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お嬢はやけにぐいぐい来る  作者: 狐白雪
第四章 初夏の訪れ
79/79

79.特大の想定外(2)

「──触らないでッッ!!」

「がッッ⋯⋯!!?」


 完全な意識外からの一撃。

 咄嗟に頭を後ろへ引いたが間に合わず、かわし切れなかった指先が左目の下を掠める。そのはずみで掛けていた眼鏡が弾き飛ばされ、床にでも落ちたのか少し遅れて背後からカシャンという音が聞こえた。


(な、にが⋯⋯、っ!)

 眼鏡を失い一気にぼやけた視界の中で、先程まで左腕の傍にあった夏愛なつめの右手が真反対の右腕側のベッドに沈んでいるのを捉える。そして少しの間の後に何が起きたのかを理解すると、一気に全身から血の気が引いていくのを感じた。


『触らないでッッ!!』

 明確な拒絶。

 頭の中で反響するその声が。脳裏に焼き付いたあの目が。

 記憶の中で重なる二つの影が、ずっと心の奥底に封じ込めて来たものを大きく揺さぶった。


「ッ、違う!彼女は⋯⋯あの人とは⋯⋯ッ!」


 無意識に吐き出された自らの言葉に咄嗟に口を押さえるが、それでも漏れ出るものは抑え切れない。自分でもどうしていいのか分からないまま悔しさにも似たぐちゃぐちゃの感情で頭の中が埋め尽くされ、次第に呼吸が乱れ始める。


(違う⋯⋯今は⋯⋯、今はこんな事してる場合じゃ⋯⋯っ、)

 頭では分かっているのに体が動かない。自分の意思が、自分の身体に届かない。

 過呼吸による酸欠なのか、はたまたそれ以外の精神的なものなのか、強い目眩のような気持ちの悪い感覚とともにぼやけた視界が更にぐにゃりと歪み始める。


(⋯⋯っ、)

 どうすることも出来ないまま、ふわりと意識が薄れかけた、その時。


「もうやだ⋯⋯」


 微かに聞こえた、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しい声。

 暗闇の中何とか視線を動かすと、まばたきひとつせず真っ直ぐにこちらを見つめる白百合色の瞳と目が合った。


(⋯⋯いや、これは⋯⋯)

 何かが違う、という直感的な違和感。散らばっていた意識をかき集め、もう一度集中させるとそれがただ咲希の方を向いているだけで焦点は合っておらず、光も宿っていない虚ろな瞳だということに気付く。


「いたいよ⋯⋯だれか⋯⋯だれか⋯⋯っ」


 うわごとのような声に混じって唇の隙間から零れ落ちた、ある一言。その一言だけは、やけにはっきりと聞き取れた。


「たすけて⋯⋯咲希くん──⋯⋯」

「──ッ!!」


 小さく絞り出された助けを求める声に、咲希の意識と思考が覚醒する。

(⋯⋯そう、か)

 頭の芯だけが冷え切った不思議な感覚。焼けるような焦りが消え、一秒が何十倍にも思えるような時間の中で、もうひとつの新たな線が生まれる。


(腕の傷は、生傷じゃなくてほとんど治癒し切った()()だった。⋯⋯つまり、あれが出来たのは今日だとか昨日だとか、そんな最近の話じゃない)


 もう一度視線を下に落とす。改めて観察すると、単なる憶測が少しずつ明確な形となって見えて来る。


(この規模の傷がここまで治癒するには最低でも半年から一年は掛かるはず。となると当然傷が出来たのはもっと前だとして、どうしてその傷が今になって痛む?何か原因が⋯⋯いや、違うな。考えるまでもないか)


 思えば最初から、その答えはすぐ目の前にあった。

 咲希が夏愛のことをもっとしっかりと見ていれば、もっと早い段階で気付けたのかもしれない。いや、そうでなくとも他ならない咲希だけは、何がなんでも()()()()()()()()()()ならなかったのだ。

 その時間と機会は充分過ぎるほどにあったのに、自分の弱さがそれを信じられなくて、受け入れられなくて、無理やり目を逸らした。向き合おうとしなかった。


 だからその自分勝手な行動が回り回って今の事態を引き起こしているとするならば。


(⋯⋯何だ、分かってしまえば案外簡単な話じゃないか)

 咲希の心の中で、どこか生温い穏やかな感情が滲み出す。


(同じなんだな⋯⋯。僕も、この子も⋯⋯)


 内側から溢れるものに身を任せ、突き動かされるように華奢な両肩を掴み、そして──。


「しっかりしろッ!──夏愛ッッ!!!」

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