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お嬢はやけにぐいぐい来る  作者: 狐白雪
第三章 失った過去、守りたい今
45/79

45.邂逅、そして⋯⋯(2)

 一瞬、思考が停止した。


「⋯⋯こい⋯⋯びと⋯⋯?」


 何故望冬(みふゆ)がそんなことを言うのか。無関係の夏愛(なつめ)を巻き込みこんなことまでやっておきながら要求が恋人になることだなんて意味が分からない。


 思考が(まと)まらずその場で固まった咲希(さき)に、望冬は小さく息を吐いて再び笑みを浮かべる。


「まぁ、これに関してはあなたがどう返答するのかは関係ないんだけどね。⋯⋯どのみちこれで全部お終いだし」


 咲希が聞き返すよりも早く目の前でコートのジッパーが下げられ、薄いシャツに覆われた豊かなそれが露わになる。


 そこでようやく、望冬がわざわざ夜に人気(ひとけ)の無いこの場所を指定した理由に思い至った。


「ッ!?や、やめっ、」


「心配しなくていいよ。苦しいのは一瞬だけ。⋯⋯すぐに楽になるから」


 そう囁きながらこちらの頬に手を伸ばしてくる望冬に抵抗しようと右手を持ち上げるが、少女ひとりを押しのける力すら入らない。


「あ、ツインテよりストレートの方が好きなんだっけ?これは今まで知らなかったなぁ」


 ツインテールを留めていたゴムが外され、はらりと流れたクリーム色の髪は意外と長いらしく咲希のお腹の辺りに落ちる。


 どうすることも出来ない事態に咲希の心の中で『諦め』の二文字が少しずつ大きくなっていく。


 要求を飲めば夏愛は解放する、と望冬は言っていた。ならば余計な抵抗なんてせずに素直に受け入れてしまえばいいのではないか。


「ほら⋯⋯目、閉じて?」


 温かい吐息が感じられる程の距離で僅かに湿ったはちみつ色の瞳がこちらを見つめている。


 昔から望冬は約束をしっかり守る人だった。咲希が少し我慢するだけでまず間違いなく夏愛は助かる。咲希だって死ぬ訳じゃない。


(⋯⋯もう⋯⋯いいのかな⋯⋯)


 抵抗するのを()めてゆっくりと力を抜くと、気力だけで抗っていた眠気が自然に瞼を閉じていく。


 くす、という小さな笑い声に、今度こそ覚悟を決めた──その瞬間だった。


河館(かわだて)さんっ』


「ッ⋯⋯!?」


 脳裏に浮かんだ笑顔と共に頭の中で響いたその声に、咲希の中の何かがプツンと途切れたような感覚がした。


 直後に誰かの小さな悲鳴が上がる。


「⋯⋯⋯⋯」


 咲希の上に乗ったまま自らの口許(くちもと)を両手で押さえて固まっていた望冬を半ば突き飛ばすように退()かせた咲希は、右手の先からぽたぽたと何かの液体を滴らせながらゆらりと立ち上がる。


「⋯⋯っあ、あんた⋯⋯なんで⋯⋯?何してるのよっ!!」


 数秒後に我に返り慌てて近寄ろうとして来た望冬を左手で制止する。


「⋯⋯これしか⋯⋯思い浮かばなかった」


 ぽつりと呟かれた言葉に彼女は息を飲む。


 望冬に迫られていた時身体は思うように動かせず、辛うじて動く腕も満足に力が入らなかった。しかし腕が動くのならば、と一つだけ方法が浮かんだのだ。


 その方法は常人が聞けばまず間違いなく正気を疑うだろう。どう考えてもリスクに対してのリターンが余りにも少なすぎるのだから。


 だが、それを分かっていて尚咲希の身体は躊躇(ためら)わなかった。


 あの瞬間反射的に、無意識的に、自らの右手の人差し指を思いっきり噛んだのだ。


 ──アドレナリンによる興奮状態と鎮痛効果。人は交通事故等により何かしらの怪我をした時、直後は何ともないのに数分〜数時間後になって痛みを感じるようになることがあるが、これは危険な状況で動けなくなるのを防ぐためだ、というのは幼少期に両親に教えられたことだ。


