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お嬢はやけにぐいぐい来る  作者: 狐白雪
第三章 失った過去、守りたい今
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38.心の傷

 直後にドン、という鈍い衝撃が咲希(さき)の身体を貫いた。


()っづ⋯⋯!」


 何とか右手を床につくことは出来たものの、そのはずみで手の平にあった治りかけの傷が開いたらしい。じくじくと痛みはするが今はそれよりも夏愛(なつめ)のことが心配だった。


 倒れる直前、突然立ち上がった咲希に驚いて振り返った彼女の後頭部に咄嗟(とっさ)に左手を伸ばしはしたが、上手く(かば)い切れた自信が無かった。


「っ⋯⋯!?」


 恐る恐る(つむ)っていた目を開くと、視界に映った光景に思わず息を呑む。


 ──空いていた右手はしっかり手の平を床について身体を支えることが出来た。


 しかし夏愛の後頭部を庇うため塞がれていた左手は手の平を床につくことが出来ず、代わりに手の甲側を床につける形で肘を支えとするしかなかった。


 そのため距離が近くなり、咲希の鼻先数センチ、互いの吐息も感じられそうなくらいの位置に夏愛の顔があった。


(⋯⋯⋯⋯)


 ここまでの至近距離になったのは初めてのことなのだが、咲希の頭の中に浮かんだのは「綺麗だ」という一言だけだった。


 シミひとつ無い白磁(はくじ)の肌と淡い光を反射し輝く白銀の睫毛、ぱっちり二重で澄んだ大きな白百合色の瞳に潤った桜色の唇も、全てがただただ美しかった。


 少しの間見惚(みと)れていた咲希はふと自らに向けられる視線に気がつく。


「⋯⋯⋯⋯」


 その視線は真っ直ぐ咲希の目を貫いていた。


 事故とはいえ押し倒すような形となってしまったのだ。悲鳴を上げてもおかしくない状況の中、夏愛は何も言わずどこか呆けたようにこちらを見つめている。


 見た感じ怪我をしている様子は無いため大丈夫そうだと安堵した瞬間、突然白百合色の瞳が滲んだ。


「ぅ⋯⋯ぁ⋯⋯⋯⋯」


「ッ!!?」


 声にならない声のようなものを漏らしながら右腕で目元を隠した夏愛に咲希は慌てて起き上がり即座に距離をとる。


「す、すみません!!」


 謝罪の言葉を述べその場で土下座の体勢になろうとしたのだが、途中で制止させてしまった。


「い、いえ、違うんです⋯⋯これはちょっと、びっくりしただけで⋯⋯⋯⋯だから、ごめんなさい、気にしないでください⋯⋯⋯⋯」


 目元をごしごしと擦りながら無理に笑おうとする姿に咲希の胸がずきりと痛む。


(⋯⋯違う)


 積極的に手を繋いだり腕に抱き着いたりしてきていた普段の夏愛からは考えられない反応に、心の奥底に封じ込んでいたはずの昔の記憶が蘇る。


(あれは⋯⋯)


 咲希にとってはある意味見慣れた、何度も向けられ、抗い、そして最後に逃げたもの。


 あの日から、もう二度と見ることが無いようにと願い誓ったはずのもの。


 その感情は──恐怖。


 彼女の瞳に浮かんでいたのは咲希に対する怯えだった。


「はぁ⋯⋯っ、はぁ⋯⋯っ」


 自分の意思とは関係無く呼吸が乱れだす。


 過呼吸を起こしかけているというのはすぐに

理解したが、自分では思うように対処が出来ない。


(っ⋯⋯これ⋯⋯やばいかも⋯⋯)


 シャツの胸元を右手で握りしめるが息苦しさは消えず、次第に意識が薄れてくる。


 身体が横に傾いだ瞬間、声が聞こえた。


河館(かわだて)さん!!」


 同時に正面から両肩を掴んで支えられ、そのままぎゅっと抱きしめられる。


「⋯⋯!? 」


 咲希が何かを言うよりも早く夏愛は言葉を続ける。


「私に合わせてゆっくり呼吸してください。ほら、吸って、吐いて⋯⋯⋯⋯⋯⋯吸って、吐いて⋯⋯⋯⋯⋯⋯」


 抵抗する余裕の無かった咲希がその通りにしている間に背中を優しくとんとんと叩かれ、少しずつ呼吸が収まっていくのを感じる。



「⋯⋯落ち着きましたか?」


 やがて咲希の呼吸が正常に戻ると、抱きしめられた状態のまま耳元で問いかけられる。


「はい、何とか⋯⋯」


 咲希がそう答えると夏愛は安堵したようにほっと息を吐いて小さく「良かった⋯⋯」と呟いた。


 しばし無言の時間が過ぎると、耐えきれなくなった咲希はぎこちなく首を回した。


「⋯⋯あの、神原(みはら)さん⋯⋯?」


「はい?」


「そ、そろそろ離した方が⋯⋯」


「っ!?そ、そうですね⋯⋯!!?」


 本人も無意識だったのか抱きしめたままだった手が慌てて離され、膝立ちの状態から正座になったことで辛うじて距離が開く。


「⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯」


 自らの行動を思い出して恥ずかしくなったのか膝に両手を置いて微妙に赤くなっている夏愛を横目に咲希は俯いた。


「⋯⋯すみません⋯⋯」


 あんなこと(・・・・・)をされて辛かったのは夏愛の方のはずなのに、それも構わずすぐに咲希の助けに入ってくれた彼女には何と謝罪すればいいのかが分からない。


 心にあるのは申し訳なさだけで、上手く形に出来ないまま声だけが先に漏れてしまった。


 そんな咲希に対する夏愛は一瞬唇を引き結んだ後、ゆっくりと言葉を(つむ)いだ。


「謝らないでください。⋯⋯河館さんの過去に何があったかは分かりませんが、こういう時は『ごめん』より『ありがとう』の方が何倍も嬉しいものですよ」


「⋯⋯⋯⋯!」


 その言葉は咲希に衝撃を与えた。


(『ごめん』より『ありがとう』⋯⋯謝罪じゃなくて感謝⋯⋯)


 他人とあまり関わって来なかったことでこの辺りの感覚が欠落している咲希はいまいち理解が出来ないのだが、夏愛はそんな咲希の様子に眉を下げた。


「河館さんはいつも謝ってばかりです。⋯⋯何をどれだけやっても、いつも謝られるのは案外寂しいんですからね⋯⋯?」


「寂、しい⋯⋯?」 


「⋯⋯はい。こちらの気持ちが伝わってないような気がしてどうしても⋯⋯距離を、感じてしまいます」


「っ⋯⋯」


 痛いところを突かれ目を逸らす。必要以上に関わらないようにと距離をとろうとしているのは彼女にも伝わってしまっていたらしい。


 咲希が言葉に詰まっていると夏愛はふっと微笑んだ。


「だから⋯⋯今まで謝ってきた分、今度は『ありがとう』を私にください。少しずつでも、ゆっくりでも」


 その言葉に込められた真意までは汲み取れなかったが、それでも少しは学んでいる。


 意を決してそれを告げる。


「⋯⋯分かりました。⋯⋯ありがとう、ございます⋯⋯」


 すると夏愛の表情がぱっと明るくなった。


「はい、どういたしまして♪」


 ほろりと見せたその笑顔はあまりにも眩しく、咲希は何故か夏愛を直視することが出来なかった。

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