73.お嬢の体調不良と看病(2)
(⋯⋯、)
その声に若干の罪悪感を覚えつつ、ゆっくりと視線を下げる。
「あっ、⋯⋯えっ?」
そこには、背中と膝裏を咲希に支えられ、胸の前でぎゅっと両手を握ってぱちぱちと瞬きを繰り返す夏愛がいた。
「⋯⋯あ、あのっ」
初め彼女は突然のことで状況が分かっていないようだったが、しばらくして頭が追いついたらしく見上げるように視線をこちらに向けるとおずおずと声を漏らした。
「さっ、さきくん、これってもしかして⋯⋯その、お、お姫様──⋯⋯」
「⋯⋯。あのフラフラの状態で歩かせるのは流石に危なそうなので部屋まで運びます。絶対に落とさないと約束するので少しだけ我慢して下さい」
「⋯⋯っ!」
困惑と恥ずかしさ、それに少しの期待を加えたようなやけにきらきらした瞳を向けられ、その上目遣いに耐えられなかった咲希は抑揚を抑えた声で淡々と言い切ってからしれっと目を逸らす。
とりあえず嫌がっている様子はなさそうなので一安心するが、咲希の頭はもっと別の──当然といえば当然の──あることでいっぱいになっていた。
(や、やっぱり軽い⋯⋯。ある程度見た目で予想してたとはいえここまでなのか⋯⋯)
夏愛は見ての通り小柄である上に全体的にとても華奢なので同年代の女性の平均と比べてもやや痩せ気味の部類に入るというのは前々から分かっていたのだが、こうして実際に抱えてみて思ったのはそれにしても軽過ぎるということだった。
もちろんある程度の重みはあるが、普段は引きこもりで運動不足の咲希がいきなり二十キロメートル歩いた後の足腰でも余裕で支えられるくらいしか無いのでむしろ逆に心配になってしまう。
徐々に繊細な割れ物を抱えているような感覚になって来ると、ほっそりとした脚や女性らしいしなやかな柔らかさのある背中を支える腕にそっと意識を集中させる。
傷付けてしまわないように優しく、それでいて絶対に落とさないようにしっかりと。
そんな絶妙な力加減で自分の方に少しだけ重心を引き寄せると、腕の中で小さく「⋯⋯おひめさまだっこ⋯⋯」と独り言を呟いていた夏愛の全身が微かに強ばった。
咲希自身お姫様抱っこに慣れている訳ではないしこの状態で歩く以上こればっかりはどうしようもないので我慢してもらうしかないのだが、それなら自分が申し訳なさに押し潰される前に済ませてしまおうと思った咲希は一瞬だけ視線を上に向ける。
(二階は⋯⋯駄目か。一階でこの暑さなら二階は完全にサウナ状態だろうし⋯⋯。若干気は引けるけど仕方ない)
「っ、」
視線を前に戻してそのままゆっくりと足を踏み出すとその揺れにびっくりしたのか腕の中の夏愛の身体がびくりと震えて控えめに咲希の方へ上体を寄せて来たので、思わず暑さとはまた別の変な汗が額に浮かぶ。
違う意味で汗だくになりながらも何とか無事に廊下を抜けて自室の扉を開き、玄関に負けず劣らずの暑さの部屋に一瞬躊躇ってから足を踏み入れる。
「すぐにエアコンつけるので⋯⋯」
そう言ってとりあえず夏愛をベッドの上にそっと下ろし、肩に掛けていた彼女のショルダーバッグと背負っていた自分のリュックサックを床に下ろしてから急いで壁に引っ掛けられたリモコンを手に取る。
それを操作して冷房の温度設定を限界まで下げると、更に風量を最大にしてフルパワーで部屋の冷却を開始する。
咲希の自室のエアコンは比較的最新に近い良い性能のものであるしフィルターも先日掃除したばかりなので、おそらく五分もあれば快適な温度になるだろう。
(とりあえずエアコンはこれで良いとして、次は──⋯⋯)
肩越しにチラリと背後を振り返ると、ベッドの端に腰掛けていた夏愛は咲希の視線に気付いたらしく一瞬だけ目を見開いて、すぐに目を伏せた。
(⋯⋯、)
咲希が夏愛から約一メートルの距離を空けているのは一応何もやましいことをするつもりは無いという意思表示のつもりだったのだが、彼女は一目で分かるくらいの不安そうな表情でこちらを見上げているためどうやらその意図は上手く伝わっていないらしい。
(⋯⋯まぁそりゃそうだよな。恋人でもない男の家──それも自室にまで連れ込まれて更にはベッドの上に座らされてるんだもんな)
