46.失った過去
髪を下ろしたままの望冬はソファーの上で両脚を抱え込むようにして座っていた。
壁に掛けられた時計に視線を向けると針は5時半を指していた。この薄暗さと静まり返った空気は夕方ではなく早朝のものであるため咲希が意識を失ってから九時間近くが経過しているのだと分かる。
「ここが望冬の自宅なのか?」
そう尋ねると無言で頷かれる。部屋の内装や装飾を見て察してはいたが予想は間違っていなかったようだ。
彼女が前に住んでいたマンションはもっと咲希の家の近くにあったと記憶しているが、場所を変えたのはおそらく単純にこのアパートの方が望冬の通う大学に近いからだろう。
一応次が本題なのだが、最初から望みは薄いと思っていた。
「どうしてあんなことをしたんだ?」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯言う気は無い、か」
左手で後頭部をわしゃわしゃと掻きながらどうするかと頭を悩ませる。
(あんまりこういうの好きじゃないんだよな⋯⋯)
事情聴取が目的とはいえ女性に対して追い詰めるような問い方はしたくないというのが本心だ。
誘拐されていた、と表現するのも今では疑問だが、一日振りに見た夏愛の服装は看病をしに来てくれた時のままでありタイツにも特に破れた痕跡は見つからなかった。おそらくだがあの写真は別のものを使って撮影したのだろう。
望冬が他人や他人の物を傷付けるとは思えないし結果的に誰も傷付いていないのだが、強いて言うなら当の本人だ。
ソファーの上で小さくなって見るからに辛そうな姿と雰囲気を見せ付けられると申し訳なさで土下座したくなってくる。
(⋯⋯土下座⋯⋯⋯?⋯⋯⋯⋯、そうだ)
そこでふと昔の事を思い出した咲希は望冬にとある提案をすると、彼女が頷いて了承したのを確認してからキッチンに移動する。
手を洗おうとして右手の包帯があるのを思い出したが片手でも何とかなるだろうと気にせず準備を進めていく。
本音は望冬が話しやすい空気を作るためだが、調理の間無言の時間が続くのが耐えられないという建前を作りながら咲希はゆっくりと口を開いた。
「今から僕が呟くのは独り言だから、騒音だと思って全部無視してくれて構わない」
距離的に聞こえてないはずは無いのだが、望冬は微動だにしない。どのみち独り言なのだからそんなことは関係ないのだが。
(⋯⋯これはきっと、望冬も知らない僕の過去)
望冬と離れ離れになってから起こったとある大きな出来事は、今の咲希の人格が形成される要因のひとつでもある。
ふぅ、と息を吐いてから心を落ち着け、それを口にする。
「4年前⋯⋯高一になった年の夏、母さんが倒れて緊急入院することになった」
ぴく、と望冬の肩が動いたように見えたが構わず続ける。
「検査の結果見つかったのは肺がん。割と前から兆候はあったらしいけど、家族を心配させないように隠してたって本人には言われた。⋯⋯うちの家系に喫煙者はいないし、定期的に健康診断も受けてたから可能性は低い方だと思ってたんだけどな」
左手で卵を割ってかき混ぜる。混ざり合う白身と黄身はまるでぐちゃぐちゃになった咲希の心の中を表しているかのようで、不思議と口角が上がってしまう。
「1年くらい入退院を繰り返しながら色んな治療法を試して、試して、試して⋯⋯。結局、完治しないまま病状だけが進行していった。⋯⋯──丁度その頃かな、父親が居なくなったのは」
「⋯⋯⋯⋯」
ちらりとこちらを見た望冬と目が合い曖昧な笑みを浮かべるが、咲希の中ではとっくの昔に割り切った事だ。いくら幼なじみとはいえ他人である望冬が気にすることではないと目で訴える。
「いつも通りの朝、家を出る時にあいつは『母さんを頼む』って言ったんだ。その時は気にも止めなくて、今まではそんな事言わなかったから珍しいな、くらいにしか思わなかった。⋯⋯けど、その日を最後に音信不通、部屋の荷物も無くなってたから紛れもない蒸発だった」
同時期に母親名義の口座にかなりの額が振り込まれていたと知ったのはそれから数週間が経った後だった。
それからずっと、咲希はほとんど一人暮らしを続けている。
