77.信用という名の脅迫
『あっ!やっと繋がった!?もしもしクロガネ先パイ聞こえますか!?』
昼間に連絡先を交換したばかりの後輩、村雨珠秋の元気な声がスピーカー越しに鼓膜を直撃し、咲希はキーンという耳鳴りのような音に目をぱちぱちさせながら返答する。
「聞こえますけど⋯⋯どうしました?そんなに慌てて」
『いや原因はうちの呼びかけに全然反応してくれない先パイなんスけどそれは一旦置いといて!先パイ今どこにいます?』
「?普通に自宅ですけどそれがどう」
『自宅!?ならよかった大丈夫そうっスね!ちなみに今なーちゃんの様子はどんな感じっスか?』
「⋯⋯へ?」
かなり食い気味かつ自然に飛び込んできた衝撃の問いに、一瞬だけ咲希の思考が空白で埋め尽くされる。
『へじゃなくて。なーちゃん、そこにいますよね?なんかいくら電話しても全然繋がらないんスけど今どんな状況っスか?⋯⋯あれ、先パイ?聞いてます?』
(ど、どう答える⋯⋯?聞き方的にはまだ確信してる訳じゃない⋯⋯ならまだ誤魔化すことは可能⋯⋯。いやでも、万が一嘘をついたことがバレた場合⋯⋯)
誤魔化すか、正直に言うか。
諸々のリスクを無言のまま五秒ほど考えて、そして。
「⋯⋯今は、部屋で眠ってます」
『え、部屋で⋯⋯?』
「昼間のウォーキング大会で熱中症になってたみたいで⋯⋯その対処が一通り終わったので、回復のために休んで貰ってます」
『⋯⋯なるほど?隠さないんスね』
「⋯⋯隠さないといけないような事はしてないので。というか、村雨さんこそ驚かないんですね。親友がよく知らない男の家に連れ込まれてるんですよ?」
『あははっ!先パイ自分でそれ言っちゃうんスね!てか一応これでも結構驚いてる方っスよ?特に今の説明だと色々大事な部分が抜け落ちてて全然納得できませんし。まぁでも⋯⋯連れ込む云々に関しては、心配しなくていいかなって思ってます』
「⋯⋯その、根拠は?」
予想外の珠秋の発言に訝しむようにゆっくりとそう尋ねた咲希は、電話口から聞こえたくすりという笑い声に眉を寄せる。
『そんなあからさまに身構えなくても。別に、変な意味じゃないっスよ。クロガネ先パイ、今日の昼間にうちが言ったこと、覚えてます?』
「⋯⋯、」
今日の出来事なのである程度は記憶しているが、流石にノーヒントだとどの発言を指しているのかまでは特定出来ない。言葉に詰まっていると、ため息混じりの「もー仕方ないなー」という声の後に本人から答えが告げられた。
『ほら、うちが先パイに脚の怪我を診てもらった時に「どうしてクロガネ先パイからなーちゃんの匂いがするんスか?」って言ったじゃないっスか』
「あ、あぁ⋯⋯」
そこまで言われてようやく思い出す。
今日の昼間──正確には午前十時頃。ウォーキング大会の最中、救護係として呼び出しを受けた先で初めて会った珠秋にそんなことを言われたのだ。
あの時は何とか誤魔化してギリギリで乗り切ったが、ありえないと思いつつも実際にリュックの中にお弁当があったので完全に嘘とも言いきれず、半信半疑のまま有耶無耶になったはずだ。
しかし今、ここで珠秋がその話を出すということはつまり──。
「⋯⋯つまり、どういうことですか?」
『こ、ここに来てまさかの鈍感キャラ⋯⋯、っじゃなくて!要するに逆も然りってことっスよ!先パイからなーちゃんの匂いがしたってことは、なーちゃんからも先パイの匂いがしたってことっス!』
「⋯⋯っ、」
『その反応⋯⋯やっぱり何かしらの心当たりはあるっぽいっスね?』
「⋯⋯あくまでもただの知りあ⋯⋯友人、ですよ。それ以上の関係は持ってません」
