40.静かな朝
「あれ、もう眠ってる⋯⋯」
あっという間に寝息を立て始めた咲希の顔を見て夏愛はため息をついた。
「また眼鏡着けっぱなし⋯⋯もう、壊れたり怪我したりしたらどうするんですか」
そう呟いて咲希の顔から眼鏡を外し、おもむろにレンズを覗き込んで驚く。
「う⋯⋯すごい度⋯⋯いつもこんなを掛けてるんですね⋯⋯」
目をしぱしぱさせながら眼鏡をサイドテーブルに置くと、視界に映った咲希の素顔にふと動きを止める。
「⋯⋯⋯⋯かわいい寝顔⋯⋯⋯⋯それに、こっちの方が見慣れてる」
白く細い指がそっと咲希の頬に触れ、つんつんと感触を楽しむようにしばらくつついた後にぐいっと押し付けられた。
「⋯⋯河館さんが悪いんですよ」
比較的柔らかい頬に沈んだ指がぐりぐりと動かされる。
「女の子をあんな⋯⋯押し倒すようなことをして、何も⋯⋯」
起こさない程度に動かされていた指が止まり、頬から離れると同時に彼女の視線が下に落ちる。
「何も⋯⋯聞かないでいてくれたのは正直、助かりました。⋯⋯まだ、言う覚悟が⋯⋯できていないんです⋯⋯」
夏愛は自らの左腕をぎゅっと押さえ、声を震わせながら呟いた。
「──あなたは本当の私を知っても⋯⋯今までと変わらず、同じように受け入れてくれますか⋯⋯?」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯なんて、寝てるから聞いてる訳ないですよね」
「ぅ⋯⋯」
「っ!?」
突然咲希から聞こえた声にびくりと肩を揺らした夏愛は少しだけ後ずさり慌てて口許に手を当てる。
「も、もしかして聞いて⋯⋯っ!?」
「⋯⋯すぅ⋯⋯」
「え、あっ⋯⋯⋯⋯寝言、ですか⋯⋯」
ほっと息を吐き、改めて咲希の顔を覗き込む。
「⋯⋯⋯⋯、今なら」
本当に眠っているのか念の為もう一度確認してから深呼吸をする。
ゆっくりと開かれた口は最初ぱくぱくと動いた後、小さな小さな声を絞り出した。
「さっ、さ⋯⋯っ、さ⋯⋯⋯⋯き、く⋯⋯、〜〜〜っ!!!!」
そこまで言ってぼふん!と湯気を出した夏愛は自分の顔を両手で押さえる。
「〜〜〜っ⋯⋯」
しばらくその状態で時間が過ぎ、やがて指の隙間から潤んだ白百合色の瞳が覗いた。
「や、やっぱり⋯⋯まだ⋯⋯恥ずかしい⋯⋯」
顔を真っ赤にしてひとり悶える夏愛の横で、咲希は相変わらずすやすやと安らかな寝息を立てていた。
♢
「はっ⋯⋯!」
カーテンの隙間から射し込む陽の光が頬に当たっていたらしく、やけにぽかぽかとした気分で目が覚めた。
すっかり明るくなった部屋の中でがばっと身体を起こし、慌ててスマホを手に取る。
「九時⋯⋯十五分⋯⋯」
画面に表示された時刻に唖然としながら項垂れる。今日は平日だというのにまた遅刻だ、と思ったところであることに気付いた。
「身体が⋯⋯軽い⋯⋯?」
昨日あれだけ辛かった風邪症状が消え、体調がほぼ完全に快復している。元気な身体はこんなにも楽なのかと感動すら覚える勢いだった。
それとは別で頭の隅に引っかかる何かに額を押さえようと右手を持ち上げた時、ふと気が付いた。
「これは⋯⋯」
咲希の右手の平に貼られていたのは大きな絆創膏。それを見つめていると曖昧だった記憶が次第に鮮明になってくる。
(そうか⋯⋯昨日⋯⋯)
