49.新鮮なお出かけ
六月にもなれば流石に気温も上がってくる訳で、長袖を着ていると少し汗ばむくらいの今日は春という名の長い冬を遂に乗り越えたのだと実感するには充分過ぎる良い休日だった。
今年は記録的に季節の移ろいが遅いとかで例年より一ヶ月近く遅れてやって来た初夏の太陽の眩しい光に右手をかざした咲希はそっと目を細めた。
視界に映るのは雲ひとつ無い澄んだ青空と、太陽を遮る右手の人差し指に巻かれた真っ白な包帯。
「⋯⋯気分転換には持ってこいか」
咲希のスマホに『週末、買い物に付き合って頂けませんか?』というメッセージが届いたのは二日前。送り主は先日名前で呼び合うようになったばかりの夏愛だ。
こちらの気分的な問題だけで拒否するのも悪い気がしたため若干重い腰を上げてこうして出て来た訳なのだが、待ち合わせ場所である駅が見えて来た辺りでとある事に気付き少しだけ歩くペースを落とした。
(待ち合わせ三十分前⋯⋯早過ぎ、いや、遅れるよりはいいか)
四月末にも夏愛と待ち合わせをする機会があったのだが、その時は咲希が遅れたせいで彼女は見知らぬ男性に声を掛けられ怖い思いをさせてしまった。
同じ轍は踏まないように今回はかなり早目に来たつもりだったのだが、約束の場所には先客がいた。
「⋯⋯既視感」
思わずそんな言葉が口から漏れる。
駅の出口から少し離れた壁の前に立っていたのは長袖ブラウスの上にカーディガンとコートを羽織りロングスカートを着用した清楚感溢れる黒髪の少女だったのだが、何やら見覚えのある黒キャップと不織布マスクを着けている。
「一体いつから待ってるんですか」
「⋯⋯?」
見間違えるはずが無いと思いつつ咲希が小さく声を掛けると、少女は手元のスマホから顔を上げて──その場で固まった。
白百合色の瞳がこちらの全身を見るように上下に往復した後、少女は口を開いた。
「さ、咲希くん⋯⋯?」
「はい。⋯⋯その格好は?」
「あっ!えっと⋯⋯」
そう尋ねると少女はわたわたとスマホを仕舞うとマスクを顎まで下げて素顔を見せた。
(──!)
そこでふと違和感を覚えたのは、見慣れているはずの夏愛の何かがいつもと違うように感じたからだろう。
残念ながらすぐに夏愛はマスクを元に戻してしまったため違和感の正体に気付く事は出来なかったのだが、確かな違和感だけが胸に残された。
「すみません、一応変装というか、無用なトラブルを避けるために。どうしても一人でいると目立ってしまうみたいなので⋯⋯」
「あぁ、なるほど⋯⋯」
夏愛はその美貌や醸し出す雰囲気によって知らない人に普段から声を掛けられる事が多いと言っていたし、咲希もそれは身をもって実感している。一見不審に思えるこの格好も自己防衛のための手段という事なのだろう。
ならこちらが口を出せるものでは無いと納得していると、ふと夏愛の様子がおかしい事に気づく。
「顔、赤くなってますけど大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫ですっ!」
「いや、大丈夫って言っても⋯⋯」
話している間ずっと目が右往左往しているし、マスクよ端から見える頬も髪から覗く耳も真っ赤に染まっているように見える。
どうしたものかと頬を掻いていると、意を決したように彼女がこちらの目を見た⋯⋯と思ったら、すぐに視線が逸れていく。
「⋯⋯もしかして僕、どこか変ですかね?」
本格的に意味が分からなくなる直前、もしかしたら自分の見た目におかしい部分があるのではないかという可能性に思い至った咲希はそう呟いて自らの体に視線を落とす。
ファッションには疎い咲希だが、女性である夏愛と一緒に人目に触れる以上最低限の礼儀は必要だろうという事で自分なりにネットで調べてみたのだ。
選んだのは無地の半袖Tシャツとジーパンというシンプルな物。一応上に黒の半袖パーカー(クローゼットからの発掘品)を着ているため少なくともダサくは見えないと思っていたのだが、その評価も現役女子大生から見るとまた変わって来るのかもしれない。
