

「それで、宗二朗どのはなにが知りたいのだ? 拙者にも言えることと言えぬことがあるが、それでも構わぬか?」

「はい、それで構いません。言える範囲で教えてください。まず、クサノオウとはなんですか? 昨日もその言葉は聞きましたが、あの状態で暢気に質問できませんでした。喜助さんも知っていることなら、私にも教えてもらえますよね?」

「ああ、クサノオウか。それなら、表にいつも置いてある鉢植えの植物の名だ。そして、界扉の番人は全て、役目の間はその名を拝命する決まりになっている。だから、今のクサノオウが拙者ということだ。親の厄を背負いながら成人まで生き延びた最初の子供、彼を守ったのがクサノオウだと言われている。主を成人まで守り切れるように、という験担ぎの一種だな。初代を守ったというクサノオウから株分けした鉢を受け取ると、自動的に拝命したことになる」

「それだと初代の界扉の番人が、あの植物だったということですか?」

「それについては拙者も知らぬ。ただ、クサノオウはそれ自体が薬草であり毒草だ。傷をつけると黄色の液が流れるので草の黄、もしくは皮膚病に有効だと言われる言葉から瘡の王。それか単に薬草の王を意味する草の王、と諸説あるな。拙者もあの鉢植えを渡されるときに『取り扱いに気をつけろ』と言われた程度だ。まあ、あれも植物なので枯らすわけにはいかぬだろうと、戸外に置いている。そうすれば、雨露で勝手に自生するだろうと思ってな。拙者が呼ばれているのは、意味として草の王に近い。巷に散らばる草と呼ばれる密偵を、主以外で自由に使える者、という意味だ。あの鉢植えは、その目印にもなる」

「では、草とは密偵のことですか?」

「そうだ。この長屋の住人は皆、草だ。界扉をここに固定させると決めたときに、住人も草限定と決めた。なにも知らない無関係の人間を、厄払いに巻き込むわけにはいかぬ。宗二朗どのの伯父上も承知のこと。十分な金額を先払いしているはずだ。ゆえに無宿ばかりが住まうと悪評が立っても、誰も追い出されぬ」

 なるほど、と宗二朗は得心した。

 金に煩いと評判の伯父が、なぜこの長屋のみを別として扱うのか、あれほど尻に敷かれている細君の苦情すら聞き流しているのか、家中の者は皆、不思議がっていたのだ。

 金を受け取っていたのなら、商人は絶対に約束を守る。信頼がなくなれば商売が成り立たないためだ。

「寛太さんも、喜助さんも、為八さんも、皆さん草と呼ばれる密偵なのですね」

「そうだ。宗二朗どのの実家子飼いの草たちだ」

「皆さんあまり、武家とは関係がなさそうだと思っていたのですが」

「ああ、関係はない。草は草。どの家の子飼いか、草自身も知らぬ。特別な指示がなければ普通に暮らし、指示があれば言われた通りに動く。死んでも誰も回収せぬ。無宿が選ばれやすいのは、身元を特定されにくいからだ。その代わり、報酬は十分出るし、決して寄場送りにもならぬ。身寄りも伝手もないのだから、待遇としては悪くないはずだ」

 確かに、まともな大店は人別改帳に名のない人間を雇わない。

 無宿が人並みの生活を望むのなら、後ろ盾が必要になる。

 武家の子飼いとなれば、無宿であっても話は別だ。

 役人に改帳の検分をされたとしても、人足寄場に送られることがない。他に報酬が出るのなら、文句のつけようがない働き口になる。

「ここの草は特別な役目を負わぬ。主に厄払いの後始末をさせているだけだ。長屋に与えた損害は別途、こちらで補修するという約束があるゆえ。寛太も為八も、手先の器用さを見込んで雇った者たちだ。此度の厄払いで傷んだこの、屋根も障子も畳も、数日で修理をするだろう。界扉は、一度開けば一週間は開かぬものだからな。喜助はまあ、特別口が立つので、主家の伝手で料亭に行かせたりもしているようだが、噂を拾うか広めるか、そんな働きだと思う。拙者の指示とは別に動いているので、詳細まで知らぬが」

「わかりました。では、私の父はどこの誰なのですか?」

「それは言えぬ」

 荒川は迷いなく即答した。

 宗二朗も、ある程度予測していたが、こうもきっぱりと言われてしまうと重ねて聞くことができない。

「それは、草の耳があるからですか?」

 二人きりで、誰にも聞かれない場所でなら、教えてもらえるのだろうか。

 宗二朗の疑問は荒川自身に否定される。

「関係ない。草は邪魔になれば他の草が始末する。主家の邪魔をするような草は、最初から不要だ。草は関係なく、宗二朗どのが成人を迎えるまで秘すように、と、達しが出ている」

「それは、なぜ?」

「知らねば巻き込まれずに済むことがあるからだ。巻き込まれても、当人が知らぬのなら追及のしようがない」

「私の身を守るため、ですか?」

「それもある、としか拙者には言えぬ。世の中、知らぬままでいたほうが良い事もある」

「わかりました」と、宗二朗は頷いた。

 今はまだ、自分の立場を知ったばかり。すべてを教えられたとて、宗二朗の理解は追いつかない。荒川が言うように、知らないからこそ安全、ということもあるのだろう。

 宗二朗自身、納得したわけではないが荒川に守ってもらう立場にある。

「私が無事、成人を迎えれば、教えてもらえるのでしょうか」

「おそらく。拙者もそうできるように尽力する」

 荒川は神妙な顔で頷いた。

「その代わり、と言っては何だが、宗二朗どのにも尽力願いたいことがある」

「なんですか?」

「この状況で大変言い辛いのだが、また厄介物を変化させてみてはもらえぬだろうか」

 宗二朗は無言で荒川を見上げた。

 決して言葉は発していない。水も自力で飲めないほど衰弱したばかりの自分に、この男がなにを言っているのか理解できなかったのだ。

「勿論、今すぐとは言わぬ。回復したら、で構わぬ。変化させられなくても文句は言わぬ。少しでも味のある食べ物が手に入れば、拙者のやる気も大いに出よう。そうそう宗二朗どのを厄払いに巻き込まずに済むと思うのだ」

