04.想定外の申し出
「⋯⋯⋯⋯っ!!」
「⋯⋯⋯⋯まじか⋯⋯」
件の少女がいた。壁から頭だけ出してこちらを覗き込む一対の大きな瞳とばっちり目が合った。どうやら気付かれたことに対して慌てているらしく、分かりやすく目が泳いでいる。
「えっ⋯⋯と⋯⋯出てきて貰ってもいいですかね⋯⋯?」
咲希が敬語でそう言うと少女はどうするべきか迷うような素振りを見せた後、深呼吸をして陰から姿を現した。
そして咲希の目の前まで歩み寄り、殴られて少し腫れた頬に手を伸ばし、そして──。
パァン!と、乾いた破裂音が響き渡った。
「なっ!?!?」
傍武から驚愕の声が聞こえた。
思いっきりビンタされた咲希は頬を押さえながら尻もちをつき、突然の事に理解が追いつかないまま少女を見上げる。
「⋯⋯あなたは馬鹿なんですか」
華奢な少女の小さな口から、怒気を孕んだとてつもなく低い声が聞こえた。
「見てるだけで何もしない周りの奴らみたいに無視すれば良かったのに、巻き込みたくなかったのに⋯⋯どうして私なんかのためにあなたが傷つかないといけないんですか⋯⋯」
震える声でそう言った少女の顔を見て咲希は目を見開く。
「⋯⋯⋯⋯」
少女は無言で小さなビニールの袋を差し出した。中に氷水が入っていることから、保健室かどこかで貰ってきた氷嚢だと分かった。
受け取った氷嚢と少女の顔を交互に見ながらゆっくりと立ち上がる。ビンタされたのは男達に殴られた方とは逆の頬で、倒れたのは単に驚いただけであって特別痛かった訳では無い。
それよりも、今はこっちだ。
咲希は小さく震えている少女に視線を集中させる。
(見たところこの子は自分のせいで赤の他人である僕を傷つけてしまったと罪悪感を感じて⋯⋯自分自身に怒っている、のか⋯⋯?)
白百合色の瞳は潤んでおり、涙が零れないように小さな口をきゅっと引き結んで堪えているのが分かる。
正直に言って、咲希は泣きそうな女性を慰めるための知識なんてこれっぽっちも持っていない。それでも何かできることはあるはずだと思い、思考をフル回転させる。
そうして何とか浮かんだ案を実行すべく、咳払いをして立ち上がり、背筋を伸ばしてにっこりと笑顔を見せる。
「遅くなってすみませんでした。僕の名前は河館咲希と申します。以後お見知りおきを」
そう言って軽く頭を下げると、頭の上に疑問符が見えそうなくらいに困惑した少女が目に入る。
「何を⋯⋯どうして今自己紹介を⋯⋯?」
当然の疑問だ。咲希の謎すぎる行動に本気でおろおろしているどころか若干引きつつある少女の姿を見て、咲希は構わず更に笑顔になる。
「うん、よし⋯⋯少し表情が明るくなりましたね」
「え⋯⋯?」
思わずというように自らの頬に触れる少女。
「暗い顔はやめてください。笑顔の方が似合ってますよ」
流石にキザすぎたか、とは思ったものの、多少は皮を被らなければこの場を上手く切り抜けられる気がしなかった。
幸い少女はきょとんとした顔で首を傾げるだけで、再びビンタされることは無かった。
「⋯⋯っ⋯⋯」
その言葉を聞いた少女は何かを言おうと口を動かしかけたが途中でそれをやめ、両手で目元を擦ってから顔を上げた。
「⋯⋯今日は助けて頂きありがとうございました。ご迷惑をお掛けして大変申し訳ありません」
そう言って深々と頭を下げる少女に慌てて声をかける。
「えっ!?いや、別に謝る必要は⋯⋯」
両手をわたわたと振りながら思わずの方を見て助けを求めるが、俺は関係無いと言わんばかりに後ろを向いて離れて行ってしまった。
「そんなこと本当に気にしてないので、とにかく顔を上げてください。えっと⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯、神原です。神原夏愛といいます」
「⋯⋯!」
ようやく顔を上げてくれた少女は少し目を逸らしながらも咲希と同じように自己紹介をしてくれたようだ。
本来は場の空気を和ませることだけが目的でピエロになったつもりだったため、まさか律儀に返されるとは思っていなかった咲希は微妙に困惑してしまった。
「神原さん」
「はい」
聞いた名前を心の中で復唱したつもりだったのだが、どうやら声に出ていたらしく返事をされてしまった。
「呼んでみただけ」というセリフが脳裏に浮かんだが、いきなりこんなことを言ってくる男なんて客観的に見て普通にキモいなと思い、なんとか踏みとどまって別の言葉を口にする。
「その、僕が言うのも何ですが、あの後は大丈夫でしたか?」
あの後、というのはもちろん食堂での騒ぎのことだ。傍武に任せたとはいえ咲希本人も自分が連れ去られた後何があって今に至るのかくらいは知っておきたかった。
「あの、傍武さん⋯⋯ですよね?その方が出てきて見ていた人たちを、その、追い払って⋯⋯くれました」
かなり端折られている気がするが、実際そうなのだろうから突っ込む訳にもいかない。
微妙に歯切れが悪いのはいつの間にか集まっていた野次馬に失礼にならないような適切な言葉を使おうとして、見つからなかったからだろうか。
正直そんなこと一々気にする必要は無いと思うのだが、それを伝えたとしても困らせるだけで特に意味は無いだろう。
「なるほど……良かった」
どうやら傍武は上手いことやってくれたようだ。肉が好きなあいつには今度お礼に焼き鳥でも奢ろう、牛じゃなくて鳥なのはご愛嬌、とそんなことを考えていたせいか、少女──夏愛の口から言い放たれた言葉が上手く聞き取れなかった。
