61.僕にしか出来ないこと
(⋯⋯こうなるのが分かってたから嫌だったんだよなぁ)
不思議な浮遊感とともに自分以外の世界全てがスローモーションのようにゆっくりと再生される中で、過去の記憶が次々と脳裏に浮かんで来る。
昔からこの人はこうだった。幼い頃から会う度に理由も無く蹴飛ばされるのは最初こそ正気を疑ったが、今ではその行為に込められた彼女の優しい気持ちも分か──。
「⋯⋯っる訳ないだろふざけんなッッ!!」
エセ走馬灯へのセルフツッコミと同時に時間の流れが戻った刹那、廊下の硬い地面に背中から叩きつけられる直前に床に手を突きその勢いを利用してバク転をするように何とか両脚で着地すると、半開きになった扉の奥から舌打ちとともに誰かの声が聞こえて来た。
「咄嗟に腕で直撃を防いだ上にあの体勢から完璧に受け身まで取るか。また盛大にやらかして病んでいると聞いていたが⋯⋯どうやら情報が古かったみたいだな」
そう呟きながら姿を現したのは肩ほどの黒髪を地味なヘアゴムでひとつにまとめ、ぱりっとした黒のスーツを着こなすいかにもキャリアウーマンといった長身の女性だった。
ただその雰囲気は切れ長の黒い目のやスーツの上に羽織った白衣のせいか他の│教諭《大人》とはどこか異なったものとなっている。
「こっ、殺す気かアンタッッ!!?」
先ほどの六道とはまた違った威圧感を与える女性に対して負けじとそう叫ぶが、返って来たのは鼻で笑ったような声だった。
「安心しろ、人間は案外頑丈なんだ。急所さえ避ければどれだけ蹴ろうが殴ろうが意外と長持ちするものだぞ?そもそもこんな突起も何も無いスリッパの裏面など衝撃が分散して到底致命傷にはなり得ない。それにこの程度で死ぬようなタマならお前はとっくの昔にあの世に行っているはずだろう?」
「⋯⋯、」
体格的には同年代の平均より少し上くらいの咲希を片脚で打ち上げるほどの膂力があの細い身体のどこに秘められているのかは分からないが、とりあえず他人への暴力に医療の知識を悪用しているこの人相手では何も安心出来ない事は分かった。目の前の咲希を生かすも殺すもこの人の気分次第という訳だ。
「⋯⋯だとしても鳩尾は、⋯⋯やり過ぎだろ」
腕を挟んで直撃を防いだ上で貫通してきた腹部への衝撃に遅れて咳き込みながらそう抗議するが、女性の方に特に気にしている様子は見られない。
「二分も遅刻した上に変に防ぐから当たる位置がズレるんだ。言っておくが私が狙ったのはあくまでももう少し下の腹部だからな。ああそれと、年上には敬語を使えよ、キー坊」
「⋯⋯。いい加減その呼び方はやめてくださいよ優奈先生。僕ももう子供じゃない。それに別に二分くらい誤差じゃないですか⋯⋯」
「はっ!いくつになろうとガキはガキだ。一応聞くが、どうして遅れた?時間は事前に伝えたはずだが」
優奈と呼ばれた女性は言い残すことはあるかと言わんばかりに半目でこちらを見る。
「⋯⋯時間までには来てましたよ、ただちょっと、そこで六道に捕まってただけで」
悲惨な目に遭うと分っていたから時間になる前に来たというのに、たまたま遭遇した六道と会話をしたせいで結果的に遅れてしまったのだ。Dead or Die、救いが無いのならばせめて六道だけは道連れにはしないと気が済まない。
「六道が?なら仕方ないな」
「え」
せめてもの仕返しのつもりで六道の名前を出したのだが、その名前を聞いて何故か納得してしまった優奈は特に説明もせず保健室の中へ入って行ってしまった。
「⋯⋯あれが⋯⋯仕方ない⋯⋯?」
その一言で済ませていいものなのか、と唖然とする咲希だったが、開けっ放しの扉を見て慌てて立ち上がると専用のスリッパに履き替えてから急いで扉の隙間に体を滑り込ませた。
「手短に済ませるぞ。私は忙しいんだ」
病院などと同じ、医療に関係した場所特有のツンとした消毒液の匂いに妙な安心感と懐しさを覚えると同時に、見覚えのある書類を手にした優奈からそんな声が掛けられた。