「また巻き込むつもりだったんですか?」

「いや、まあ、厄介物は拙者の食事になる故、仕方のないことだ」

 宗二朗の冷たい視線を受けつつも、荒川は引かなかった。

 確かに、刀を食べるほど飢えていた荒川にしてみれば、食事の確保は生死を左右する重大事だ。そして、荒川に守ってもらっている宗二朗にも、無関係ではない。

「わかりました」

「本当か?」

「ただし条件があります。」

「なんだ?」

「一日一個限定です。成功しても失敗しても、それ以上は受け付けません」

「そこはせめて三個くらいにならんだろうか」

「なりません」

 荒川は低く唸り、少しの間黙った。

「では、成功報酬を望む」

「なんの成功報酬でしょう」

「厄払いのだ。宗二朗どのも見たであろう。あれは体力も気力も必要以上に使うのだ。拙者にも褒美があって然るべきだ」

 なるほど、と宗二朗は口に出さずに思った。

 昨日の荒川は、今まで食べ物を運んでくれていた厄介者と連絡がつかない、と言っていたはず。

 現状、厄払いをしなければ、荒川の食べ物である厄介物は手に入らない。

 そもそも厄介物がなければ、宗二朗に変化を頼むこともできまい。

 荒川の厄払いは、宗二朗が生き延びるためには欠かせない。

 ならば、双方の妥協点としてここが落としどころだろう。

「それでも一日二個が限度です」

 徐々に正常な判断ができるようになってきた宗二朗が思うに、あの厄介物を変化させることは宗二朗の体力も気力も相応に奪うものだ。

 今回は知らずに受け取り、言われるがままに変化させたが、毎回倒れては宗二朗が持たない。

「それをいかほど続けてもらえようか」

「厄払いの規模により相談、ということではどうでしょうか。変化させる厄介物が少なければ、何度も厄払いをしなければならなくなります。それでは、私が持たない」

「なるほど。宗二朗どのは特大級の厄払いをお望みなのだな。ならば毎回、界扉の前に宗二朗どのが立たれるとよい。さぞかし効率よく厄介物が回収できよう。今回は稀に見る収穫であったから、間違いない」

「私を餌にするという、その発想を捨ててください」

 誰がそんなものを望むものか、と宗二朗は言い切った。

「だが、待っているばかりだと拙者が飢える。極限に飢えた拙者は、宗二朗どのの意思など関係なく厄災を望むだろう。ここはお互いの妥協して、効率よく厄介物を手に入れるのが一番だと思う」

 荒川は真面目な顔で提案する。要するに宗二朗がどう思おうと、腹が減れば実力行使する気だった。

 宗二朗の存在が界扉を開き厄災を招くと知れた以上、彼にしてみれば当然なのかもしれない。

「……少し、考えさせてください」

「是非、前向きに検討願いたい」

 期待に満ちた男の視線を、宗二朗はあえて見ないようにしていた。

 おそらく、自分が押し負けるのだ、と理解してしまうのが嫌だった。



 宗二朗がのんびりと粥を食べている間にも、部屋の修復は順調に進んでいった。

 障子の骨組みを洗い、紙を張る。壁の傷も漆喰を埋めて平らにする。畳も宗二朗が座っている一枚以外は外に運び出され、修繕をするそうだ。

 普段は無口な寛太が、はきはきと言葉を放ち、喜助や為八を使うのが意外過ぎた。

「宗二朗。今から屋根に板を張るので、お前は鍋を持って外に出ていろ。歩けないのなら運ぶが、どうする?」

「歩けます、大丈夫です」

 寛太に問われ、いつもよりのろのろとした動作で宗二朗は立ち上がった。

 途端にふらりと眩暈がして畳の上に座り込む。

 自分で思っている以上に、身体は弱っているようだった。

「無理はしなくても良い。為八、畳一枚くらいは修繕が終わっているだろう? 宗二朗を運ぶぞ」

「了解」

 寛太が声を上げると、為八が表で答える。そうして、宗二朗の返事を待たず、寛太は宗二朗を脇に抱えて粥の入った鍋を開いた手で持ち上げた。

 そういえば寛太はいつも、無言のまま自分を簡単に持ち上げていたな、と宗二朗は思っていた。

 長屋の前には所狭しと畳や板が並べられ、幾つかは新品のように綺麗になっている。

 長屋の全戸が解放され、室内がよく見える状態だった。

 為八は自分の部屋の前で、畳の張替をしている最中で、大きな針を手にしていた。

 寛太は為八の足元にある畳の上に宗二朗を転がし、鍋を隣に置くと、喜助を呼んで板を担ぎさっさと屋根に上ってしまった。

「寛太さんって、喋れたんですね」

 碌に会話の成立しなかった男が、別人のように話して動くのを見て、宗二朗は思わず正直な感想を口にしていた。

「大工仕事の時だけな。普段は、お前が知るままの男だ」

「へえ……」

 為八の返答に、宗二朗は頷きながら答えた。

「お前はちゃんと粥食って水呑んで、夕刻までには身体を回復させろよ、宗二朗。厄介物ってもんは、気力と体力と水分を奪っていくもんだ。補わないと弱ったままだ」

「為八さんも経験が?」

「ああ。おれら三人とも、最初の頃にやられたよ。今じゃ、厄介物に直接触れることはない」

「そんなに危険なんですか、あれ」

「おれらには、な。お前は、あれだけの厄介物に触れてもその程度の弱り具合だ。平気なほうだろう。おれらだと、三つも素手で運べば倒れる」

 宗二朗は昨晩、その十倍くらいの厄介物に触っていたはずだ。

 為八のいう「平気なほう」という意味がなんとなく理解できた。

「草の旦那はあの通り、雑だからなぁ。あんまり身分に頓着していないところは庶民として取っつきやすいが、自分にできることは他人もできる、と思っている節がある。おれらは厄介物で懲りて全員で抗議した。あの人には、できないことはできないと早めに言えよ。でないと、地獄を見る羽目になるぞ」

