26.過去の片鱗
「⋯⋯⋯⋯ね⋯⋯」
誰かの声が聞こえる。
(誰⋯⋯誰の声だ⋯⋯?)
分からない。分からないが、ずっと前から聞き慣れたどこか安心するような声。
気付けば目の前に両手で顔を覆って座り込む女性がいた。
「⋯⋯ごめんね⋯⋯」
(何で⋯⋯誰に謝って⋯⋯!)
この声を聞いていると何故か心がざわつき、無性に苛立ってくる。
思わず拳を握った瞬間、女性から放たれた言葉に動きが止まる。
「ごめんね⋯⋯──咲希」
「ッ⋯⋯!?」
半端に持ち上がった腕は狙いを外しありったけの力で虚空へ振り下ろされる。
「っあ"あ"っ!!」
喉から声を吐き出し、手の平に爪が食い込むほど強く右手を握り締めて唇を噛んだ。
(僕は⋯⋯何をしようとした⋯⋯?)
無意識に動いた自分の右手を左手で掴み自問するが、答えは考えなくても分かっていた。
「っ⋯⋯」
押さえた手を自らの胸に当て背中を丸める。
こんな汚れた手では何も掴めない、何も救えない。分かっているからこそ無力な自分が憎い。
「ごめんね、咲希」
何度目かも分からないその言葉にはっと顔を上げると、手を離し顔を露わにした女性の姿が目に入る。
「あ⋯⋯⋯⋯母、さん⋯⋯⋯⋯」
思わず零れた自分の言葉に視界がぼんやりと滲む。
しかし目の前の幻想に縋るように伸ばした手は空を切った。
「何で⋯⋯ッ!!」
近くにあるのに届かないもどかしさに頭がどうにかなりそうになる。
「咲希」
再び名前を呼ばれ、引きつる頬に力を入れて無理やり口角を上げる。
「咲希、貴方は────人に⋯⋯──」
「ッあ⋯⋯!!?」
その瞬間に目が覚めたことで最後の肝心な部分は記憶に残すことができなかった。
「⋯⋯はぁッ⋯⋯!はぁッ⋯⋯!」
上体を起こし、ばくばくと暴れる心臓の上を左手で押さえると夏でも無いのに服がぐっしょりと湿っていることに気付く。
荒い呼吸を繰り返しながら薄暗い中手に取ったスマホの画面に表示された時刻は午前4時、朝というには早すぎる時間だった。
「⋯⋯また、か⋯⋯」
今までこんなことは無かったのに二週間ほど前の母の日を境に、数日ごとにうなされるようになってしまった。
原因はおそらくあの日、軽率に会いに行ったことだろう。
「痛っ⋯⋯」
遅れて右手に走った痛みにゆっくりと手の平を見ると、そこには四つの細い三日月状の傷が出来ていた。
どうやら夢の中だけでなく現実の方でも爪を食い込ませてしまったらしい。
「⋯⋯⋯⋯」
冷めた目で傷を見ながらもう一度拳を握り締め、構わず思い切りベッドに叩きつける。
じわりと滲む痛みも今となっては懐かしい。
ぼやけた視界でテーブルの上の眼鏡を見ると、一年前にそれをくれた親友のことを思い出す。
それと同時に、何故かずっと好意的に接してくれている一人の少女のことも頭に浮かぶ。
出会ってまだ一ヶ月しか経っていないはずなのにも関わらず、いつの間にか強く心に刻まれていることに内心驚きつつも咲希の顔は曇りを増す。
「⋯⋯今更俺に⋯⋯そんな資格は無いのに⋯⋯」
消せない過去。忘れられない過去。
他人をあれだけ不幸にしておきながら自分だけが幸せになるなんて許されない。
自らが傷付けた人達への贖罪──それが河館咲希という人間の存在理由だった。
♢
「「あっ⋯⋯」」
午前九時、咲希が大学に行くため玄関から外に出た瞬間、丁度家の前を通り過ぎようとしていた少女と目が合い声が重なった。
その少女とは他でもない、夏愛だ。