♢
「ほんとに早いな⋯⋯まだ二日しか経ってないのに」
その日の夕方、自宅に届けられた大きな段ボールをリビングの机に置いた咲希はそう呟きながらガムテープを丁寧に剥がして箱を開封した。
中に入っていたのはクッションや抱き枕に加え、置き時計などのちょっとしたインテリア。
これは先日夏愛に連れられて訪れたショッピングモールの家具店で購入したものだ。徒歩で持ち帰るには荷物が多過ぎたため配送サービスを利用したのだが、それが丁度今日届いたという事らしい。
「あれ?こんなの買ったっけ⋯⋯」
とにかく数が多いため適当に机やソファの上に小物を並べている途中、クッションとクッションの隙間から出て来た見覚えの無い袋にふと手を止めた。とりあえず手に取って見てみるが、コンパクトに折り畳まれているらしく何が入っているのかがいまいち分からない。
特に何も考えずに開封し、中に入っていたものを広げた咲希は首を傾げた。
「⋯⋯エプロン?」
それは、料理をする際などに使う紺色のエプロンだった。触ってみた感じ素材はポリエステルで、ブランド品ではないがそれなりに品質は良いものだと見受けられる。
どうしてこんなものが、と呟いた所で突然ズボンのポケットに入っていたスマホが震えた。
一旦エプロンは箱の端に掛けておき誰からだろうかと画面を見ると、表示されていた名前に思わず目を見開く。
(えっ、ちょ、えっ、出なきゃダメ⋯⋯だよなそうだよな!?)
数秒間あたふたした後に深呼吸をし、心を落ち着かせてから意を決して通話ボタンを押した。
「も、もしもし⋯⋯」
『もしもし、神原夏愛です。咲希くんの携帯で合ってますか?』
スマホ越しとはいえ耳元で聞こえた柔らかい声に一瞬どきりとしつつ、通話自体に慣れていない咲希は緊張で声が裏返りそうになるのを必死に抑えながら何とか返答する。
「は、はい、合ってます、河館です⋯⋯」
『よかった、ちゃんと出てくれましたね。今、お時間大丈夫ですか?』
「は、はい、大丈夫です、いつも暇なので⋯⋯」
現実ならもう少しマシなはずなのに電話だと発動してしまう謎の距離感とコミュ障にもどかしさを感じていると、電話の向こうから小さな笑い声が聞こえて来た。
『もしかして咲希くん、緊張してますか?口調も声もいつもよりも硬くなってますけど』
「うっ⋯⋯はい、緊張してます⋯⋯。その、あんまり慣れてなくて⋯⋯すみません」
『どうして謝るんですか。大学生ならこうやって女の子と通話するのも普通のことですよ。みんなやってます』
「えっ!?普通、なんですか⋯⋯?」
一部の人を除き、同年代の友人や知り合いとの通話というものをほとんどした事の無い咲希にとって、夏愛の言い放ったその言葉はあまりにも衝撃的だった。
同じ空間で講義を受けていたあの人も、食堂でご飯を食べていたあの人も、皆普通にやっていただなんて、微塵も知らなかった。
『はい、普通です。だから咲希くんもそんなに難しく考えないで、いつも通りにしていればいいんですよ』
「いつも通りに⋯⋯。よし」
夏愛がそう言うなら、という事でスイッチを切り替えてみる。すぐに体感出来る違いは無いが、おそらくこれで大丈夫なはずだ。
「えっと、今日はどんな用件で⋯⋯?」
『確認です。この前ショッピングモールで買ったグッズ──多分段ボールに入って送られてると思うんですけど、ちゃんと届きましたか?』
「ああ、はい、届きましたよ。中身も全部揃ってました」
『え、全部⋯⋯って、あの時買ったもの全部記憶してるんですか?』
「まあ、何となくは⋯⋯」
『す、すごいですね⋯⋯十個は余裕で超えてたはずなんですけど⋯⋯』
英単語や歴史と違って明確な形のある物体ならそうそう忘れはしないはずだが、夏愛からするとどうやら凄いことに見えるらしい。
「あ、そうだ。それで、一個だけ記憶に無いものが入ってて⋯⋯紺色のエプロンなんですけど」