 あまり無駄口を叩かない為八にしては珍しく、宗二朗に忠告めいたことを言った。

「わかりました。気を付けます」

 なんとなく聞いて相槌を打っていた宗二朗は、為八の助言が嘘偽りなく真実であることを、数日後に自分で体験することになる。



 宗二朗はひたすらに山道を走っていた。

 何故なら、そうするしか帰る方法がないからだ。

 いつものように寺子屋を出たとき、自分の眼前に立った男を見て、嫌な予感はしたのだ。だが、逃げられなかった。

「宗二朗どの、待っていたぞ」

「なんですか? こんなところで待っていなくても、今日は長屋に行くはずの日です」

「知っておる。他の奴らには止められそうでな」

 仁王立ちをし腕組みをした、人相は悪くないが悪ガキがそのまま大きくなったような無邪気な笑顔で、竹光をさした男は遠慮なく宗二朗を肩に担ぎあげた。まるで荷物のように。

「わっ、なんですか? 下ろしてください」

「目的地に着いたらな」

「目的地?」

 思わず荒川の声を復唱する。

「拙者と一緒に少し体を鍛えようぞ」

 そうして連行されたのは、名は知っているが来るのは初めての山だった。

 近場、と言えなくもない。やや距離はあるものの当日で帰参は可能、であるはずだ。一日がかりでなら、だが。

 寺子屋は昼過ぎに終わる。大体が午前中に終わるのだ。あの寺子屋が特別ではなく、大体、どの寺子屋でも似たようなものだ。

 親の懐にゆとりがある者は昼から剣術道場などに行くこともあるが、半分以上の子供たちには家の手伝いが待っている。子供は貴重な労働力だ。

 宗二朗が長屋の世話をしているのも、ある種の労働力として見込まれのこと。

 駄賃が貰えるだけ宗二朗はマシな部類で、普通は子供の手伝いに駄賃などない。

 だからこそ、宗二朗は任せられた長屋の世話に手を抜こうと思ったことがない。

 あれは宗二朗の貴重な収入源である。

「ここは?」

「白妙山だ。知っているか?」

「名前だけは」

 正直な所、荒川は繊細と程遠い。宗二朗を担ぎあげたのち全速力で駆け抜けた男は、自分の骨ばった肩や筋肉が宗二朗の腹を圧迫し、そこそこの時間を上下左右に揺らされては三半規管を弱らせている、という想像もしていなかったようで、込み上げる吐き気を堪えている青白い顔はもともとの顔色、とでも思っているかのような無頓着ぶりで宗二朗の前に立っていた。

「厄介払いの時に思ったのだが、宗二朗どのは体力がなさすぎる。そして全体的に筋力も足りておらん」

 荒川と比べたら誰でも、という前置きをあえて言わず「……でしょうね」と頷く宗二朗に、守役は機嫌よく頷いた。

「体力をつけるのならまず、足腰を鍛えねばならん。全身の中で一番大きな筋肉は足腰にある。足腰を動かすのが一番効率よく鍛える方法だ」

「それで?」

「ここから長屋まで毎日走れば自然に鍛えられよう」

 自信満々に宣言する荒川に、宗二朗は尋ねた。

「……誰が?」

「宗二朗どのが、に決まっておる。拙者も付き合ってしんぜよう」

 荒川は胸を張っているが、宗二朗は軽く眩暈を覚えていた。

 宗二朗は両替商を営む伯父の家で育てられた。伯父は決して優しくもなければ親切でもなかったが、教育という方面ではしっかりと配慮をしてくれていた。だから、宗二朗は同年代の子供よりずっと恵まれた環境で育ってきた。

 基本、武家でなければ帯刀はできないが、名字帯刀を許される町人も幾許か存在しており、伯父の家はそれに該当していた。

 居候である宗二朗に帯刀が許されるのかどうかはさておき、たとえ許されていたとしても刀は使えなければ意味がない、というのが伯父の信条だった。

 いい年の自分は今更使えないだろうから、という理由で、跡継ぎの息子を道場に押し込んだ伯父は、ついでとばかりに宗二朗も一緒につけてやった。

 道場主は武家の隠居だが、まだまだ口も手も足も健在といった頑健な老人だった。

 本格的な剣術道場よりも安く、習いたい者には町民でも区別せず受け入れるという柔軟な思想の主ではあったが、指導はかなり厳しいことで有名だ。

 道楽道場という名であったが、道楽だと感じているのは隠居の道場主だけだ。その道場に通っている子供たちは戦々恐々としながら通っていた。道楽道場に三年も通えば、町民の中ではそれなりに腕が立つ人間、として認めらえるほどに。

 従兄と一緒にその道場に通っていた宗二朗は、同世代の中でなら弱いわけではなかった。抜きん出るほどの腕はないが、堅実にゆっくりと成長段階にある、と評価されていたはずだ。付随する程度の体力もある。

「そもそも、町中では満足に鍛えることができぬではないか。鍛える前に、基礎体力の向上は必須である。拙者の見立てでは、宗二朗どのはその準備段階にすら及んでおらぬ」

 確かに、厄介払いで見た荒川の剣は確かなのだと思う。

 宗二朗には視認することもできなかった太刀筋と速さ、そして宗二朗に傷をつけることなく厄介物を切り落とした正確さ。その腕を見込まれて守役につけられたのだと推察できる。

