36.魅惑の誘惑(2)
「へぁっ!?!?!?」
とんでもない言葉に素っ頓狂な声を漏らした咲希だったが、流石に今のは聞き間違いだろうと思い直す。
いくら何でも有り得ないよな、と心を落ち着けているとふとこちらをじーっと見つめる視線に気付く。
「⋯⋯⋯⋯」
まるで何かを待っているかのように微動だにしない夏愛の様子に咲希は段々と精神の余裕が無くなっていくのを感じた。
「ほ、本気で言ってます⋯⋯?」
いつもの「冗談です」という言葉を求め最後の希望を懸けて苦笑いを浮かべながら尋ねてみるが、結果は悲惨なものだった。
「⋯⋯どうしたいですか?」
真顔で真剣な眼差しを向けられ、この子は本気だと確信した咲希は自分の頭が回らなくなっていることに謎の悔しさを覚える。
(ど、どどどどうすればっ⋯⋯)
大学でも男女問わず大人気な夏愛ほどの美少女だ。咲希だって一人の男子として触りたくないと言えば嘘になる。
だが今年二十歳にもなる大学生が親しくもない女性にそんなことをするのは普通に考えて駄目だろう。
しかし理性で分かっていても感情はそうでは無いらしく、咲希の内側で天使と悪魔の囁きが聞こえ始める。
(ち、違う!僕はそんな人間じゃ⋯⋯っ!)
必死になって内なる自分を抑え込み静かに返答を待つ少女に視線を向けたのだが、同時に問題のそれが視界に映ってしまい即座に目を逸らす。
「どうしました?」
「えっ、えっと⋯⋯」
吹っ掛けた側は気楽なのか、やけににんまりとしている夏愛を若干恨みがましげに見ながら何とか時間を引き延ばして延命を図るが、それも焼け石に水だろう。
それでもやはり駄目なものは駄目なのだ。欲望に流される訳にはいかない。
(⋯⋯ここはちゃんと断るべき、断るべき、断るべき⋯⋯)
絶対に返答を間違えないように心の中で何度も何度も繰り返し、恐れと羞恥心を振り切った咲希はついに口を開いた。
「僕は⋯⋯僕は⋯⋯ッ!──」
⋯⋯開いた、のだが。
「⋯⋯⋯⋯きゅぅ⋯⋯⋯⋯」
「あっ⋯⋯」
思考回路を酷使し過ぎたことで限界に達してしまった咲希は風邪も相俟って沸騰する頭から湯気を出しながらベッドにばたりと倒れ込んだ。
「だ、大丈夫ですか⋯⋯っ!?」
「⋯⋯は、はい⋯⋯」
仰向けで目を回したまま夏愛の心配の声には返答しつつ、何とか身体を起こそうとするが上手くいかない。
(身体が⋯⋯)
起きてからずっと色々な意味ではしゃぎ続けていたせいか咲希が思っているよりも体力を消費していたらしく、全身が疲労感などの不調を訴えていることに今更気付く。
(流石に限界か⋯⋯)
先ほど風邪薬を飲みはしたが、効果が現れるまでにはまだ時間がかかるだろう。
夏愛には申し訳ないがこのまま少し休ませて貰おうと思った瞬間ゆっくりと眼鏡が外され、その直後に頭に何かが触れた。
(⋯⋯?)