「何かお礼をさせてください。私にできることなら何でも言って頂ければ」
「⋯⋯何て⋯⋯?」
聞き間違いだろうか。年頃の女性が使ってはいけない言葉が混ざっていた気がする。
「ですから、何か欲しいものややって欲しいことがあれば言ってくださいと」
「⋯⋯⋯⋯」
残念ながら聞き間違いでは無かったようだ。
その心意気は素晴らしいが、正直困る。何度も言うが別に見返りが欲しくて助けた訳では無いのだ。
「いや⋯⋯特に無いっていうか、いいですよお礼なんてなんだか申し訳ないですし⋯⋯」
いい歳した男がこんな可憐な少女に何かを要求するというのは何と言うか、大人げない気がする。
だから本気で断ろうとしたのだが、夏愛は眉を寄せて返答してきた。
「それでは私の気が済みません!」
「えぇ⋯⋯本当にいいのに⋯⋯」
夏愛は意外と引き下がらず、むしろ一歩踏み出して距離を縮めてくる。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯う⋯⋯」
すぐ目の前で怒ったような目でじっと見上げる少女を見て、これはもうこちらが折れるまで諦めないなと察した咲希は大人しく受け入れることにした。
両手を軽く上げて降参の姿勢をとる。
「分かりました。お願いさせて頂きます⋯⋯」
「⋯⋯!何なりと!」
ぱっと嬉しそうな顔になった夏愛にバレないように息を吐く。
「早速お願いさせて頂いても?」
「もちろんです」
少し控え目な自らの胸の中央に手を当てながら両目を瞑ってドヤ顔をする夏愛に告げる。
「──おすすめの本⋯⋯小説があれば教えてください」
咲希がそう言った瞬間、静寂が訪れる。
「あれ⋯⋯?」
何か間違ったことでも言ってしまったのだろうかと一瞬不安になる。
「⋯⋯⋯⋯本当にそれでいいんですか?」
姿勢はそのままに、片目だけ開けてこちらをチラッと見ながら聞き返された。
「はい。今週末書店に行く予定なので、その時ついでに買ってこようかなと」
「⋯⋯⋯⋯」
咲希自身かなり読書をするタイプなので、これは嘘ではない。本というものはいくらあってもいいのだ。
他にお願いしたいことも特に無いため、今一番の願いはこれで間違いない。
しかし夏愛の反応が悪いことに対して、咲希はとある可能性に気づく。
「あ、もしかして本あまり読まないんですかね⋯⋯?それなら申し訳ない⋯⋯」
普段から読んでいないと他人に紹介できるものなんて思いつかなくて当然なのだが、何故そのことに気づかなかったのか咲希は自分で自分のことを笑うしかなかった。
相手のことを考えずいつも自分よがりな発言をしてしまうせいでこんなことが起きる。だからあまり他人と関わりたくないという面もあるのだが、関わらないから慣れることもできないということに咲希自身は気づいてるのかどうか。
「い、いえ!本は読みますので、きちんと教えられます」
「あ、そうなんですね⋯⋯それなら安心です」
どうやら何とか正解(?)だったらしい。
自分だけだとどうしても同じジャンルばかりに偏ってしまうが、何が待っているのか分からない他ジャンルに手を出すのは中々難しい──これはよくある葛藤だと咲希は思っているのだが、詳しい方に教えて貰えるというのはこの上ないチャンスだろう。
「では改めて⋯⋯。神原さんのオススメの本は何ですか?」
「⋯⋯⋯⋯、行く予定の書店はどこにあるんですか?」
こちらをじっと見つめながらそう聞かれる。質問に質問で返す形になっているからという訳では無いが、なんとなく嫌な予感がした。しかし嘘をつくのも違う気がしたため正直に答える。
「駅の近くのショッピングモールにあr」
「あの」
食い気味で遮られ、思わず目をぱちくりさせてしまう。
「その、私も⋯⋯」
何やらもじもじとしだした少女に、咲希の心の奥が警報を発していた。
これはまずい。今すぐここから離れなければ何かとんでもないことが起きてしまう気がする。
しかしここで逃げると失礼になると思うと、脚が縫い付けられたように動かなくなってしまった。
大人しく聞くほか無かったのだが、少女から続く言葉は咲希の予想を遥かに上回ったものだった。
「私も──書店に同行させて頂けませんか?」
「な⋯⋯⋯⋯!!?」
真面目な顔でそう言い放った夏愛の目はどう見ても本気だった。
茶化せるような雰囲気では無かったため、咲希は最後の抵抗をする。
「いや、それは⋯⋯」
「ダメですか⋯⋯?」
白百合色の綺麗な瞳に上目遣いで見つめられる。
「、、、」
(これはもう⋯⋯ダメだ⋯⋯)
「⋯⋯⋯⋯分かりました。流石に断るのも申し訳ないし⋯⋯今週末ですよ、いきなりですけど本当にいいんですか?」
了承はしたがこれは諦めただけ。我ながらしつこいと思うができれば避けたいのも事実。こういうのは全くと言っていいほど慣れていないのだ。
とはいえ相手はイマドキの女子大学生。急にこんなことを言われても既に週末の予定は埋まっているはず。
そう思っていたのだが。
「行きます。よろしくお願いいたします」
確かな決意を持った白百合色の瞳に射抜かれ、思わず満面の笑みを浮かべると咲希はもうそれ以上は何も言わなかった。
(これは⋯⋯また大変なことになりそうだ⋯⋯⋯⋯)
がっくしと肩を落としながら、心の中でため息をつくのだった。