「荒川には遠く及びませんが、これでも町人の中ではマシな部類かと思います」

 本職の武士と一緒にしないでほしい、と伝えたつもりだったが「厄界からの風に吹き飛ばされて転がっていたではないか」と反論されてしまう。

「確かに、そうですけれど……」

「そもそも宗二朗どのは生粋の町人ではない。成人できれば武家の当主にもなれるお方だ。上に立つ者があれもできぬ、これもできぬ、では話にならぬ」

 宗二朗の人生はほぼすべてに近く町人暮らしで占められていた。生粋の町人ではないと言われても、まるで実感がない。親が武家の当主らしい、というのは荒川が主張するだけで事実かどうかすら怪しいのに。

 とはいえ、腕の立つ浪人を守役として与えられる程度の家が宗二朗の生家なのは間違いない。

 荒川という存在がその事実を主張している。

「上に立つ者は下の者を上手く使えてこそ一人前、と伯父は常々申しておりますが」

 伯父、要するに両替商の太平は家族の前でだけならそう言ってはばからない。

 信用できる使用人として育てることも家長の務め、と聞かされていた。

 それは商家だろうと武家だろうと変わりないはずだ。

「太平には、両替商に必須な数年先まで世の動きを見通す知識と経験があるだろう。何もできぬ無能な当主に心底仕える部下など、どこにも存在せぬよ」

 長年、あの長屋の一室で界扉を守り続けていたにしては世情を良く知っている。

 宗二朗は思わず口を開けたまま守役の男を仰いだ。荒川はその顔を見て「情報は喜助がいくらでも仕入れてくる。あれの役目だ」と言って笑った。

「ついでに、これで決めようではないか」

「なにをです?」

「厄払いの成功報酬について」

「それは、一回につき二個と言ったはずです」

「それは基本報酬だ。特別報酬は別途相談だったはず。さて、へろへろの脚力とふらふらな体力で、本気で飢えた拙者から逃げ切れるとでも思っているのか? 宗二朗どの」

 見上げると、守役の男は真顔で宗二朗を見下ろしていた。

 至って真剣な提案のようだ。

「拙者とここから長屋までたどり着く時間を競う、というのでどうだ? もちろん、手加減はする。宗二朗どのは先に走るがよい。拙者はゆっくりと百でも数えてから走り始める。先に着いた回数分、相手の希望を聞く、ということでどうだ?」

「圧倒的に私が不利かと思います。大人と子供ですし、歩幅も違います」

 身長がまるで違うのだから、歩幅など考えるまでもない。

 だが、荒川は首を横に振った。

「いやいや。体重の軽い者のほうが長距離を走るときには有利だ。負担が軽減される。拙者のような大人のほうこそ分が悪い」

 宗二朗を担いでここまで汗もかかずにたどり着いた男は平然とうそぶいた。

「嘘です。もっと私に有利な条件でないと対等ですらありません」

「本当のことだがな。では、本日は試しということで、報酬に関係なく走ってみる、というのでどうだ?」

「良いのですか?」

「ああ。最初は道案内も必要だろうと今思いついた。途中で道に迷われても困る。拙者は宗二朗どのの隣を走るゆえ、自分の呼吸で走ってみてくれ」

「わかりました」

 そうして両者合意の上で走り始めたはずだった。

 だが、宗二朗がいくら走っても山の景色はずっと山の景色のままだ。木々繁る緑の深い視界は一向に晴れず、ひたすら鬱蒼としている。

 そのうち周囲が薄暗くなり、宗二朗の呼吸どころか体力まで限界に近くなってきた。

 汗は拭っても拭っても次から次へと額から落ちてくる。足は重く一歩進むのすら辛い。呼吸はとうに上がり、開いたままの口からでてくるのは喘鳴に近い。

「宗二朗どの。もう少し急がないと日が暮れてしまうのだが」

 さも困った、と言わんばかりの荒川の声が背後から聞こえてくる。

 この男はとっくの昔に並走することを止め、宗二朗の後ろを保護者よろしく歩いている。そう、歩いているのだ。

「あとな、走らねば鍛錬の意味がないと思うのだ。見知らぬ場所で警戒するのはわかるが、こんな山で出くわすのは、精々猪か熊程度だろう。大事ない」

 もはやどこから突っ込んでいいのかわからないことを言う己の守役に、宗二朗は反論する体力さえ残っていない。

「さすがに日暮れまでには都に入っていないとまずいのだが……。宗二朗どの、時間がないから担ぐぞ」

 荒川のそれは、確認の態を取った決定事項だった。

「ん? 歩いているだけなのに、なぜこんなに汗をかいているのだ、宗二朗どの」

 もう嫌だ、と宗二朗は思っていた。だが、声を出す体力すら惜しい。その力は呼吸するほうに使いたい、切実に。

「思っていた以上に弱いな」

 誰を基準にして物を言っているのか。と、宗二朗が苛立ちを覚えた時、為八の声が甦った。

『できないことはできないと早めに言えよ』

 宗二朗は子供である分、己への過信があったかもしれない。

 山を下るのは登るより楽だ、という先入観もあった。だから気楽に「走って帰ること」に同意してしまったが、そもそもの前提条件があり得ないものだったのかもしれない、とようやく気が付いたのだ。