心の中で呟いてみてようやく我ながら結構とんでもないことをしているのでは?と真顔になったが、あくまで目的は夏愛の体調不良を改善することであるし、自室に連れ込んだのもベッドに寝かせたのも全てはその目的を達成するための最短ルート、最善の選択肢だったというだけであって決して他意は無い。⋯⋯ので、今だけはどうか目を瞑ってもらいたい。
とはいえ口先だけなら何とでも言えるため、咲希はまず行動で示すことにした。
敢えて大きな動きで体ごと振り返り、その場で床に片膝をつくように腰を下ろして自分のリュックサックを手繰り寄せる。
そのままジッパーを開けて中を漁りつつ、その間に夏愛に確認しておかなければならないことを尋ねる。
「えっと、神原さん、ここに来るまでに自分で何か薬とかって飲みました?」
「薬?⋯⋯あ、はい、市販の頭痛薬を一錠⋯⋯」
「それだけですか?」
「はい、他には何も」
「⋯⋯ちなみに今、頭痛の具合は?」
「今は⋯⋯少し頭が重たいくらいで、そこまで痛くはないです」
そこまで、ということは今も少なからず痛みはあると見て間違いないだろうが、既に一度頭痛薬を服用している彼女に短いスパンで薬を追加するというのはなるべく避けたい。
「なるほど。なら薬は使わず一旦様子見で、普通に基本的な対処で良さそうですね。⋯⋯っと、」
次の行動を頭の中で考えながらリュックの中のクーラーボックスを開けた時、ぴたりと咲希の手が止まった。
(温くなってる⋯⋯朝準備したものだし流石に保冷剤が保たなかったか)
ボックスの中には昼間の余りとして経口補水液や天然水のペットボトルがまだ何本か入っていたのだが、いずれも結露や溶けた保冷剤の水気で濡れているだけでほとんど常温になってしまっている。
「⋯⋯すみません、色々と足りないものがあるみたいなのでちょっと向こうで準備して来ます。すぐに戻るので」
「わ、分かりました。⋯⋯お願いします」
顔を上げて一言断ると、背筋を伸ばし膝に手を置いた綺麗な姿勢でこちらを見ていた夏愛はぺこりと頭を下げてそう言った。
(⋯⋯あの状態でずっと気を張り続けてるのはどう考えても辛いだろうし、一刻も早く済ませて休ませないと⋯⋯)
一人ではどうにもならないからと助けを求めて咲希の家まで来たというのに、咲希の手際が悪いせいで結局無理をさせてしまっている。
遅くともあと十分以内に全て終わらせて寝かせてあげなければと思いつつ、急ぎ足で部屋を出てキッチンへ向かう。
「えっと、これとこれと⋯⋯あと、確かこの変に⋯⋯、あった」
一応流しで手を洗ってから、元々自分で使おうと思って冷蔵庫や棚に事前に突っ込んでおいた色々なものの中から目的のものを回収すると、それらをお盆に載せて再び急ぎ足で自室に戻る。
「お待たせしました。⋯⋯まずはこの経口補水液を。一気に飲む必要は無いので、一口ずつでも飲める範囲で。一応コップ持って来てますけど使います?」
「⋯⋯お願いします」
夏愛が頷いたのを確認すると、咲希はお盆をサイドテーブルに置いてからついさっきまで冷蔵されていた冷たい経口補水液のペットボトルを開封し、持って来ていたガラスコップの半分ほどの量を注いで夏愛に手渡す。
それを受け取った夏愛は小さな声で「⋯⋯ありがとうございます」と呟いてコップにちびちびと口を付けてくれたので、その間に咲希は冷却シートの入った箱を開封しておく。
(さて⋯⋯どうしたものかな。流石に僕がやる訳にもいかないし、普通に考えたら自分で貼って貰うのが一番良いんだろうけど⋯⋯)
開けたばかりでひんやりとする白い布のようなシートを一枚手に取って夏愛の方に視線を向けると、丁度彼女もコップの中身を飲み切ったタイミングだったらしくぱちりと目が合った。
「⋯⋯、」
「⋯⋯、」
「その冷却シート⋯⋯」
「あっ、はい!えっと⋯⋯も、もちろん自分で貼ります、よね?もしアレだったら僕手鏡とか取って来るんで!⋯⋯、神原さん?」
「⋯⋯」
空っぽになったコップを両手で包むように持った夏愛がやけにじーっと咲希の手元を見つめていることに気付いて疑問符を浮かべるが、同時に咲希の背筋には猛烈に嫌な予感が突き刺さっていた。
「⋯⋯それ──」
そしてすぐに、その予感は的中する。
「貼ってもらっても、いいですか?」




