54.甘い誘惑、その裏に
「では、ここに頭を乗せる形で横になってください」
「⋯⋯⋯⋯、」
ソファーの上で自らの膝をぽんぽんと叩きながらそう言った夏愛に、咲希は薄っぺらい笑顔を貼り付けたままソファーから少し離れた位置で立ち尽くしていた。
ここは咲希の自宅のリビングだ。
咲希の様子から急を要すると判断したらしい夏愛の提案により徒歩ではなくタクシーを使って帰宅する事になったのだが、到着するなり彼女は「準備があるので三十分ほど待っていただけますか」とだけ言い残して帰宅。
若干見せたくないものが散乱していた部屋の片付けやら何やらをしつつ咲希が言われた通り待っていると、約束通り三十分後に戻って来た夏愛を迎え入れる事になったのだ。
それから程なくして、状況は今に至る。
「いや⋯⋯ここにって言われても⋯⋯」
ちらりと彼女の方へ視線を向ける。目に入るのはショートパンツから伸びた細いおみ足を包む薄い黒タイツ。もはや見慣れてしまった例のスタイル──のはずなのだが、何かが違う。
(⋯⋯なんか前より透けてるんですけどほぼ生脚なんですけどっ!!?)
タイツのデニールが⋯⋯低くなっていた。
以前見た時は確かうっすらと透ける程度でほとんど地肌は見えていなかったはずなのだが、今回は遠目からでも白い肌の色が分かるくらいには薄いものになっている。
防寒や保温を目的に着用する事が多いタイツを季節や気温に合わせて調節するのは当然なのだが、それにしても大胆過ぎないだろうか。もはやタイツと言うよりもストッキングと言った方が正しいかもしれない。
──ただでさえ刺激の強かったものが更に過激になった。言葉にすれば単純だが、それを女性経験の乏しい一般男子大学生が目の当たりにした場合何が起きるのか。
答えは単純。
「⋯⋯ぷしゅう⋯⋯」
「あっ⋯⋯」
立ったまま頭から湯気を出して機能停止した咲希を前に「この光景、なんだか既視感が⋯⋯」と零した夏愛はまるで織り込み済みだと言わんばかりに小さく息を吐いてから眉を下げた。
「⋯⋯私の膝だと嫌ですか?不満ですか?」
その瞬間、ノータイムで咲希の瞳に光が戻る。
「はっ!?い、いやっ!⋯⋯っじゃなくて嫌という訳じゃなくてっ!ただちょっと問題があるというか!」
「問題⋯⋯?ああ、別に心配しなくても膝枕くらいで折れたりしませんよ。そこまでやわじゃありませんから」
「そうじゃなくて、いやそれもありますけど!何ナチュラルに膝枕しようとしてるんですかっ!僕をどうするつもりですか!?」
「どうするも何も、膝枕以外に言いようがないんですけど⋯⋯。あ、もしかして咲希くん、女の子に膝枕されたことないんですか?」
「う"っ⋯⋯!」
口許に手を当て小悪魔っぽい笑みを浮かべながら放たれたその言葉が深く心に突き刺さり、大ダメージを食らった咲希はぷるぷると震えながら己の内側から湧き出るくらーいものをぶちまけた。
「そっそそそうですよ無いですよそんな経験今までそういうのしてくれる人いなかったのでべべ別に緊張してるとかそういうのではなくてただ僕なんかが女性の膝枕なんてそんな高貴なものを受け入れてしまっていいのか分からないというかこのまま流れに乗ったら歯止めが利かなくなってしまいそうというかああいや不埒なことするつもりは一切無いんですけど間違いなく動けなくなりそうなので迷って⋯⋯っじゃなくてこういう時ってどう返答するのが正解なんですかっ!!?」
一息で全て言い切った咲希が肩を上下させていると、正面から小さく笑い声が聞こえた。