 山から走って帰る、ということを断ろう。声が出るようになったら、体力が戻ったら、絶対に断ろう、と心に決めたまま荒川に担がれて揺られていた。

 しばらく揺られた、と思ったら気づくと見知った街並みの中にいた。

 気を失ったのか意識が飛んだのか眠ったのか定かではないが、宗二朗の知る都まで戻ってきたのだと安堵する。

 周囲はすでに薄暗く、大きな店の前には行燈の光がちらほらと見えた。

 荒川に担がれたままのへたばった宗二朗を見て、長屋の連中は笑うのでもなく慰めるのでもなく、介抱する気もない様子で遠目に見遣っていた。

 薄情な、と思いかけたが、そういえば荒川は彼らの上に立つ人間だ。彼が宗二朗の鍛錬をする、と言えば下手に口出しすることもできないのだろう。

「想像以上に脆弱であったな、宗二朗どの」

 宗二朗を肩から足元に下ろした荒川は、遠慮なく素直な感想を口にした。

「……です」

「なに?」

「普通だと言ったんです。私は極めて普通だ、と。確かに突出して頑健ではないですが、脆弱なんて言われたことはありません。年相応なんです、これで」

 しばらく休んだせいか宗二朗の呼吸は楽になっていた。喉の渇きはあるが、話せないほどではない。

「これが?」

「そう、これで」

 会話の微妙な食い違いには気づいていたが、宗二朗はあえて無視した。

「鍛錬は、まあ良いです。付き合います」

「拙者が付き合っているのだが」

「どっちでも良いです。私が嫌だと言っても、荒川は迎えに来るでしょう? だから、どっちでも良いんです。でも、いきなり山は無理です。この周辺からお願いします」

「何故だ。目標は高い方が達成感があるだろうに」

 心底不思議そうな荒川に、宗二朗は努めて冷静に言った。

「一里走れない者がいきなり十里走れるわけがありません。一里を走れるようになって次は二里、二里が走れるようになって三里と伸ばしていくものです。荒川のやり方はいきなり百里走れ、と無理難題を押し付けているようなものです」

「成程。宗二朗どのは一里をご所望なのだな」

「そうです。その範囲からお願いします」

「そうか。なら、お前たちも付き合え。日頃ダラダラしていて暇だろう」

 突然、荒川の視線がやや距離を取って様子見していた三人の草、長屋の住人に向けられた。

「いや、おれたちは別に、なぁ?」

「必要ないっていうか、関係ないっていうか」

 三人は一斉に拒否の姿勢だった。口だけではなく、そそくさと自分の部屋に戻ろうとしている。

「いや、関係はあるだろう。お前たち、いざというときには宗二朗どのを守らねばならんのだぞ」

「それは旦那の仕事でしょう?」

「拙者はどうしても、界扉の前から離れられない時があるだろう。今までは宗二朗どのが近くにいなかったから考えずにいたが、今後はそうもいかぬ。ついでだ。お前たちも一緒に鍛えてやる」

 実に嬉しくない提案を荒川は当然のように宣言した。

「遠慮はいらぬぞ。なにせ宗二朗どの仕様の鍛錬に大人のお前たちが付き合うだけだ。楽勝だろう?」

「楽勝以前に、やりたくないなぁって……」

 喜助は正直に拒否していたが、その声は荒川には届いていなかった。

 その喜助の肩を為八が軽く叩く。

「無駄っぽいから諦めよう」

 とても諦めたと思えない顔つきで、渋々首を振っているようにしか見えない。

 寛太は終始無言のまま、厳めしい表情で突っ立っていた。彼もまた、承諾したとは思えない不穏な空気を放っていたが、さすがに正面から荒川に喧嘩を売るほど無謀ではなかったようだ。

 こうして、宗二朗が寺子屋に通う日には草三名と宗二朗の鍛錬の日、と一方的に定められたのだ。



「宗二朗、無事だったのか……」

 荒川に無理やり山に連れていかれ、仕方なく担がれて帰ってきた次の日の寺子屋で、宗二朗は顔を見るなり勘吉に肩を掴まれた。

 彼とはさほど仲が良いわけでもない。顔と名前をお互い知っている程度だ。

 何度か半紙を借りたり返したりはしたが、別に宗二朗だけがかけた迷惑ではなく、寺子屋に通う子供のほぼ全員、一度は持ってくるのを忘れた半紙だの筆だのを借りている。

 呉服問屋の倅である勘吉の傍にはいつも大人の使用人が付き従っていて、彼が荷物を持ってくるので、忘れ物がなく予備がふんだんにあるというだけのこと。

「えっと、なにがですか?」

「昨日お前、見知らぬ侍に担がれていただろう? お前が騒いでいないので知り合いかと思ったんだが、もしかしたら目の前で誘拐されたのを見逃してしまったのかと思って心配したんだ」

 完全に荒川のことだ、と宗二朗にもわかった。

 確かに、目の前で大人に担がれていなくなった相手なら、ただの顔見知りでも心配になるだろう。

「ああ、はい。大丈夫です。あの侍は……親の知り合いなんです。勿論、私とも面識があります。彼にしてみれば私はひ弱く見えるらしく、身体を鍛えに行こうと言われました」

「そうなのか?」

「ええ。そうでなくては私は今日、この場に来られないですよ。でも、心配してくれてありがとうございます」

 あまり話したこともない相手だったが、勘吉の表情から本当に心配をかけたのだと悟った宗二朗は素直にお礼を告げた。店の使用人はもとより、伯父夫婦でもここまで心配はしてくれない気がする。その心遣いが嬉しかったのだ。

「そうか、それなら良いんだ」

「ついでだから言っておきますが、私は今日から身体を鍛えるために走るように言われています。寺子屋が終わるころにまた、見知らぬ大人と一緒に帰る予定ですが、それについても心配はいらないです。その人たちは昨日の侍の配下なので」

「そう、なのか? 宗二朗は両替商の息子じゃないのか? なんで侍?」

「両替商は伯父の家です。私の親は別にいて、あの家に養育を任されているだけです」

「そうだったのか。知らなかった。悪いことを聞いたな」

 心配そうな顔から急にうろたえた顔になり、勘吉は最後に謝った。

「いえ、別に。隠していませんし、近所で聞けば大体同じことを誰でも言いますよ」

「なら、ご実家から迎えが来たのか。宗二朗は武家の子だったんだな」

「そうらしいですね。ずっと聞かされてはいたけれど、実感はないです。あの侍に会ったのもつい最近だし、迎えなんだかお守なんだか……」

 荒川の気晴らしに付き合わされている感もある、口には出せないが。

 宗二朗は曖昧に笑って誤魔化した。

「少し残念だ。宗二朗は親父の言う友人になってもいい相手に当てはまったヤツだったから、できることなら仲良くしたかったんだが、武家の子なら無理だな」

 勘吉は肩を落とし力なく笑う。

「なんですか、その友人になってもいい相手、というのは」

「おれはさ、見た目も冴えないし、学問ができるわけでもない。あるのは親の金だけで、昔からそれを目当てにおれの傍によって来るヤツが多かったんだ。あまりに良いようにたかられているおれに耐えきれなくなったのか、親父が言ったんだ。物を買ってくれと言わないヤツ、奢れと言わないヤツ、借りたものを返すヤツ以外は友人と呼ぶな、と」