その何かが咲希の頭の上でゆっくりと左右に揺られると今まで経験したことの無い──知らない心地良さが湧いてくる。
「やっぱり、無理してたんですね」
うっすらと目を開けるとぼやけた視界の中で何故かこちらに手を伸ばす夏愛の姿を捉えることが出来た。
「⋯⋯まぁこの場合、無理をさせたのは私になるんですが⋯⋯」
そう言いながら彼女が腕を動かすと、頭の上でも同じ感覚が揺れ動く。
「⋯⋯!?」
そこでようやく自分の頭が撫でられているのだと理解した咲希は一気に身体の熱が上がるのを感じた。
「なっ、なななにを⋯⋯」
「何って、頭を撫でてるだけですよ?」
「いや、そうじゃなくて何で⋯⋯」
その咲希の問いかけには答えず代わりに夏愛は小さくため息をついてから撫でる手を少し大きく動かし始める。
「あんなことを言ってからかったのは謝ります。でも、これに関しては河館さんも悪いんですからね」
「僕も⋯⋯?」
そんなことを言われても全く心当たりが無いと言おうとしたが、考えてみれば思い当たる節はいくつもあった。
無論、夏愛の服装の件だ。
(いや、確かに凝視はしたけどこちらから話題には出してないし一体何が⋯⋯)
小さな手で撫でられながら頭を悩ませていると、ぽつりと呟く声が聞こえた。
「まだ感想⋯⋯言ってもらってませんもん」
「っ⋯⋯!」
ふてくされたように言われ、そういうことかと咲希は息を吐いた。
(そういえば何も言ってなかったな⋯⋯)
テレビか何かで見かけた『女性の服装はとにかく褒めろ』という知識は今まで何の役にも立たないと思っていたが、案外そういう基本的な事が大事なのかもしれないと最近になって分かってきたのだ。
何故わざわざその格好で看病をしに来てくれたのかは分からないが、少なからず咲希に向けてという部分はあるはずだ。
ならばそこはちゃんと伝えなければならないだろう。
「何と言うか⋯⋯」
「⋯⋯?」
まずそう置いて夏愛の注目を集めることには成功したが、慣れないことへの緊張からか上手く二の句が継げない。
敢えて台本は考えずにありのまま思っていたことを言おうとしたのはやはり無理があったのだろうか。
(違う⋯⋯そんな言い訳がしたいんじゃない⋯⋯)
大事なのは伝えること。本人が望んでいるのなら、咲希がするべきなのはそれを叶えることだけだ。
「その格好⋯⋯普段と違って、その⋯⋯凄く魅力的というか⋯⋯とてもよく似合ってて⋯⋯えっと⋯⋯」
ただ思ったことを伝えているだけなのに顔は焼けるように熱く、思うように言葉が出てこない。
しかしそれでも咲希は口を閉じなかった。
「いつものロングスカート姿もす⋯⋯良いと思いますけど、今のショートパンツとタイツ姿もかなり⋯⋯良いと、思い、ま⋯⋯す⋯⋯⋯⋯」
そこでまた頭がショートを起こしたのか半強制的に言葉が途切れる。
再びぐるぐると目を回す咲希だが比較的元気な内心は穏やかでは無かった。
(何だよ『かなり良いと思います』って!!もっと上手く言えないのか僕は⋯⋯っ!!)
自分の言葉を思い出すと羞恥心と呆れで心がずずんと重くなる。
体調など関係なくそもそもの咲希のボキャブラリーが貧弱過ぎることもあり、これ以上の褒め言葉は残念ながら思い付くことが出来なかった。
正直今すぐ顔を覆って転げ回りたい気分なのだが、何故かずっと夏愛に頭を撫でられて──というか押さえられている以上そうもいかない。
「⋯⋯⋯⋯」
少し待ってみたが夏愛からの反応は無く、撫でる手も止まったまま何度目かも分からない気まずい時間が流れる。
(⋯⋯⋯⋯きっつい⋯⋯⋯⋯)
言わせたのは夏愛の方だが、言葉を選んだのは咲希だ。彼女を不快にさせたというのならもちろん非はこちらにある。
「──河館さんは」
一人で落ち込んでいた咲希はその言葉に視線を上げようとして──すぐに視界が遮られた。
「みっ、見ちゃダメです!今はその、ちょっと、見せられないというか⋯⋯」
咲希は手のひらで目元を全て覆われたまま、夏愛から聞こえた何やら慌てたような少し上擦った声に首を傾げる。
「え、いやでも⋯⋯」
「とにかく!ダメなものはダメなんです!!」
「わ、分かりました⋯⋯」
そこまで言うなら諦めるしかない。とりあえず今は待つべきかと判断した咲希は抵抗をやめて大人しく従った。