もう一度エプロンを手に取ってそう尋ねてみるが、夏愛は知っていたらしく特に驚くことも無く『あ、それは⋯⋯』と置いてから告げた。
『私からのプレゼントです』
「プレゼント?」
『咲希くん、料理する時にエプロン着けてませんよね。お菓子作りの時はそこまで気にならなかったんですけど、この前炒飯を作ってる時に油が飛んでびっくりしてたのを見てしまったので⋯⋯それで』
「あー⋯⋯見られてたんですね、あれ」
夏愛に初めて手料理を振舞ったあの日、実は裏でフライパンの水気が飛び切っていない状態で油を入れてしまい弾けた油が服に飛んで来るという事件が起きていたのだ。
その時夏愛はスマホを弄っていたため気付いていないと思っていたのだが、どうやらばっちり見られていたらしい。
『流石に手作りするのは自信がなくて市販のものなんですけど、一応サイズは合うはずなので。⋯⋯あ、でも、いらなかったら遠慮なく捨ててください。私の勝手な想像で選んだ上に押し付けただけなので⋯⋯』
不安げに段々小さくなっていく声に、逆に呆れてため息を零してしまう。
「いや、捨てる訳ないじゃないですか。僕のためにあんなに良いものを選んでくれたのに⋯⋯。デザインも凄く気に入ったので大切に使わせてもらいますよ。素敵な贈り物をありがとうございます」
『っ⋯⋯!よかった⋯⋯』
安堵したのか一気に明るくなった声に、姿が見えなくても声だけで意外と感情は伝わるものなんだなと咲希は妙な感慨を抱いた。
それから少しだけクッションについて説明を受けた後、ふと夏愛が切り出した。
『そういえば、今週末に開催されるあれ⋯⋯私は参加しようと思ってるんですけど、咲希くんは参加するんですか?』
「あぁ⋯⋯えっと、一応参加はするんですけどちょっと他と動きが違って⋯⋯」
『違う、とは⋯⋯?』
正直言うか迷ったが、隠す意味も無いので夏愛には伝えておくことにした。
「どちらかというと運営側──というか救護なので動きが変則的になるんですよね。連絡受けたらその場所に行かないといけないので」
『⋯⋯そうですか⋯⋯』
折角さっきまで明るかったのに、完全にしょんぼりとしてしまった声に若干胸が痛くなる。
(別に一緒に歩く訳でも無いだろうに)
仮に咲希がただの参加者であったとしても一人で歩くつもりでいた。理由は単純、他に友人がいないからだ。
『──なら、お弁当⋯⋯持って行ってもいいですか?』
何と声を掛けるべきか考えていた咲希は、その言葉に目を瞬かせる。
「え?それはまぁ、距離的に普通はお昼挟むし持って行けば良いん」
『そっ、そうじゃなくて!その⋯⋯朝、咲希くんにお弁当を⋯⋯届けても、いいですか⋯⋯?』
「!?」
予想の斜め上から飛んで来た提案に耳を疑ったが、『いいですか⋯⋯?』と繰り返されて聞き間違いではないと理解する。
どうして夏愛がそんなことを言うのか分からず困惑してしまうが、それもしょうがないだろう。だって、お弁当を渡すということはつまり、手料理を渡すということなのだから。
先に手料理を振舞った咲希が言うのもおかしな話だが、異性の手料理はそれだけでとてつもない特別な意味を持っているように思えてしまうのだ。
異性、それも夏愛ほどの美少女から渡される手作りお弁当なんて咲希には到底手を出せそうにないので、悲しいがここは断ることにしよう。
「えと、僕の分まで作って負担にならないのであれば⋯⋯お願い、します」
言ってから気付いた。何かが違うと。
(あれーーーーーー????)
頭の中では断ろうとしていたのに、口から出たのは何故かお願いの言葉だった。
内心やっちまったと思って震えていたが、聞こえたのはふふ、という優しい声。
『わかりました。あまりかさばると悪いので少し簡単なものになりますが、その分腕によりをかけて作るので楽しみにしててくださいね、咲希くん♪』
随分可愛らしいその声音に、咲希は思わず頭を抱えた。




