39.感じるデジャブ
咲希が顔を逸らした直後、ふと夏愛の動きが停止する。
「か、河館さん、それ⋯⋯どうしたんですか⋯⋯?」
「それ?」
僅かに声を震わせる夏愛が指を差したのは咲希の胸元。咲希はゆっくりと視線を下げると「あっ」と声を漏らした。
すぐさま後ろを向いて身体を隠すと同時に心の中で舌打ちしながらシャツの胸元を指先で摘む。
傷が開いた右手で胸元を掴んだことにより白色のシャツに思いっきり血が付着していたのだ。
(まずった⋯⋯)
女性に限らず血が苦手は人は多く、一部では見ただけでパニックになる人もいるためなるべく見せない方が良いものなのだが、夏愛にある程度耐性があったのは不幸中の幸いだった。
とはいえ今の状況は流石に咲希の想定外。せめて傷のことだけはバレないようにしようとさりげなく右手を身体の前に回したのだが、夏愛は人一倍勘が鋭かった。
「右手、ですよね⋯⋯?もしかして⋯⋯傷が開いた、とか⋯⋯」
「⋯⋯っ⋯⋯」
隠していたつもりのことを完全に言い当てられた咲希は唇を噛む。
夏愛には数日前に右手に包帯を巻いている姿を見せていたため、先程の出来事と合わせて考えればすぐにそれらが繋がるのは容易に想像出来る。
そして今までの経験から、この後何という言葉が続くのかも分かっていた。
「右手、見せてください」
案の定放たれた予想通りの言葉に首だけ回して後ろの様子を窺うと、少し怒ったように眉を寄せてこちらを見つめる夏愛と視線がぶつかった。
(⋯⋯デジャブを感じる⋯⋯)
つい一ヶ月ほど前にも同じようなことがあったなと思いつつ、抵抗しても無駄だと理解している咲希は小さくため息をついて身体ごと振り返る。
咲希が無言で右手を差し出すと夏愛は「これは⋯⋯」と呟きながら手の平の傷をまじまじと確認し、横に置いていた彼女のバッグの中から長財布くらいの大きさのポーチを取り出した。
そのポーチから出てきたのは怪我をした時用の消毒液と少し大きな正方形の絆創膏だった。
持ち歩いてるのか、と咲希が関心した瞬間、突然の刺激に全身がびくりと跳ねた。
「っ!?痛ててててててててて!!」
「あ、少し沁みますが我慢してくださいね」
「そういうことは先に⋯⋯」
心の準備をする暇も無くいきなり傷口に消毒液を吹きかけた夏愛は構わずティッシュで余計な水分を軽く拭き取った後、患部に絆創膏をぺたりと貼り付ける。
「よしっ⋯⋯と。終わりました。よく頑張りましたね、えらいえらいですよ」
そう言いながら笑顔で頭を撫でてくる夏愛に咲希は困惑する。
「ちょっ、な、何で撫でるんですか」
「頑張った河館さんへのご褒美です」
「ご褒美って⋯⋯」
別にそこまで褒められるようなことをした訳では無いし、そもそもご褒美を貰うべきなのは手当てをしてくれた夏愛の方ではないのかとも思う。
しかしそれに深い意味は無く、夏愛はやはり夏愛だった。
「でも、嫌ではないでしょう?」
そう言った彼女の笑顔には僅かに悪戯っぽさが混じっていたため、何となく咲希も少しは反撃したくなってしまった。
「⋯⋯それは⋯⋯⋯⋯まぁ⋯⋯」
左手で後頭部をぽりぽりしながらそう言ってみる。
このたった一言だけでもかなりの羞恥心を振り切ることになったのだ。いくら夏愛とはいえ多少はたじろぐだろうと思っていたのだが、咲希の耳に届いたのは小さな笑い声だった。
「なら続けますね♪」
「⋯⋯⋯⋯、」
心底楽しそうに笑う彼女の姿に「思ってたんと違う」と若干悔しい気持ちを抱きながらもされるがまま、なでなでを受け入れた。
♢
「いいんです私は構いませんから!」
「神原さんは良くても僕が良くないんです!」
汚れた服の着替えやら何やらを済ませて時刻が午後6時半を回った頃、咲希と夏愛はとあることで言い合いになっていた。
「だから⋯⋯!流石に送らせてくださいよ」
「お断りします。体調不良の河館さんは寝てないと駄目です」
「いやでももう暗いから危ないって⋯⋯」
「あんなにふらふらだった河館さんを外に出すことの方が危ないですよ」
「うぐ⋯⋯」
それを言われてしまうと何も言い返せない咲希は言葉に詰まる。
この口論の論点は『夏愛を自宅まで送るか否か』という単純なもの。
もちろん咲希は彼女を送る気でいるのだが、立ちくらみで倒れたり過呼吸を起こしかけたりと不安なことを連発したせいで咲希の言葉は全く信用して貰えなくなっていた。
何を言っても棄却され、終いには夏愛に「このまま泊まって監視します」とまで言われてしまいそれだけは絶対に避けたい咲希と真っ向から対立する形となってしまったのだ。
(くっ⋯⋯)
言いたいことは沢山あるのにそれを聞き入れて貰えないと分かっている以上、視線を下げて口を噤むしか無かった。
「⋯⋯はぁ⋯⋯仕方ないですね」
そんな咲希の様子を見たからか夏愛は小さくため息をつき、妥協案を口にした。
「河館さんが私の前でちゃんと眠れたら帰ります」
「⋯⋯?」
その言葉の意味がいまいち理解出来ず眉を寄せると、彼女は続きを補足した。
「間違っても着いて来ることがないように、河館さんにはまずここで寝て貰います。それでしっかり眠ったのを確認したら私は自宅に帰る、ということです」
「いや、それだと」
「心配しなくてもすぐそこですし、なるべく急いで帰るので大丈夫ですよ。防犯ブザーも持ってますから」
夏愛の言っている通り咲希宅と夏愛宅は距離的には近いが、田舎の住宅街で尚且つ端っこの端っこなため道中には民家も人通りもほとんど無く、いざという時が怖い。
しかしそれは逆に考えれば、狙う人もいないためリスクが低くなっていると言えなくも無いのだ。
不安は大いにあるものの、これ以上の譲歩は望めそうに無いため渋々受け入れた咲希は大人しくベッドに横になる。
幸か不幸か今の咲希は所謂『寝すぎて眠い』状態であり、夏愛を心配させないように自分を誤魔化すのもそろそろ限界だった。
(結局⋯⋯甘えてばかりだ⋯⋯)
心の中では眠りたくないと思いつつも、目を閉じれば意識が遠のいていく。
一抹の不安を胸に残したまま、咲希は何度目かも分からない眠りに落ちた。
 




