37.微睡みの中で
「河館さんは、やっぱり油断できない人です」
「え、ええ⋯⋯?」
しばらくして夏愛から放たれた言葉に咲希は困惑の声を漏らす。
ようやく視界が解放されて広い世界が戻ってきたのだが、そこにいる夏愛には予想に反して特に変わった様子は無かった。
ただ少しだけ声のトーンが上がっているように感じるのはおそらく気のせいだろう。
もう少しちゃんと話して真意を聞きたいのは山々ではあるが、そうこうしている間にも咲希の身体は疲労に蝕まれ続けていた。
(⋯⋯ほ、ほんとに限界が⋯⋯)
自分の意志とは関係なく意識が落ちそうになる気持ち悪い感覚に目をぎゅっと閉じた瞬間、声が聞こえた。
「⋯⋯ゆっくり休んでください。私が見守ってますから」
囁くようにそう言った夏愛にもう一度優しく頭を撫でられ全身の力が抜ける。
今更抵抗する気力も体力も無い咲希は甘んじてそれを受け入れるしか無かった。
頭を撫でる際に時折挟まれる前髪を梳くような動きが驚く程に心地よく、徐々に思考が形を失い始める。
(⋯⋯⋯⋯溶ける⋯⋯⋯⋯)
本人には絶対に言えないのはもちろん、大学生にもなって情けないが今だけはこのぬくもりに浸っていたいと思ってしまった。
心做しか頭痛も和らいできたように感じ、咲希はようやく襲い来る眠気に抵抗するのをやめることが出来た。
「──元気になったらまた⋯⋯膝枕くらいなら、してあげますからね⋯⋯⋯⋯?」
どろりと微睡む意識の中、遠くでそんな声が聞こえたような気がした。
♢
「⋯⋯⋯⋯」
次に目を覚ました時には明るかった部屋は暗くなっており、ベッドサイドランプの淡い光だけが辺りを照らしていた。
窓の方に視線を向けるがそこから見える空は完全に夜の闇に染まっており、結構な時間眠っていたのだと理解する。
「⋯⋯⋯⋯ッ!?」
軽く伸びをしつつ寝返りをうって顔を横に向けた瞬間、咲希の呼吸が止まる。
「⋯⋯お目覚めですか?」
そこにはベッドの端に置いた腕に頬を乗せ、のんびりこちらを眺める夏愛がいた。
彼女はベッドから身体を起こすと何故か微笑を浮かべる。
「⋯⋯ふふ」
「っ、⋯⋯?」
とっくに帰ったものだと思っていた咲希はその場で固まったまま何とか言葉を絞り出す。
「何で⋯⋯」
「またそれですか。なんでと聞かれましても⋯⋯その、見守るって、言いましたから」
「え⋯⋯見守る⋯⋯?」
そんなことを言われただろうか?記憶を辿るが眠る直前の記憶は霞がかかったかのように曖昧になっており、上手く思い出すことが出来ない。
「⋯⋯⋯⋯」
何のことだと首を傾げた咲希に夏愛は一瞬目を見開いた後、呆れたように小さくため息をついた。
「⋯⋯いえ、何でもありません。流石にあのまま帰って河館さんを一人にする訳にはいかなかったので」
「⋯⋯⋯⋯」
さも当然のように言われてしまったが体調不良の咲希が主な原因である以上何も言い返すことは出来ない。
(⋯⋯僕のせい、か)
身体を起こし誤魔化すようにサイドテーブルから取った眼鏡を掛けながら話題を変える。
「今、何時ですか⋯⋯?」
「午後六時を過ぎたくらいです」
「六時⋯⋯」
ということは昼間のあれから三時間近く眠っていたようだ。
お陰で随分身体は楽になったものの、その間ずっとここで待ってくれていた夏愛には何と声をかければ良いのだろうか。
特にそういう関係ではないにも関わらず咲希のために彼女の貴重な時間──それも三時間──を浪費させてしまったのだ。少なくとも謝罪やお礼程度で済ませられるものでは無い。
静かに荷物をまとめていた夏愛は頭を悩ませる咲希に言い聞かせるように口を開いた。
「体調も大丈夫そうですし、私は一旦帰ります。万が一何かあったら今度こそ連絡してくださいね」
「ちなみに買ってきたプリンやゼリーなんかは冷蔵庫に入れておきましたからお腹が空いた時にでも食べてください」と付け加えられ、咲希は何とお礼を言えばいいのか分からずとりあえず頭を下げる。
会釈をして立ち上がり扉の方に向いた夏愛は何かを思い出したかのように振り返る。
そこから腰を折って前傾姿勢になると咲希の方へ右手を伸ばし、人差し指を立てて言った。
「今回はやむを得ず勝手に入りましたけど、施錠はちゃんとしておかないとダメですよ?いくら家にいるからと言っても用心するに越したことはないので」
「あ、は、はい⋯⋯?」
咲希は目をぱちくりさせながら曖昧に返事をする。
家に入ることに関しては電話をかけてきた傍武に咲希が許可を出したのだが、その傍武が諸々を夏愛に頼んだというのならそこをとやかく言うつもりは無い。
ただまさか夏愛にこんなことを言われるとは思わなかった。
(まるで心配されてるみたいだな。⋯⋯って⋯⋯)
自虐のつもりで心の中で呟いた言葉に笑おうとしたのだが、夏愛は本気で心配してくれていたのだということを思い出して少し申し訳なくなる。
咲希が黙り込んだのを了承として受け取ったのか、やがて夏愛は体勢を戻した。
「分かったならいいです。では、私はこれで」
そう言って夏愛が背中を向けた時、寝起きのままだった咲希の頭がようやく覚醒した。
「お、送ります!」
いくら家が近くにあるとはいえ時刻は午後6時を回っている。当然外は真っ暗であるため女性を一人で帰らせるのは流石に危険だろう。
咲希は慌てて身体を起こし、そのままの勢いでベッドから足を下ろして立ち上がる。
──しかし咲希は失念していた。体調不良で一日中寝ていたことが身体にどんな影響を与えるのかを。
その瞬間視界が真っ黒に染まり平衡感覚が消失する。
(まずッ──⋯⋯)
そう思った時にはもう手遅れだった。
咲希の身体はバランスを崩し前のめりに倒れ込む。
丁度、正面にいた夏愛を巻き込む形で──。