内心不安になっていたのだが、夏愛は慌てたようにぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違うんです、そのっ、咲希くんがあまりにも眩し過ぎて直視できないというか⋯⋯い、いえ!頼んだのは私なんですけどね!?」
「⋯⋯あー、」
顔を覆った両手の隙間から見えるぐるぐると回った目から彼女の焦り具合は充分伝わって来たのだが、発言の中にあった一言でようやく何を指しているのかを理解した。
実は今日の咲希は服装の他に普段と違う部分がもうひとつある。
それは、眼鏡では無くコンタクトレンズを着けているという点。
外でこの姿になるのはゴールデンウィークのバイトの時以来になるのだが、もちろん夏愛と出掛けるというので浮かれた訳では無く、実際の所はどちらかと言うとこちらの我儘を受け入れて貰った形になる。
前回夏愛と出掛けた時は特に何の対策もしなかったため証拠の無い噂という形ではあったが大学で軽い騒ぎとなってしまった。
平凡な生活をしたい咲希はそれを理由に夏愛からのお誘いを断ろうとしたのだが、どうしても来て欲しいという事で提案されたのが変装作戦。
当初咲希は普通に帽子とマスクで行くつもりだったのだが、夏愛の強い希望により眼鏡を外して素顔を見せる運びとなった。
この程度で変わるのかと不安ではあったが親友である傍武も「大丈夫だと思うで別人じゃけん」と言っていたのでおそらく大丈夫なのだろう。
(⋯⋯とは言ったものの、どう見ても大丈夫じゃないんだよなぁ⋯⋯)
目の前の夏愛は何処か挙動不審になっているが、その原因が自分であるなら解決する方法は単純だ。
「やっばりいつも通りに戻しますね。元々こちらの我儘なので」
「えっ」
そう言って眼鏡ケースを取り出すためにバッグを下ろそうとした咲希の手が一回り小さい華奢な手によって止められる。
驚いてそちらを見やると伏せられた瞳が窺うようにこちらを向く。
「い、いいです、そのまま──⋯⋯いえ、そのままが⋯⋯いい、です」
両手でこちらの左手を掴んだまま上目遣いで見上げられるとどうしても硬直してしまう。
「それは、どういう⋯⋯」
「さ、咲希くんの素顔、かっこ⋯⋯っじゃなくて、⋯⋯ふ、普段見れないので!このまま見せてください!」
「⋯⋯⋯⋯、」
その言葉にゆっくりと顔を逸らした咲希は夏愛に気付かれないように息を吐く。
(⋯⋯そうだよな、特別な関係でもないただの男の顔なんて好きで見る訳ないよな)
夏愛が何を言おうとして言い直したのかは分からないが、世の中の男子が期待するような事では無いのは確かだろう。勝手な偏見かもしれないがそもそも夏愛はそういうキャラじゃない。
なら彼女は一体、何を言おうとしたのだろうか。
「おわ、わっ!」
考えている最中に突然腕を引っ張られてバランスを崩し反射的に一歩足を踏み出した咲希が前で立ち止まった夏愛に視線を向けると、肩越しに振り返った彼女は目を逸らしながら呟いた。
「さっきのことはもう忘れてもらって、行きますよ。早くしないと時間無くなっちゃいますから」
「忘れて⋯⋯って」
「⋯⋯行きますよ」
有無を言わせずこちらの左手を握った夏愛はその手を引くようにして歩き始めたため、咲希もそれに合わせて足を動かす。
「⋯⋯⋯⋯」
結局マスクのせいで夏愛の表情は上手く読み取る事が出来なかった。
ひらひらと舞うスカートの裾を眺めていると前にもこうやって夏愛の後ろを着いて行った事を思い出して不思議な気持ちになる。
(一ヶ月と少しか⋯⋯早いもんだな)
夏愛と出会った四月末からこんなに関係が続くとは思っていなかった。元々咲希は最初から関わるつもりなんて無かったのだが、いつの間にかその決意もなあなあになってしまっている。
小さな思い出に浸る一方で、咲希の思考の大半は今も別の事柄に割かれていた。
(結局あの時⋯⋯彼女は一体、何を言おうとして──自分は一体、何を期待したんだろうか)
やけに頭の隅に引っかかるその疑問に、咲希は心の中で首を傾げた。




