08.傘が無いなら
「雨⋯⋯」
もうすぐ出口というところで後ろから聞こえた小さな呟きに改めて視線を前に向けると、自動ドアの先に降り注ぐ水滴を確認した。
「⋯⋯まさか天気予報が外れるとは⋯⋯」
朝確認した時は確実に一日中晴れの予報だったはずだが、ポケットから取り出したスマホでもう一度予報を見ると今度は一転して夜まで雨の予報になっていた。
しかし、こうなることも予想していた咲希には秘密兵器──折り畳み傘があった。
念には念をという言葉がある通り、たとえ一日中晴れの予報でも備えておいて損は無いのだ。
「神原さんは傘持ってます?僕は折り畳み傘あるんですけど」
通行の邪魔にならないように一旦外の屋根の下に行って余裕の表情で後ろを振り返ると、夏愛は自らのショルダーバッグから折り畳み傘を取り出している所だった。
「ありますよ。念のため持ってきておいて正解でした」
どうやら夏愛もかなり用意周到なタイプらしい。
それなら大丈夫か、と前に向き直って自も傘を取り出そうとバッグに手を突っ込んだ咲希だったが、そこで動きが停止した。
「河館さん⋯⋯?どうかしましたか?」
動かなくなった咲希を不審に思ったのか夏愛がおずおずと声をかけてきてくれたのだが、咲希は何も返すことができなかった。
(⋯⋯まじか⋯⋯)
用意していたはずの折り畳み傘はバッグの中には入っていなかった。
(おかしい⋯⋯朝きちんと確認したのに⋯⋯?)
ぼんやりと朝の記憶を呼び起こす。待ち合わせは午後だったため午前中は暇で家に居たのだが、きちんとバッグから取り出してひとつひとつ確認したはずだ。
(⋯⋯⋯⋯やらかしたなぁ)
恐らくだが確認のために出したまま入れ忘れてしまったのだろう。今の今まで気づかなかったのは情けないが、今更嘆いても仕方がない。
「⋯⋯もしかして傘⋯⋯」
「それ以上は言わないでください⋯⋯」
気づいたらしい夏愛の言葉に小さく返答し、もう一度視線を雨に向ける。土砂降りとまでは行かないが傘無しで走るには少し厳しいように思える。
あれだけ自信満々に傘持ってますアピールをしたというのに本当は持って無いです、だなんて言えるはずが無かった。
「河館さん、無いなら無いで正直に言ってください。怒ったりしませんから」
いつの間にか正面まで移動していた夏愛にそう言われた咲希は、目を逸らしながら大人しく白状するしか無かった。
「どうやら家に忘れたみたいです⋯⋯」
そう告げると夏愛は目を閉じて小さく息を吐き、何も言わず自らの傘を差し出してきた。
「河館さんが持ってください。私だと届かないので」
一瞬その言葉の意味が分からなかった。
「届かない、とはどういう⋯⋯?」
自らの頭に浮かんだ妄想をかき消した咲希が恐る恐る聞き返すと、夏愛はその大きな白百合色の瞳を半分ほど隠すように瞼を下げてジト目になった。
「どういうも何も、河館さんが傘を持っていないのならご自宅まで送って行こうと思っただけですが」
「傘、ひとつしか無いですよ?」
「⋯⋯?ひとつあれば充分では?」
「え、いや⋯⋯それってつまり⋯⋯相合傘というものじゃ⋯⋯」
微妙に声が小さくなってしまったのは決して言うのが恥ずかしかった訳では無いと自分に言い聞かせる。
「何か問題でもありますか?」
「え」
「普通のことでしょう?」とでも言いたげな表情を浮かべながらそう言われてはもう咲希は何と言い返せばいいのか分からなくなっていた。
夏愛がぐいぐいと押し付けてくる傘の持ち手の部分を押し返しながらなんとか絞り出す。
「いや⋯⋯僕、適当に傘買って帰るんで気にしなくて大丈夫です。神原さんはお一人で傘を使って頂ければ⋯⋯!」
分かりやすく不満げな顔になった夏愛は押し付けていた傘を引っ込め、代わりにとんでもないことを言い放った。
「河館さんが傘を持ってくれないというのならこの傘を河館さんに渡して私は走って帰ります」
「どうしてそうなるんだ⋯⋯というか論点はそこじゃない!」
思わずツっこんでしまった。夏愛には単に傘を持ちたくないだけの最低な男だとあらぬ誤解をされてしまっている気がするが、本当の問題はそこでは無いのだ。
(相合傘⋯⋯いや、流石に⋯⋯)
申し訳ない、というか夏愛本人はそれでいいのかと心配になった。男と『そういうこと』をすると周りからどう見られるのか分かっているのだろうか。
その間も無言でじぃっ⋯⋯とこちらを見てくる夏愛に気圧され一歩後ずさった。
「そ、そういうのは仲のいい人とやるものであって⋯⋯」
自分で何を言っているのかも分からなくなりぐるぐると頭の中で思考が空回りする。もう咲希の思考は限界だった。
「⋯⋯⋯⋯すみません、よろしくお願いいたします⋯⋯」
大人しく諦めて傘を受け取るしか無かった。
♢
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
結局夏愛のお言葉に甘えることになった咲希は雨の中二人で道を歩いていた。
(気まずい⋯⋯)
持ち運びやすさが重視されている折り畳み傘は基本あまり大きくはない。夏愛の持っていた傘も例に漏れず、二人で入るには些か窮屈だった。
咲希の左側に並んでいる夏愛が濡れないように傘を傾けているのだが、代わりにはみ出た咲希の右肩が徐々に湿っていく。
四月下旬とはいえ特別寒い訳でも無いし、咲希は別に自分が濡れるのは構わないと特に気にしていなかった。
ただひとつ言うならば、無言で歩くだけの時間が辛かった。
チラリと隣を見ると、咲希の肩くらいの高さにさらつやの黒髪が見える。
近くで並んでみて改めて思ったが夏愛は咲希に比べてかなり背が低い、というよりは咲希が平均より少し高く夏愛は平均より少し下だから差が大きく見えるのだろう。
咲希は身長が高いとか低いとかで他人を見る目は変わらないし気にするほどの事でも無いと考えていたのだが、身長も綺麗な容姿と組み合わされば重要な意味を持つのだと今更ながらに知った。
耳障りにならない程度の雨音と二人の足音だけが響く中、咲希はずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「神原さんが僕みたいなやつと関わる理由ってなんですか?」
一拍置いてこちらを見上げた夏愛と目が合ってしまい、互いに慌てて正面に向き直った。
「⋯⋯別に、ただの恩返しです。河館さんは私を助けてくださいましたから」
「⋯⋯そうですか⋯⋯」
たったあれだけの事でここまで恩義を感じられては咲希としても少し困惑せざるを得なかったのだが、夏愛本人があまり語りたくないというような雰囲気を醸し出しているためそれ以上は聞けなかった。
再び会話が途切れたことで気まずい時間が始まった。
(⋯⋯早く帰りたい)
この時間がさっさと終わるように足を速めようとした咲希だったが、すぐに夏愛の存在を思い出して足の力を抜くしか無かった。