第二声 ブレーキは急には止まれないし、止まる気もない
家に帰り、今日のことを振り返る。あの愛上さんの自宅に声を録るためにお邪魔することになるらしい。
いや、意味分からんな、本当に。
ソファーのクッションに頭を沈ませながら今日のアレは夢か何かなんじゃないかと考える。
「あ、勇。帰ってたんだね」
パジャマ姿の姉が二階の自室から降りてきた。長い黒髪にそれなりに整ってる顔立ちと、それなりに恵まれた体型の女がパジャマを着崩しており、隙間から下着が見えているが、血がつながっているというだけで、こんなにも色香を感じないとは人間の意識とはまぁ不思議なものだ。
「おう。つーか姉ちゃん大学は?」
「お姉ちゃんは単位ほとんど取り終わってるし、内内定ももらってるから超暇だよ」
は? なにそれ羨ましい。俺も昼頃どころかもう少しで夕方頃になろうかという時間に起きても問題ない生活を送りたいものだ。
「へぇ。じゃあ俺の分の家事やってよ。暇でしょ」
「あのねぇ。お姉ちゃんは低血圧系女子なの。家事ができるほど日々を活動的に生きてないの」
「家事をしてたら日々が活動的になって低血圧も治って健康になるよ。長生きするよ」
「お姉ちゃんは太く短くだから」
少なくとも引きこもってばかりでは太い人生の意味が違ってくるだろ。
「というかそれよりずっと唸ってたけどどうしたの? 二階まで声聞こえるんだけど」
「いや、何でもない」
「ふーん。ま、いいけど。新学期初日に唸ってる理由なんて分かりきってるし」
「黙れ。俺はお姉ちゃんと違って友達作るんだよ。友達100人作るんだよ」
我が家系の孤独遺伝は非常に強く、俺と姉はもちろんのこと、母や父も物静かで口下手。さらには祖父や祖母もそんな感じだ。これでよく結婚できたもんだとつくづく思う。
正月とか親戚で集まっても静かすぎて環境音しか聞こえない。ヒーリング用BGMかな?
「諦めなさいな。私たちはそういう星の下に生まれたのよ」
諭すような口ぶりで俺の肩をぽんぽんと叩く。表情は憐れみを含んでいる腹立つ顔をしていた。
それとほぼ同時に乱雑に置いたスマホから通知音が鳴る。たまたま画面を上にしていたため、メッセージの送り主と内容を動かずに見ることができた。
「愛上さん? え、誰? 友達? 勇が?」
姉は困惑して今までにないくらい困惑していた。
「いや、そういうんじゃない」
「そうだよね、私たち家族は孤独に生きてくもんね」
嫌だなその家族。
「で、なになに。なんのメッセージ? 業務連絡?」
姉に促されてメッセージの内容を確認する。次の土曜日に尾生仁駅前に待ち合わせとのことだ。時間についてはこっちで決めていいらしい。
「土曜ちょっと外出るわ」
「……………………は?」
いや、女がして良い顔じゃないだろそれ。めっちゃ瞳孔開いてるじゃん。めっちゃこっちと画面を交互に見るじゃん。
「え、なに。遊びに行くの? しかもこれ名前的に女の子だよね? え? いつのまにかお姉ちゃんを置いてリア充になってんの?」
「いやだから、そういうんじゃないから」
「あーそう。そうなんだ。あーそう。ふーん。お姉ちゃん部屋に篭ります。拗ねて部屋に篭ります」
姉は虚な目をしながら階段を登っていった。足音が廊下に響いていた。
「まぁ、集まるのは昼頃でいいか」
13時頃に集合しましょう。とだけ送り、ソシャゲの画面を開いた。
そして、次の土曜日になり尾生仁駅前に向かう。駅は田舎とも都会とも言えない規模だ。
改札前で待っていると愛上さんが小走りで向かってきた。
白いシャツとスキニーを身につけていた。休日は黒くて丸っこい眼鏡をかけていた。まぁおしゃれというわけではないが、愛上さんだとめちゃくちゃおしゃれに見えるから不思議だ。あんな眼鏡ですらなんかおしゃれに見えるもんな。
「ごめんね、お待たせ」
「あ、はい。あっ、いえ、そんな」
うわ俺めっちゃキモい。大森製薬並みに「あ」って言ってんじゃん。陰キャかよ、陰キャだよ。
「じゃあ、着いてきて」
「あ、はい」
いや、私服の愛上さんめっちゃ可愛いな。恋しちゃいそう。いや、まぁ俺が愛上さんに恋しようが何も関係ないけど。
「長田くんって普段何してるの?」
「……あっえっと、まぁダラダラしてますかね」
「そうだよね。私も休日は寝てるなぁ」
「そうですね」
いや、つまんな。俺つまんな。待て待て待て。もっと広げられる返ししろよ。映画観てますとかなんかあるだろ。広げられる何かが。なんだよダラダラしてるって。
「……やっぱり私って話しづらい?」
こちらを覗き込むように眉を八の字にしながら聞いてくる。
「いや! 全然! そんな! 俺の方があの、口下手で……あの……すみません」
「敬語はちょっと距離感じちゃうな……」
「あ、すみません。タメ語で話します」
「敬語外れてないよ!?」
そんなこんなで、会話が空気の抜けたゴムボールぐらいには弾んで愛上さんの家に着いた。
「家族はいないから適当でいいよ〜」
「あ、はい。失礼します」
愛上さんの家は豪邸というほどではないが広く、結構いいところの家なんだなと感じた。リビングも綺麗に掃除されていた。
「あ、そうだ、これ。手土産です」
「ありがとう。でも今後も呼ぶから手土産とか次からはいいよ。私のあれで呼んじゃってるわけだし」
適当なところで買ったカステラを渡す。え、あれ迷惑だったかな。人の家にお呼ばれするの初めてだからよく分かんないけど、これ礼儀じゃないの? 違うの?