半月ほど前のゴールデンウィークに夏愛の家が咲希の家の近くにあるということが判明したのだが、それ以来何度も彼女とこんな風に鉢合わせるようになってしまった。
家が近くて目的地が同じなら多少は仕方ないとは思うのだが、過去数年間そんなことは一切無かったため夏愛は今まで敢えて別の道を選んでいたのでは疑惑が浮上している。
ただし本人は曖昧に誤魔化すだけで明言はしてくれなかったため真相は未だ闇の中だ。
「おはようございます、河館さ⋯⋯って、その包帯、どうしたんですか!?」
先に口を開いたのは夏愛の方だったが、棒立ちする咲希の右手を見るや否や目を見開いて慌てて駆け寄ってきた。
「あー、えっと⋯⋯ちょっと切ってしまって⋯⋯」
流石に夢でうなされて爪が食い込んだと言える訳も無く微妙に嘘をついて誤魔化す。
絆創膏が貼りにくい位置と範囲だったため包帯で隠すことにしたのだが、かえって目立ってしまっているかもしれない。
「大丈夫ですか?痛くないですか⋯⋯?」
「全然問題ないです。普通に動きますし、ほら」
眉を下げ心配そうに見上げてくる夏愛に右手を向け、開いたり閉じたりを繰り返して見せる。
夏愛はしばらくその手を見つめた後、ほっと息をついた。
「そうみたいですね⋯⋯良かった、安心しました」
その様子から本気で心配してくれていたのだということが伝わり少しだけ申し訳なくなる。
「⋯⋯何があったかは聞かないんですね」
つい零れてしまったその言葉に、夏愛は不思議そうに首を傾げた。
「聞きましたよ?『どうしたんですか』って」
「あ⋯⋯確かに⋯⋯すみません⋯⋯」
「⋯⋯?河館さん、なんだか顔色悪いですけど⋯⋯」
「いえ、大丈夫なので気にしないでください」
尚も夏愛は疑うような目で見てくるが、正直なところ咲希自身も自分が何を言っているのかよく分かっていなかった。
(まだ引きずってるな⋯⋯)
実の所咲希の胸の中には例の夢の内容が引っかかっているような、そんな気持ち悪い感覚が残っている。
大学生にもなって情けない話だが、せめて夏愛には悟られないようにしなければ。余計な迷惑は掛けたくない。
すっきりしない頭でそう思考している間に一歩距離を詰めた夏愛がおもむろに手を伸ばしてきたと思った直後、額に小さな手がそっと当てられた。
「うーん⋯⋯熱は無さそうですね⋯⋯」
突然の出来事に硬直する咲希は夏愛の呟きに何と返せばいいか分からず目を泳がせる。
本人には絶対に言えないが、小柄な夏愛が精一杯背伸びしている姿は何と言うか微笑ましかった。
とはいえこのままだと羞恥心メーターが振り切れてしまうため逃げるように一歩下がり、手を離させる。
「あぅ⋯⋯」
夏愛が名残惜しそうに漏らした声は忘却の彼方に吹き飛ばし、口を開く。
「⋯⋯逆に熱が上がりそうなので、今みたいな行為は控えて頂きたい⋯⋯」
どこか責めるような口調になってしまったのは申し訳ないが、流石にあんなことを続けられたらまずいどころの話じゃない。
多少罪悪感は感じるが、早めにはっきり駄目だと言っておかなければならなかった。
夏愛は目を閉じて悩むような素振りを見せた後、小さく息を吐いて咲希の方を見た。
「河館さんがそう言うなら分かりました。できるだけ我慢します。でも──」
そう言いながらするりと手を滑り込ませこちらの左手を握ってくる夏愛に頭痛のようなものを感じる。
「これくらいは⋯⋯許してください」
結局ここで断れないのが自分の悪いところなんだよな、と咲希は心の中でため息をついた。
 