「⋯⋯私はただ、咲希くんとお話がしたいだけですよ。⋯⋯そこまで言うなら膝じゃなくてもいいのでここ、隣座ってください」
夏愛はそう言って右手で自身の横の座面を軽く叩いた。
(もうこれは⋯⋯お互い譲歩の限界だな)
彼女がここまで引き下がった以上は咲希もそれに追随するべきだろう。
駄々をこねる訳にも行かず咲希はゆっくりとした歩みでソファまで近寄ると指定された夏愛の隣の席に慎重に腰を下ろした。
視線を合わせないように顔を正面に固定していたのだが、しかしその横顔にジト目が向けられる。
「若干遠くないですか?」
「⋯⋯⋯⋯、」
その指摘には無言を返す。
咲希だって分かっているのだ。譲歩譲歩と言っておきながら自分は彼女との間に一人分ほど距離を空けてソファーに座ったという事は。
「(⋯⋯まぁむしろ都合がいいので別にいいですけど)」
「何て⋯⋯?」
「あっいえ、独り言なのでお気になさらず」
「⋯⋯⋯⋯」
声が小さくて上手く聞き取れなかったのだが独り言なら聞き返すのも野暮だろう。
「さて⋯⋯何から話しましょうか」
微妙に居心地悪そうにしつつも咲希が動きを止めたのを確認してから夏愛はそう切り出した。
「とりあえず時系列順に行きますね。まずは⋯⋯報告とお礼から。数日前、大学の食堂で昼食を食べていた私のところに見覚えのある二人組の男性が訪ねて来ました」
「⋯⋯それってもしかして」
「はい。田中さんと渡辺さんです。何だろうと思ったら、その二人に突然その場で『四月末のあの時、手荒い事をしてしまって悪かった』と謝罪されたんです。一応あの時も結果的に被害は無かったので私はあんまり気にしてなかったんですけど、多くの人が見てる前でしっかり頭を下げられて⋯⋯人が変わったみたいでちょっとびっくりしちゃいました」
「最初はあんなに怖かったのに」と苦笑を浮かべながら呟いた夏愛に見た感じおかしな様子は無い。あの二人が一ヶ月以上経っても謝罪のひとつもしていなかったというのは若干ムカつくが、おそらく夏愛の言葉に嘘は無い。どうやら二人は本当に謝罪したようだ。
「ちゃんと謝って貰えたのなら良かった⋯⋯」
特に何も考えずにそう零すと、ふと隣で夏愛の小さな口が動いた。
「⋯⋯咲希くんの根回しですよね」
「ッ」
一瞬だけぴくりと動いた頬の筋肉を全力で抑え込み、精一杯のポーカーフェイスを貼り付ける。
「なんのことですかね⋯⋯?」
「⋯⋯⋯⋯、いえ、やっぱり何でもないです。とにかく、ありがとうございました。⋯⋯これだけはどうしても言いたかったので」
その言葉の通り、それ以上の追求は一切無かった。
彼女に気付かれないようにほっと息を吐きつつ、唇を引き結ぶ。
咲希自身、裏で動いた事を誇るつもりも隠すつもりも無いが、田中と遭遇したあの件に関しては本当に偶然だった。
おそらく彼女は全部知った上で言っているのだろうが、あえて否定も肯定もせずに気持ちだけ受け取っておく。
(⋯⋯裏方も思い通りには行かないか)
もう一度、今度は心の中でため息をつく。
それと同時に咲希は場の空気が変わったのを肌で感じ取った。
恐る恐る隣に視線を向けると、いつの間にか表情を消してこちらをじっと見つめる少女の白百合色が目に映る。
「⋯⋯本題、行ってもいいですか?」
「⋯⋯⋯⋯。いつでもどうぞ」
場所まで変えて二人きりになって。何を訊かれるのかなんて考えなくても分かっていた。
だからこそ、受ける。真正面からその質問を。
「咲希くんが言わずに隠した右手のもう半分は⋯⋯一体、何ですか?」