 勘吉の親父どののいう友人の条件は至極もっともで、宗二朗も頷いた。

「私もそれには同意します。勘吉は気前がいいと思いますが、理由もなくいつでも人に振舞うと、相手がそれを当然と勘違いしてしまうので、無用な争いを避けるためにも無難な条件だと思います。そのくらいの条件なら、普通にいるはずです」

「そうかなぁ? この寺子屋の中だと、お前くらいだぞ。借りた半紙を返しに来るのは」

「まさか、そんなこと」

「おれは覚えていないが、おれのお付きが覚えているからそうなんだと思う」

 勘吉の言には納得できるところがあった。

 彼の荷物はお付きの人が管理している。勘吉が事細かに覚えている必要はない。

「同じ商家で、同業じゃなくて、特に金に困っていなくて、年回りも変わらず、随分とおれに都合のいい相手がきたな、と思っていたんだ」

「確かに私は武家の親を持つようですが、跡取りは別に兄弟がいるそうなので武士になると決まったわけではないです。なので、勘吉と友人になるくらいなら別に構いませんよ?」

「本当か?」

 気落ちしていた勘吉は、宗二朗の言葉で俄然元気を取り戻した。

「ええ、でも、私からも条件があります。理由もなく大盤振る舞いしない、貸したものは返してくれ、と自分で言う。それができない人とは友人にはなれません」

「なんだ、それ。親父と同じ条件じゃないか」

「その通りです。不満ですか?」

「不満というわけじゃないが、金を使わず気前の悪いおれだと、独りぼっちで寂しくなると思う。それが不安なんだ」

 最初から親が不在の宗二朗と違い、勘吉は親に愛されて育ったのだろう。だから一人は寂しいと思うし、素直に言ってしまうのだ。

 ふと、宗二朗は勘吉と似た立場にいた従兄を思い出した。

 宗二朗より三つ年上の従兄は、常に伯父に言い含められていた。

 他人をあまり信用するな、気を許すな、と。

 呉服問屋も金には困っていないだろうが、両替商は直接金を扱う商売だ。金がない、という言い訳は通用しない。

 嘉一郎は勘吉のように真剣に悩む性質ではなく、はい、はい、と笑顔で大人の忠告を無視する胆力と度胸があった。親戚で同性の宗二朗が傍にいたので、一人で寂しいということもなかったのだろう。一時、金遣いの荒い時期があったようだが、奉公に出た今は完全に落ち着いている。

 勘吉には宗二朗よりも、嘉一郎のほうが話が合うかもしれない。

 兄貴のように宗二朗を連れまわすのが好きだった嘉一郎と宗二朗の仲は、今でも決して悪くない。

「最初は寂しいかもしれませんが、それでも仲良くしてくれる人のほうが信用できます。それができるようになったら、私の従兄も紹介してあげますよ。両替商の跡取りで金だの物だのに執着しませんし、立場的にも勘吉と話が合うんじゃないですか? でも今の勘吉だと、紹介できないです」

「なんで?」

「同じ理由です。今のままの勘吉だと、周囲に信用ならない人がたくさんいて、断れない場合はついてくるかもしれません。そうすると、私の従兄に迷惑がかかります。そんな相手を紹介できるわけがありません」

 そうか、そうだな、と狼狽える勘吉に、宗二朗は言う。

「勘吉は優しいのだと思います。でも、寂しいから他人に優しくするのは、相手に付け込まれるだけです。まず、自分に優しくならないとダメです」

「自分に優しく?」

「はい。物を配るときだけ人が寄ってきても、配り終えたらいなくなってしまうのは悲しくないですか? 貸したものが返ってこないのは、悔しくないですか? そういう自分の感情を無視して他人にだけ優しくする必要はないと、私は思います。そういうのは嫌だ、と自分で言えるようにならないと、いつかとても後悔すると思います。勘吉も今のうちから、そういう鍛錬が必要なのだと思います。人間、必要に迫られたとしても、慣れていないことを突然できるようになったりはしませんので」

 宗二朗の言葉に、勘吉は心当たりがあったようでしばらく黙って逡巡していた。が、顔を上げた時の勘吉は少しだけ晴れやかな表情になっていた。

「うん。なんか、上手く言えないけれどわかった。とりあえず、貸したものを返してくれ、と言うことから初めてみるよ」

「頑張ってください」

 勘吉と肩を並べて歩く宗二朗は気づかなかったが、少し離れた場所に控えていた勘吉の付き人が、とても嬉しそうに微笑みながら二人を見送っていた。



 その日以降、なんだかんだと勘吉に付きまとわれて話をするようになった宗二朗は、彼が決して気弱でも愚鈍でもないことを知った。

 商家の家で育った者らしく、笑顔で自分の要求を言えるようになった勘吉は、その瞬間瞬間は驚かれたものの、次第にそういうものだと受け入れられるようになっていた。

 きっかけが荒川にあるのは癪に障るのだが、勘吉と仲良くなれたのは言動が無茶苦茶な彼のおかげでもある。

 その荒川だが、常日頃は宗二朗の鍛錬に熱を上げているくせに、月に数度は有無を言わさず界扉の前に宗二朗を連行するのだけは止めてほしい、と切実に思う。

「鍛錬の成果を見せてみろ」と言っているが、あれは厄介物が欲しいだけだろう、としか思えない。ちなみに、成功報酬は最初の約束を継続することになった。その都度で喧々諤々の交渉、と言いたいが、大体宗二朗が押し負けている。