「じゃあ! 早速、録音していいかな!!」
「あ、はい。よろしくお願いします」
愛上さんに連れられて個室に入室した。
「これ原稿ね!」
手渡された原稿に目を通すと、かなり目を疑った。なんでも『全肯定彼氏に甘やかされる』というものだ。
「……あのこれ」
「やっぱりその……嫌だった……かな? そ、そのこの彼女っていうのは私じゃなくてあの大丈夫だから!」
「あ、いや、こういうのじゃなくてあの。その結構あのこれ……」
いや、全肯定するのは別にいいが、内容がややえっちというか……うん、えっちだった。キスとかあるし。
「えっちくないですか……」
「お、音声作品ってそういうのだから……」
「あ、そうなんですね」
いや、これ録音されんの? 俺の声で? いや、無理無理無理無理。だいぶ無理。え、ちょっとヤバいな。
しばらく絶句していると、愛上さんが重々しく口を開いた。
「やっぱりダメ……だよね」
断れないな。めちゃくちゃ泣きそうじゃん。目すっごいうるうるしてるじゃん。捨てられた子猫みたいじゃん。
「……ダメじゃないです」
「ありがとう!」
一転すごい笑顔じゃん。眩し、可愛い。恋かな?
「じゃあ、ここに座って、この人の頭みたいなやつがマイクね。カッコで右耳にって書いてあったらこのマイクの右耳に、左耳にって書いてあったらこのマイクの左耳に声当ててね。じゃあ私そこで見てるから!」
「え、見られるんですか」
「うん!」
眩し、可愛い。恋かな?
「じゃあ……あの、こういうの初めてなんで、あの、あんまり期待通りのは……」
「大丈夫! 演技指導私するから!」
「あ、はい……」
そんなに本気なんだ。まぁそうだよね。こんな高そうな機材揃えてんだから本気だよね。原稿とかも結構長いし。
「じゃあ一発本番は難しいと思うからちょっとやってみようか。ここ防音だから気にせず声出してね」
「あ、はい」
とりあえずやってみるか。いや、これめっちゃ恥ずかしいなオイ。
「……君はよく頑張ってるよ」
「俺は君のこと分かってるからね」
「キス……してほしいの? 可愛いね、おいで」
「大丈夫。俺に身を委ねて……」
「……愛してるよ」
いや、何だこれ。何で俺こんなことしてるんだろう。
「いい……いいよ! 長田くん!」
「あ、ありがとうございます」
なんか、複雑だな。同級生の高嶺の花にこれを聞かれて誉められるのアレだな。だいぶ恥ずかしいな。割と羞恥の割合大きめで。
「演技の方も問題ないよ! じゃあ! そのまま本番いっちゃおうか! はい、これお水!」
「……はい」
渡された水を飲みながら思ったことが一つある。
え、何。これもう一回読むの? 嘘でしょ? いや、きっついな……次からは断るかもっと健全なのにしてもらおう。
いや、でもなぁ。すっごいキラキラしてんだよなぁ、顔。美人が笑うとすごいな。ミケランジェロに彫刻されたのかなってくらい美しいんだけど。
「準備できた?」
「あ、はい。大丈夫です……」
さっさと終わらせるか。演技指導とか言われた時はビビったけど、まぁアレで良いらしいし、同じようにやるか。
「……君はよく頑張ってるよ」
「俺は君のこと分かってるからね」
「キス……してほしいの? 可愛いね、おいで」
「大丈夫。俺に身を委ねて……」
「……愛してるよ」
約一時間半ほどマイクに向かって声を当て続けた。つまり、45分の原稿を二度読まされた訳でだいぶ疲れた。こんなに疲れるんだ声出すのって。陽キャすご。
「うん、お疲れ様! 長田くん! 疲れた? お腹すいた? その……どこか食べに行く?」
「あー……そうですね。軽く食べましょうか。はい」
「じゃあ、録音したファイル保存しちゃうからちょっと待っててね」
それにしても本当に大層な機材を揃えたもんだと感心する。詳しいわけではないけど、すっごい高そうだ。特にこの頭の形をしたマイクとかいくらすんの? 学生で買えるの?
「よしっと。お待たせ! いこ!」
「あ、はい」
「それと、これ先払いしとくね。とりあえず一万円から」
「いや、それはさすがに受け取れませんって」
「で、でも……」
学生が手軽にぽんっと一万円を出せてしまう金銭感覚はやばいな。これはちゃんとした金銭感覚を育んでもらわないとこの先ホストとかにハマったらどうする? この人。多分ハマるぞ。あの台本の内容的に。
「お金は本当にいりませんから。というか、そんなぽんぽん一万円って出すもんじゃないですから……」
「じゃあ、半分の五千円は? どうかな?」
「いや、ですから、お金のやり取りとかダメですよ」
「……せめて今日のご飯奢らせて?」
「あー……じゃあ僕水だけで」
「なんで!?」
その後も払う払わなくていいのやり取りが続き、結果的にお金ではなく、拘束時間をそのまま別日に一緒にどこか遊びに行ったり、通話をするということで話がまとまった。
ファミレスの有名チェーン店ゲストで一緒にご飯を食べた。が、やはり会話はそこそこに弾んだ程度で俺のコミュニケーションスキルの低さに嫌気が差したので、愛上さんと別れてからは書店で『誰でも簡単に話せる日常会話術』という本を購入した。