『ふーんなるほどぉ?まぁ仮にそうだとして、高校時代からず〜っと、誰に何度告られても一度もなびなかったあの難攻不落のなーちゃんがココ最近!急に!休みの日に着ていく服を選んで欲しいとかメイクを手伝って欲しいとか、どうしたら名前で呼んでもらえるかとか落ち込んでる人を元気づけるにはどんなことをすればいいかとか色々相談してくるようになったんスけど、それに関して先パイ何か知りません?』
「⋯⋯。僕は、何も」
やけに具体的過ぎる愚痴のような言葉の猛襲に、どう考えても分かった上で聞いてるだろ、と心の中で呟きなからなるべく平坦な声でしらばっくれると、案の定くすくすと楽しげな笑い声が返って来る。
『まぁこの辺の話はまたおいおいするとして⋯⋯とりあえず今日のところは時間もないんでこれくらいにしときますね。それとひとつお願いを。先パイならもう知ってると思うんスけど、なーちゃん結構暑さと寒さ両方に弱いんで、なるべくその辺気遣ってあげてください。⋯⋯特に今の時期は不安定になりがちなんで』
「⋯⋯?分かりました。そこは任せて下さい」
最後の言葉に若干の引っかかりを覚えながらもしっかりそれを請け負うと、珠秋は『頼もしいっスねぇ』と満足げに零してからそのままの声音でこう続けた。
『ところで先パイ、うちに何か聞きたいこととか気になってることがあるんじゃないスか?』
会話の終了を察してスマホを耳から離そうとしていた咲希は、予想外のその言葉に思わず目を見開く。
「え⋯⋯?」
『いいんスか?先パイが聞かないなら全部うちの推測で、うちが言いたいことを好き勝手言うだけになっちゃうんスけど』
「え?えぇっと、なら⋯⋯」
めちゃくちゃな主張過ぎて珠秋が何を言っているのかいまいち理解出来なかったが、咲希はとにかく何か聞かなければという焦りに押されるように、ここまでずっと頭の隅にあった疑問を絞り出した。
「村雨さんは、どうしてそこまで僕を信用出来るんですか⋯⋯?証拠も何も無い、ただの僕の説明だけでこんな⋯⋯」
『あー、やっぱりほぼ予想通りっスね。⋯⋯ま、先パイの性格的に他人からの一方的な好意は不審にしか感じられないと思うんで、そういうことなら最後にうちの本音でも聞いてもらいましょうか』
咲希のまとまりの無いあやふやな言葉に対し珠秋は悩む素振りすら見せずにまずそう置くと、たっぷり十秒近く間を空けてからゆっくりと口を開いた。
『⋯⋯まず大前提として、うちはクロガネ先パイのことを百パーセント信用してる訳じゃないっス。それはいくらうちが先パイのファンでも関係ない⋯⋯。さっき先パイも言ってた通り、ほとんど初対面の男の元に親友を預けるようなことは普段のうちなら絶対にしないと言い切れます』
「なら何で──」
『話は最後まで聞いてください』
落ち着いた声音で淡々と話していた珠秋の少し強めの声に一瞬たじろいだ咲希は、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込み「⋯⋯すみません」とだけ呟いて続きを促す。
『ならどうしてなーちゃんを先パイに任せたのか──言い換えれば、どうして任せられると判断したのか。その理由はわざわざ言わなくても、クロガネ先パイならもう薄々気が付いてるんじゃないっスか?』
「っ、それは有り得ない!」
『何が有り得ないんスか?』
反射的に飛び出た叫びに重ねる形で真っ向からそう問われ、咲希は言葉に詰まりつつもぽつぽつと言葉を零していく。