 界扉の奥に見える厄界は相も変わらず美しく、見るたびに宗二朗の中に沸き起こる郷愁を押しとどめるのが難しくなるほどだ。

 宗二朗以外には見えないはずだが、荒川はその言を疑う様子を見せない。

 彼はまだ宗二朗がまだ会ったことのない厄介者と呼ばれる存在を知っているので、疑う余地がない、と言う。

 帰りたい、と叫ぶのは宗二朗の中に落ちた厄のせいだ、というのが荒川の言い分だが、真実は不明のままだ。彼の言い分はそれほど間違ってはいない、と認めるのがどうしても嫌だった。

 ただ、荒川の持つ半分になった刀を見るたびに、少しだけ思うのだ。

 早くその刀を直せる厄介者と呼ばれる存在が、戻ってこないだろうか、と。

 剣の腕は確かに見える荒川だが、半分の長さしかない武器では不利に決まっている。

 それでも意に介さずばさばさと遠慮なく厄払いをしているので、本人は痛痒を感じてはいないのだろうが、見ているだけの宗二朗は、全力の荒川を見てみたいかもしれないという好奇心が抑えきれない。

「早く厄介者という人、戻ってきませんかね」

 その日の鍛錬は喜助が一緒だった。

 草と呼ばれる長屋の住人はいつの間にか荒川と交渉して、宗二朗の鍛錬に付き添うのは持ち回り、という内容に変更していた。

 彼らはいい大人であり、宗二朗と違って食い扶持とする仕事もある。全員がまとめて鍛錬につきあうのは難しい、とのこと。

「入れ代わり立ち代りでも、一緒に鍛錬することに変わりはないじゃないですか」と最後は宗二朗の目の前で喜助がごり押ししていた。

 言い出した荒川も、食い扶持を稼ぐため、と言われたら無理を通せないようで渋々と頷いていた。彼等は、宗二朗の実家から定期的に報酬を受け取る荒川とは違うのだ。立場も、生き方も。

 寛太は大工仕事、喜助は幇間、為八は小間物を作って店に卸す。

 三人の主な稼ぎの内容から、宗二朗の鍛錬に付き合わされた回数が多いのは為八だった。

 なぜなら寛太は急遽、遠方にある仕事を請けたと言って長屋からいなくなった。逃げたな、と誰もが思ったほど急いで旅立っていった。「金に困らない限り、仕事を請けない怠け者のくせに」と背中を見送りながらぼそりと言ったのは喜助だったのか為八だったのかわからない。

 喜助は座敷に呼ばれて場を盛り上げ相手を持ち上げるのが仕事になるので、外に出歩くことが多いし、草としての仕事も回ってくるらしく、宗二朗の寺子屋が終わる時間と喜助の仕事が始まる時間はあまり変わらない。

 なので、長屋に籠りがちな為八に回ってくるのが常だった。

 為八は子供の宗二朗と大差のない体力の主だった。

 部屋の中に籠っている仕事は足腰を弱らせる、と為八を見ながら宗二朗も思う程には。

「一番の貧乏くじを引いた」と文句を言いながらも、為八は律義に鍛錬に付き合ってくれたが、不満がないわけではなかったようだ。

 喜助の仕事が空いた日には、どんな天候だろうが体調だろうがお構いなしで「お前の番だ」と鍛錬を押し付けているらしい。

 気持ちはわからなくもない、と宗二朗でさえ思う。

 一番割を食っているのは為八、と荒川でさえ言う。

 寛太がいない分、厄介払いで壊れた長屋を直すのも為八の仕事になっていたのだから、言うまでもない。

 なので、喜助が一緒の時は鍛錬が割と厳しくなっていた。

 荒川なりに為八に配慮していたのだ、と、この日が来るまで宗二朗でさえ気づかなかったのだ。たまに参加する喜助にわかるはずもない。

「都の外周を三周走ってこい」という指示を出されたあと、喜助と宗二朗は荒川と別行動になっていた。

「三周……、きつい……」と、宗二朗の隣を走る喜助は、ぶつぶつ文句を唱えながら足を動かしていた。

 喜助は口の立つ男で、噂や評判を拾ってくる速度は誰よりも早い。

 なので、知らないことを聞くのなら喜助が一番だ、と宗二朗は思っていた。

「厄介者? 別にいてもいなくても、宗二朗の役目は変わらないと思うぞ。旦那の食い物に味をつけられるのは宗二朗だけなんだから」

「そっちではなくて、荒川の武器の修理です。あれ、直した方が良いですよね?」

 宗二朗にできるのは、界扉を開いて厄を招くことと、界扉を閉めること。残された厄介物に味をつけること。

 何度か厄介払いに参加させられてわかったのは、この程度だ。

 厄介物を武器に変える方法など、知らないしできない。

「さあ。本人が何も言わないんだし、放っておけばよくないか?」

「でも私の場合、自分の命がかかっているので放置はちょっと。武器は完全な方がより良いに決まっています」

「そう言われりゃ、そうだがよ。旦那は強いだろう?」

「他を知らないので断言できませんが、多分」

 強いのだろう、と思う。宗二朗は喜助に頷いて見せた。

「荒川持暇と言えば、ある階層の人間には蛇蝎のごとく嫌われているし、評判が悪い。が、誰もが口を揃えて『強さだけは本物』という。そういう存在だよ、旦那は」

「嫌われているのは荒川の口も態度も宜しくないから、ですか?」

「そういうことじゃなくて、な。あちらの方々には面子っていう命よりも大事なものを、旦那は平然と蹴っ飛ばして歩くから。そのうえある程度の身分もあってとびきり剣の腕も立つとくれば、邪魔だろう。あんまり大声を出せない層には旦那の支持者ってのもいるんだが、如何せん太刀打ちできない差がある。だから、評判が良くない人、となるわけだ」