 意図的にその状態を引き起こそうとしたのは事実だが、あの場面を切り抜けられたのは単に強烈な痛みで意識が鮮明になったから、というだけだろう。


 傷口を見せないように右手を背中に隠しつつゆっくりと息を吐きながら距離を取り鋭い視線を向ける。 


「⋯⋯神原(みはら)さんは⋯⋯どこだ⋯⋯?」


 咲希の一段と低い声にびくりと身体を(すく)ませた望冬はふるふると首を振った後、泣きそうな顔で川の対岸──直線距離で数百m離れた場所──に見える建物を指差した。


「あ、あそこのアパート⋯⋯二階の、一番奥⋯⋯」


 咲希の予想外の行動が怖かったのか、はたまた告白を断られたせいか、言い終わると同時にぽろぽろと涙を流しだした望冬の横をそのまま通り抜ける。


「⋯⋯ごめん」


 すれ違いざまにせめてもの謝罪を置いていく。


 その手段はどうであれ自分を好いてくれていた女性を泣かせたという事実にとてつもない罪悪感に苛まれるが、今はもう彼女にどんな顔を向ければいいのかが分からなくなっていた。

 


 土手を登って先程までいた河川敷に掛かった橋を渡り、対岸に降り立つとアパートまでの道を突き進む。


 まだ鎮痛効果が続いているらしく傷付けた部分に痛みは感じないが、代わりに右手全体が熱を持ったようにじんじんと火照っているような気がする。


 見ると、未だに少しだけ血が流れていた。


(⋯⋯流石にやり過ぎたか)


 加減が分からずかなり深い傷になってしまっているようだが生憎今は物品の入ったバッグが無い。唯一持っていたハンカチを指に巻き付け軽く縛って即席の包帯とすると、やがて件のアパートが見えてきた。


 アパートは想像よりも小さい二階建てで、それぞれの階に二つずつ部屋がある。


 望冬が言っていた二階の一番奥の部屋には横にある階段を登ればすぐに辿り着けるようだ。


 彼女の口振りからしておそらく本当に夏愛は無事だとは思うのだが、誘拐されて連絡も付かなかったということは軟禁もしくは監禁されている可能性が高い。


 一刻も早く解放するためほとんど最後の力を振り絞って階段を駆け上がる。


 しかしその焦りが仇となったのか、登り切った瞬間視界がブレると同時にふらりと身体が傾いだ。


 あ、と声が漏れる。


 当然後ろは階段。踏ん張る地面は無い。


(⋯⋯これは流石に⋯⋯まずいかも)