「そんな偶然⋯⋯有り得ない、有り得るはずがない⋯⋯!だってあれは⋯⋯っ、そもそも、村雨さんが本当にそれを知ってる確証だって何も⋯⋯っ、」
『⋯⋯。認めたくない気持ちも分かりますけど、ぶっちゃけ先パイがどう思っていようがもうこの際うちには関係ないんスよ』
「それは、どういう⋯⋯」
『うちはただ、なーちゃんに幸せになってほしいだけ。そのためならうちは手段を選ばないし、何だってやる覚悟があります。だから──⋯⋯』
そこで珠秋は一度大きく息を吐くと、どこか疲れたような声でゆっくりとその言葉を口にした。
『──なーちゃんを頼みますよ。⋯⋯元生徒会、書記くん?』
「なん⋯⋯ッッ!!?」
何でそれを、と聞き返す暇もなく通話が切られ、ツーツーという無機質な電子音だけがその場に残る。
「⋯⋯、」
咲希はスマホを腕ごとだらんと力なく下げると、背後の扉にもたれるようにずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
(⋯⋯『書記くん』、か⋯⋯)
それは高校時代、ある一人の少女が密かに咲希に対して使っていた、他の誰も知らないはずの秘密の呼び名。
もちろん秘密だと思っていたのは咲希だけで、既にその呼び名が咲希の知らないところで広まっていたという可能性はある。
(⋯⋯どこかで偶然耳にしたそれを、ただ真似してみただけ?あの状況で、何の意図も目的もなく?⋯⋯そんな訳ない。だって、あの声音と雰囲気は、完全に──⋯⋯)
──赤い髪に赤い瞳。村雨という名字だって、百歩譲ればまだ偶然の一致で済ませられた。
だが、今のは違う。
たった一言で、咲希の中にあった疑念が確信に変わってしまった。
「──村雨珠秋⋯⋯あの人の妹⋯⋯」
改めて言葉にすると咲希の中で何かが揺らぎ、お腹の底からせり上がってくるものを抑え込むように反射的に唇を噛み締める。
(っ、何で、今になって⋯⋯)
これは理屈ではなく感情の話だ。客観的に見れば自宅に二人きりという状況は咲希の方に分があるように思えるが、珠秋が"あの事"を知っている以上は万が一にも疑われるようなことは避けなければならない。
(⋯⋯大丈夫。村雨さんは神原さんが何事もなく無事に帰って来ればそれで満足するはず⋯⋯。神原さんが目を覚ましたら体調だけ確認して、問題なさそうならすぐに家まで送ろう⋯⋯)
そう思い込むようにして無理やり自分を納得させたつもりだったが、彼女の気分次第で自分の人生が簡単に終わらせられるという緊張のせいかいつの間にか掌にじっとりと汗をかいていたことに気付き、深呼吸を繰り返して何とか心を落ち着ける。
とりあえず今はこの場から離れるのが先決だと思って立ち上がろうとした、その時だった。
突然背後の扉の奥からドンッッ!という大きな物音が聞こえ、その扉にもたれていた咲希の肩がびくりと跳ね上がる。
慌てて後ろを振り返って耳を澄ませるが、聞こえるのは外の雨音だけで似たような音はもう聞こえない。
(⋯⋯何だ、今の音⋯⋯まるでベッドを拳で思いっ切り叩いた時みたいな⋯⋯)
ただの勘違いか、何か別の音を聞き間違えたか。とりあえず適当な理由をつけて納得しようとした咲希だったが、そこでぴたりと動き止まる。
脳裏に浮かんだのは、先ほどの会話の中にあった珠秋の言葉。
『特に今の時期は不安定になりがちなんで』
あの時覚えた謎の違和感と、部屋から聞こえた謎の物音。
「⋯⋯、」
猛烈な嫌な予感に全身から血の気が引いていくのを感じ、突き動かされるように立ち上がって自室の扉を開けた瞬間──。
耳を塞ぎたくなるような大きな叫び声が、家中に響き渡った。
 