「ああ、成程。でも、荒川の強さだけは認めているというのはどうしてですか? 大したことない、という評判で押しつぶせそうな方々みたいですけれど」

「実行したらしいぜ、何度か。腹に一物抱える奴が結託して集団を送り込んで、旦那を叩きのめそうと。で、多勢に無勢なのに全員返り討ちにあった、と」

「そんなに強いのですか? 荒川が?」

「おれも噂でしか知らねえよ。でも、旦那に腕前見せてくださいって言ったら、速攻で切りかかってきそうじゃねえか、あの人」

「確かに……。蛮勇とどろかせたクサノオウって喜助さんが言っていたのは、これのことでしたか」

「いや、それはちょっと別口」

「別口?」

 それまで、だらだらと気抜けた様子で宗二朗の隣を走っているように見せていた喜助だったが、宗二朗の問いかけにしまった、と言う顔を隠し損ねていた。

「私が聞いたら良くないことでしたか?」

「良くないというか、最早手遅れだと思うが」

 おれから聞いたって絶対言うなよ、と喜助は何度も確認してからようやく口を開いた。

「草っていっても大体は顔も名前も知らないヤツばっかりなんだよ。その草を束ねるのは基本、宗二朗の親か旦那なわけで、指揮系統がいくつかあれば、違う指示を請ける草ってのも出てくるのな」

「はい」

「宗二朗の親ってのは、お前を生んで死んだ母親のほかに生きている父親がいて、もう一人、義理の母親に当たる人もいるんだよ」

「知っています。兄弟がいる、と聞いていますので」

 誰もがはっきりとは教えてくれなかったが、伯父夫婦はある程度、必要なこととして教えてくれたことがある。

 生みの親は死んでいて、その死んだ母の兄が世話になっている両替商の伯父にあたる。

 でも宗二朗には兄弟がいる。それは他の女性が生んだ半分だけ血の繋がった兄弟だ、と。

 それを繰り返し聞かされていると、捨て置かれている自分の立場から考え、宗二朗の母のほうが下の扱いになるのだろう、と推察できた。

「その人がどこからどうやって調べたのか知らないが、あの長屋に何度か草を放ってきたんだよ。しかも、厄払いの直後に。で、死体の山が何度かできた」

「え?」

「旦那が敵とみなさなかったのはおれら三人だけで、それ以外は遠慮なく。まあ、殺すつもりでくる相手に遠慮する必要もないんだが。結果、草の大半が刈り取られた。でも、旦那も草を動かせる一人なわけで、お咎めはなかったな。草なら草の王につなぎは付けられるから、そのあたりが盲点だったのかもしれない。旦那が宗二朗になかなか会おうとしなかったのは、そういう事情も込みなんだと思うぞ。飢えには勝てなかったみたいだが」

 宗二朗の知らないところで、荒川にも草にも色々な事情があったようだ。

「じゃあ、荒川の強さは喜助さんも知っているんですね」

「いや、さっぱり」

 喜助は明確に断言した。それは先程の言葉を覆しているのに、当人はまるで気にしている様子がない。

「見ていたんじゃないんですか? 他の草を倒すところとか」

「見てたな。見てたが、わからなかった。目の前に死体が積みあがってくってこと以外、さっぱり。旦那が腕を振ったら死体がこっちに飛んでくる、くらいの感覚だ。凄いんだか早いんだか、人を殺しているのかもわからなかった。だから、怖さがあんまり残っていない」

「はぁ……」

「宗二朗だって見てるんだろ? 旦那が厄払いをしている姿を」

「そうですね。もう何度か見ています」

「お前はなんか見えるのか? 旦那の動きとか、剣捌きとか」

 喜助に問われて宗二朗も記憶をたどってみた。そして、宗二朗は大事なことに気づく。

「喜助さん。私、いつも荒川よりも前のほうに、その、界扉の前に立たされるので、空気が動く音は聞いていますが、荒川が厄払いをする姿を直接見た事はなかったかもしれないです」

「ああ。旦那も子供には少し配慮してんのかな」

 そんなはずはない、と宗二朗は思った。

 同時に、一度だけ見たことがある、とも思いだしていたのだ。

 一番最初に出会ったとき、界扉の話を聞かされ厄払いを見せられた時、厄介者にはなりたくないと叫んだときだ。

 荒川が殺気の籠った剣を宗二朗の周辺に正面から放っていた。

 金色の筋が見えた。あれが彼の本気の剣。

 見えなかったのは宗二朗も同じだ。

「日が傾いている。宗二朗、もう長屋に戻ろうぜ」

 まだ二周しか走っていないはずだが、喜助は都の大門を見てさっさと方向転換した。

「怒られませんか?」

「一緒に怒られようぜ。もう怠いわ、おれ」

 走りたくないのは宗二朗も同意だ。怒られるのを覚悟で二人は長屋に向かて歩いた。

 ふと、かすかな風が宗二朗の頬を撫でて通り過ぎる。

 そのたびに、視線を巡らせて界扉を探してしまうのは条件反射のようなものだ。

 ここに荒川はいない。界扉の番人、宗二朗の守役、当代クサノオウはいないのだ。

 何も知らずに暮らしていたころならともかく、自分に課せられたものの重さに宗二朗はようやく気付いた。

 知らないほうが良いこともある。本当にその通りだ。

 見知った長屋が視界に入る。木戸をくぐる喜助の後につき、宗二朗も長屋に入る。

 閉ざされた荒川の部屋の前に、鉢植えが変わらずにあった。

 黄色の小さな花が咲いている。花が増えていた。

 あの男に似合わない鉢植えの小さな花は、もうじき満開を迎えるのだろう。

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