 ここに来て最悪のパターンを引き当てたのはやはり運命なのだろうか。自分が今までしてきた事への報いなのだろうか。


 無意識に伸ばした手は、空を切る。


 ⋯⋯その、はずだった。


「河館さんっ⋯⋯!!」


 奥ではなく手前の扉が開いたと思うと中から出て来た誰かに腕を掴まれ、ぐんと一気に引き寄せられる。


 視界に捉えたのは宙に舞った見慣れた長い黒髪。


 抱き止められるような形で前のめりに倒れ込んだ咲希はそこでついに意識を失った。





「⋯⋯⋯⋯」


 知らない天井だ、とまず最初に思った。


 薄暗いどこかの部屋の中、うっすらと瞼を持ち上げるとぼやけた視界の端にこちらを覗き込む誰かの姿が映った。


「⋯⋯河館さん⋯⋯?分かりますか?河館さん!」


 ぺちぺちと頬を叩きながらこちらの名前を呼ぶ少女の方を向いてゆっくりと言葉を零す。


「神⋯⋯原、さん⋯⋯?」


「⋯⋯!良かった!気が付いた⋯⋯っ!」


「え、うわっ、!?」


 咲希が身体を起こすと同時に夏愛が咲希のお腹の辺りに飛び付いて来る。


「良かったっ⋯⋯ほんとに⋯⋯っ」


「み、神原さん、怪我とかは──⋯⋯」


 一番心配だったことを尋ねた咲希だったが、背中に回した細い腕をぎゅっと締めて顔を埋めたまま小さな嗚咽を漏らす夏愛の姿に口を閉ざす。


「⋯⋯⋯⋯」


 馴れ馴れし過ぎるとは思いながらも華奢な背中に恐る恐る左手を当てぽんぽんと慰める。


(心配⋯⋯してくれてたのか⋯⋯)


 咲希が夏愛を心配していたのと同じように、夏愛も咲希のことを気にかけてくれていたのだろうか。


 たった一日ぶりの再会のはずなのにもう何年も会っていなかったかのように縋り着いてくる彼女に困惑しつつも無事だということが分かり心の中で安堵する。


 どうやら階段から転落しそうになった所を助けてくれたのは夏愛らしいが、彼女の方には見た感じ目立った傷などは無いことから特に何もしていないという望冬の言葉は本当らしいと分かる。


 一瞬誘拐やら河川敷やらの出来事が全部夢の中のことのようにも思えたが、咲希の右手に巻かれた包帯と確かに感じる指の痛みがそれは実際に起きた紛れも無い事実だと証明している。 


 結局夏愛を誘拐した犯人は望冬だったようだが、実はまだその目的も理由もまだ分かっていない。もう一度話をしようにもあんな別れ方をしたのだからまともに取り合ってくれるとは思えない。


(あれは⋯⋯本心だったんだろうか)


 望冬が咲希のことを本当に想っていたのなら、あんな他人を巻き込むようなやり方はしない気がする。


 本人から話を聞かない事には解決しない問題であるし、どのみち今のままでは動けないと割り切った咲希はとりあえずベッドの枕元に置いてあった眼鏡を取って掛けつつ軽く部屋を見回す。


 きっちり整頓された部屋はシンプルでありながらも要所要所に施された猫の装飾によって個性が表現されており、咲希にとってここが誰の部屋なのか推測するのは簡単なことだった。


「⋯⋯あ、あれ?、神原さん?」


 いつの間にか静かになったなと思って視線を下げると、そこには咲希に抱き着いたまますぅすぅと寝息を立てる夏愛がいた。  


「⋯⋯⋯⋯え、」


「そのまま寝かせてあげなさい」


「うわあっ!!?」


 突然の事に頭の理解が追い付かず固まっていた所、別方向から掛けられた声に心臓が飛び跳ねる。


 視線を向けると開いた襖の隙間からこちらを覗く望冬の姿があった。


「望冬⋯⋯」


「静かに。⋯⋯その子、全然起きないあんたのために一睡もせず夜通し看病してたんだから」


「そう、なのか⋯⋯⋯⋯って、待って!」


 それだけ言って襖を閉じてしまった望冬を慌てて追いかけようとするが、脚の上に夏愛が乗っていて動けない事を思い出す。


(⋯⋯ごめんなさい⋯⋯!)


 心の中で謝りつつ完全に意識の無い夏愛を引き剥がして改めてベッドに寝かせると、ふと咲希の動きが止まる。


「⋯⋯⋯⋯、」


 疲れていたのだと分かっていてもついさっきまで自分に抱き着いていた少女がそのまま寝落ちした挙句、鼻と目元を若干赤くして無防備に眠っているのを見るのは何だか物凄く悪いことをしているような気分になって駄目だった。


 これ以上はまずいと判断しとりあえずそれは一旦意識の外に追いやりつつそっと布団を掛けてから望冬の消えた襖の向こう側に移動する。

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