眠る直前のやり取りを思い出しながら軽く部屋を見回してみるが、それらしい人影はどこにも無い。どうやらちゃんと帰宅してくれたらしい。
ほっと安堵しつつ眼鏡を取ろうとサイドテーブルに伸ばした手に何かが触れ、咲希は疑問符を浮かべてそれを手に取った。
「メモ用紙⋯⋯⋯⋯?」
眼鏡を掛けて見てみると、そこには綺麗な字で短い文章が書き込まれていた。
『河館さんへ
おはようございます。元気になりましたか?朝ご飯をダイニングに用意しておきましたので良ければ食べてください。 神原夏愛』
「⋯⋯⋯⋯」
夏愛の書き置きから顔を上げると、ベッドから降りてリビングの方へと向かう。
「⋯⋯本当にある⋯⋯」
メモ用紙に書かれていた通り、ダイニングテーブルの上にはラップをかけられた卵焼きのお皿と、空っぽの汁椀とお茶碗が用意されていた。
一瞬「空っぽ?」と首を傾げたものの、キッチンを確認すると炊飯器には炊きたての白米、コンロの上には味噌汁の入った鍋があった。
「⋯⋯いただきます」
温めた味噌汁とほかほかのご飯、見た目からして美味しそうな卵焼きを前に咲希は未だに信じられないまままず最初に味噌汁に口をつけた。
「⋯⋯!」
直後に口に広がる出汁の風味と濃すぎず薄すぎない塩加減。じんわりと体の芯から温まるような感覚にほぅと息をつく。
「美味しい⋯⋯」
たまらず今度は卵焼きを食べてみると、ふわふわとした食感に出汁と卵の甘みが合わさって奏でられる絶妙なハーモニーに心が踊る。
お粥の時も思ったがやはり夏愛は相当な料理上手らしく、ひとつひとつがとても丁寧に作られている。
家族以外の女性の手料理を食べる機会なんて滅多に無い貴重なこととはいえ流石に申し訳無くなってくる、と思った所ではっと気付いた。
(謝罪じゃなくて感謝⋯⋯)
こういう時こそ『ありがとう』を伝えるべきなのだろう。
「⋯⋯またお礼、言っておかないとな」
そう呟いて絶品の朝ご飯に舌鼓を打つのだった。
「ごちそうさまでした」
作ってくれた夏愛に感謝の気持ちを込めて合掌すると、お皿を持って流しに向かい洗い物を始める。
スポンジでお皿を擦っていた時にポケットの中のスマホが震えたため咲希は手を止めて電話に出る。
「もしもしショー?」
『⋯⋯⋯⋯サッキー、お前昨日神原お嬢に会ったか?』
突然電話を掛けてきた傍武が何の脈絡も無くおかしなことを聞いてくるのはいつものことのため、特に気にせず普段通り返答する。
「まぁ、会った⋯⋯というか思いっきり看病されたな」
傍武に言うのは何故か緊張したのだが、もしからかわれるようなことがあればすぐに通話を切れるように構えておく。
『⋯⋯そうか。今は?』
しかし予想に反して静かな傍武の声音に咲希は眉を寄せた。
「今?今は一人だけど⋯⋯それがどうかしたか?」
『っ⋯⋯まじか⋯⋯』
「まじかって、何が」
『⋯⋯⋯⋯』
「何で黙るんだよ⋯⋯言うこと無いなら切るぞ」
『待て咲希』
「っ⋯⋯?」
あだ名ではなく本名で呼ばれ、ようやく傍武が真面目な話をしようとしていることに気付いて口を引き結ぶ。
『咲希、とにかく落ち着いて聞けよ』
「⋯⋯⋯⋯」
『これは、冗談や悪戯なんかじゃない』
そう前置きをした傍武は一拍を置いてその一言を告げた。
『神原お嬢が⋯⋯誘拐された──』




