72.お嬢の体調不良と看病(1)
「⋯⋯!」
その声にゆっくりと顔を上げた少女はどこか虚ろな瞳をこちらに向けると、僅かに目を見開いた後にゆらりと立ち上がった。
「⋯⋯」
首元の緩い薄手の膝丈ワンピースに申し訳程度の極薄タイツという普段の完全防備ぶりに比べてややラフな格好の夏愛は何も言わず、うっすらと笑みを浮かべてこちらをぼんやりと見つめている。
「⋯⋯?あの、大丈夫ですか⋯⋯?何か顔色が悪──」
ぽすん、という胸元への謎の衝撃に咲希の言葉が途切れると、直後に左右の脇腹から背中にかけて軽い圧迫感があった。
「⋯⋯?」
じんわりと感じる微かな温もりに視線を下げてみると、すぐそこにはシャンプーの甘い香りのする綺麗な黒い髪が見えた。
「⋯⋯、」
ぱちぱちと瞬きを繰り返し、一旦目を閉じてから今自分が置かれている状況について改めて考えようとした瞬間、咲希の思考が爆発した。
「んなぁッ!?ちょっ、神原さん!?い、いきなり何をっ、なんで抱き着いてっ!!?いっいいいくら何でもこれはまずいですって!そ、それに僕、ここまでずっと走って来たんで今、雨とか、その⋯⋯汗とか⋯⋯きっ汚いのであんまり触らない方が⋯⋯っ!!」
ありえないほど速くなった自分の心臓の音を聞きながら目どころか腕までぐるぐる回して次々と言葉を並べていくが、両手をこちらの背中にしっかり回して完全に抱きしめて来ている夏愛は動かないしこの様子では引き剥がせそうにもない。
「⋯⋯っ、」
少女の身体に触れることが出来ないないまま両手を空中でわたわたと振る咲希はそこであることに気付く。
「神原さん⋯⋯?」
「⋯⋯」
呼び掛けてみるが反応がない。ただその代わりに聞こえる苦しそうな荒い呼吸の音に咲希の頭が切り替わった。
「⋯⋯すみません、ちょっと額失礼しますね」
若干躊躇いつつも左手を慎重に隙間に入れて夏愛の額に触れると、案の定咲希よりも明らかに高い異常な体温が感じられた。
(この体温と息切れ⋯⋯熱中症の症状か⋯⋯?だとしたらこんなに体温が高いのにほとんど汗をかいてないのはまずいな。思ったよりも症状が重い⋯⋯)
昼間に夏愛を見た時は体調面に関して全く問題の無い様子だったはずだが、思い返してみれば彼女の服装は今の季節にはどう考えても合わない分厚い素材の長袖長ズボンだった。ただでさえ熱が籠るというのにそれに午後の気温の上昇が重なれば身体が体温調節の限界を超えてしまっても何らおかしくはない。
「すみ、ません⋯⋯」
その時下から聞こえた消え入るような声に咲希の呼吸が詰まる。
「本当は⋯⋯自分でどうにかしないといけないって、分かってるのに⋯⋯。こんな、押しかけるようなこと⋯⋯迷惑、ですよね⋯⋯」
「っ、迷惑だなんて、そんなこと⋯⋯ッ!どう見ても体調不良だし、そもそも自分で迷惑になるかもしれないと思ったのにここまで来たってことは、それなりの事情があるんじゃないんですか!?⋯⋯今、家に親御さんは⋯⋯?」
「⋯⋯」
夏愛は咲希の胸に顔を埋めた状態のままふるふると首を横に振った。頭をぐりぐりと押し付けられて妙にくすぐったい感覚を味わいながらも咲希の表情は余計に陰を増す。
(否定、ということは今自宅に親はいないのか。日中は仕事で家を空けてるだけで夜には帰って来る、って考えるのが普通なんだろうけど。⋯⋯それだと、どうして親を頼らずわざわざ他人であって物理的な距離もある僕の家に来ることを選んだのかが分からない)
夏愛の自宅から咲希の自宅までは普通に歩けばおよそ五分程度でそれだけ聞けばとても近く感じるが、実際に歩いてみると意外に距離がある。
見た感じ自力で立つことすらままならない様子の夏愛が一人でここまで来たというのがそもそも信じ難いのだが、現に今彼女はこうして咲希の目の前にいる。
(何でそこまでして──)
その瞬間、咲希の脳内に声が響いた。
『──なので、この先もしも私が弱ってしまうような出来事があった時には──⋯⋯』
(あ⋯⋯)
同時に浮かんだ『約束』という二文字に思わず目を見開き、一度だけゆっくりと深呼吸をして呟いた。
「⋯⋯ここは暑いし雨も酷くなって来てるので、とりあえず中に⋯⋯」
本当にまずそうならすぐに本職の医者を頼る。
それだけ心に決めて、普段通りの声音で言えたことを願いつつ夏愛が小さく頷いたのを確認してから右手で玄関の鍵を開けると、足元が不安定な夏愛が倒れてしまわないように肩を支えながら二人で中に足を踏み入れる。
「うっ⋯⋯暑⋯⋯」
中に入ってすぐ、思わずそんな声が漏れる。
日中締め切っていたせいで熱が篭っているのか家の中は外とほとんど変わらないかむしろそれ以上の蒸し暑さだったが、これくらいなら先日掃除したばかりのエアコンをいくつか使えばなんとかなるだろう。
「靴、脱げますか?」
「⋯⋯それくれい、なら⋯⋯」
今の夏愛から離れるのは少々不安ではあるが、屈む時に邪魔になりそうだったのでとりあえず手を離して玄関前に放置されたやけにパンパンの彼女のショルダーバッグを回収して振り返ると、夏愛は壁に手を突いていたにも関わらず、靴を脱ぐために片足を浮かしたままぐらりとバランスを崩していた。
「あぶな──ッ!!」
咄嗟に腕を伸ばし、前方向に倒れかけた夏愛の肩を背中側から掴んで何とか大惨事を回避する。
「ふ、フラフラじゃないですか!」
「⋯⋯す、すみません⋯⋯もう、大丈夫なので⋯⋯」
「いや、大丈夫って⋯⋯」
どう見ても大丈夫ではない。
咲希の手から抜け出し、フラフラの状態で今度こそもう片方の靴も脱いでフローリングに上がった夏愛の後ろ姿を見て、咲希は決心した。
「⋯⋯すみません神原さん、」
「え?⋯⋯──ひゃあっ!?」
夏愛が振り返るよりも早く一歩踏み込んで一気に距離を詰めると、直後に広い玄関に上擦った可愛らしい悲鳴が小さく響いた。