これは言う必要の無い一言だと分かっていながら口をついて出てしまった。
「⋯⋯結局さ、捨てられたんだよ。僕と母さんは」
その瞬間ガタンという物音が襖の方から聴こえて手が止まるが、別に今更いいかと思い視線を手元に落として作業を再開する。
「まぁ⋯⋯何と言うか、だから⋯⋯この前望冬に言ったことはあながち嘘じゃないんだ。僕が身の丈に合わないような今の大学に通ってるのも母さんの入院してる病院に一番近かったからっていうのが理由だし⋯⋯そのために勉強も必死に頑張った」
中学時代は赤点ばかり、学年ワースト一桁を取り続ける落ちこぼれだったあの頃の咲希の事は望冬もよく知っているはずだ。それでも今の大学に行くために高校からという圧倒的に出遅れた状態で努力出来たのは母親の強い願いがあったからだろう。
話そうと思えばいくらでも話せるがこれ以上はもう必要ないと判断し「一応、僕が変わった理由はこれくらいかな」と締めくくる。
咲希が変わったのには本当はもう一つ別の要因があるのだが、これはまた個人的な話であるため今は触れなくていいだろう。
やがて完成したものをカップについだ咲希は相変わらず反応が無い望冬に後ろから声を掛ける。
「ほら、出来た」
カップとスプーンをソファー前のテーブルに置くと、顔を上げてそれを捉えたはちみつ色の瞳がまん丸になる。
「⋯⋯⋯⋯これ⋯⋯⋯⋯たまごスープ⋯⋯?」
「そ。一応料理の腕には自信あるし、レシピもそのままだから味は保証する」
「⋯⋯⋯⋯」
特に何も言うことなくスプーンを手に取り一杯だけ掬って口に運んだ望冬はぴたりと動きを止めた。
その反応にさっと背筋が冷たくなる。嫌な予感がした咲希はあたふたと慌てふためく。
「あ、あれ⋯⋯?もしかして不味かった⋯⋯!?」
「ううん、違うの、そうじゃなくて⋯⋯⋯⋯お母さんのと⋯⋯同じ味がするなって⋯⋯」
危惧していた事では無いと分かりほっと一息つきつつ、どうして?という視線を向けられた咲希はそっと笑顔を浮かべると望冬から間を開けてソファーに腰を下ろした。
「昔⋯⋯僕が望冬の家に遊びに行った時におばさんが出してくれたのを思い出してさ。嬉しい事があった時や悲しい事があった時に作って飲むと心も体もあったかくなるからって、得意料理って言ってた」
「まぁこの辺はそっちの方が詳しいか」と笑い掛けると望冬は微妙な表情を見せる。
「そうじゃなくて⋯⋯いつの間に覚えたのよ」
ようやくしっかりとこちらの目を見るようになった彼女の言葉に目をぱちくりさせる。
「まぁ、お互い十年以上の長い付き合いだしな。実は望冬の知らない所でお料理教室してくれてたって言ったらどうする?」
河館家は両親が共働きだったため咲希が幼い頃から一人の時間がままあった。咲希の母親と望冬の母親は知り合いだったらしく咲希の事を心配に思った望冬母に八代家で面倒を見てもらったことがあるのだが、これはその時に仕込まれたものだ。
確かに望冬の居ない時に限って教えてくれていたなと思いつつ彼女を見ると、何故か口を逆三角にしていた。
「どうするも何もほんとに知らないんだけど。⋯⋯⋯⋯はぁ、料理教室か⋯⋯そうだったのね」
「信じるんだな」
「納得したというか⋯⋯こんな完璧に再現されたら嫌でも信じるわよ」
スープの入ったカップを両手で包み込むようにして抱える姿につい笑ってしまう。
「⋯⋯何がおかしいのよ」
じろりと向けられた視線に慌てて弁明する。
「いや、やっぱり望冬は望冬だなって」
「どういう意味?」
「やっぱり根が素直なのは変わってないなと思うと嬉しくなっ」
「褒めてるの?馬鹿にしてるの?」
「⋯⋯ホメテマス」
「あっそ。でも残念、完璧ってのはお世辞だから。どう考えてもお母さんの作ったスープの方が何倍も美味しいわ」
「ひええ辛口。⋯⋯だよなぁ、流石に本家には勝てないよ」
咲希が肩を竦めると望冬が小さく笑った。それが可笑しくてつい笑ってしまうと、今度はお互いが同時に吹き出した。
そうして氷のように冷え切っていた望冬の表情も大分柔らかくなって来た頃、ついに咲希は切り出した。
「望冬はさ、⋯⋯いや、間違ってたら否定してほしいんだけど⋯⋯。もしかして最初から⋯⋯振られるつもり、だった⋯⋯?」




