01.落し物の持ち主
黒い髪に黒い瞳。
それは現代の日本の総人口の約六割を占め、一般的に『普通』もしくは『平凡』と称される外見上の特徴だが、そこに眼鏡というひとつの要素を加えるだけでおおよそ河館咲希という男は説明出来る。
大学二年生になって早二週間が経過し四月ももう終わろうかという日の朝、咲希はいつも通り大学の廊下を歩いていた。
(今日のお昼はどうしようかなぁ⋯⋯ん?)
お昼時にはまだ早いが集中力を乱す絶妙な空腹感に昼食のことをぼんやりと考えていると、ふと前を歩く少女が抱えていたノートと手帳の隙間から何かが滑り落ち、そのままひらひらと宙を舞って咲希の足元まで飛んで来た。
踏みつける直前て慌てて足を止め、それをそっと拾い上げる。
「栞⋯⋯?」
近づけてよく見てみるとそれが丁寧にラミネート加工された栞だと分かった。名前は分からないが淡い青色の花弁が鮮やかに描かれた綺麗な物だ。
持ち主である少女は落としたことに気づいていないのか立ち止まることなく進んで行ってしまっていたため少し駆け足で追いつき声をかけようとしたのだが、一瞬だけ躊躇ってしまう。
友人と呼べる存在はほとんど居ない咲希だが、一応人並みのコミュニケーションスキルは持っている。
とはいえやはり女性にいきなり声をかけるというのは緊張する。⋯⋯というよりナンパと思われないよう言葉を選ばなければならないのが大変だ。
「あの、これ⋯⋯落としましたよ」
意を決して放ったその声に反応し、少女が足を止める。
こちらを振り返ると同時に、綺麗な艶を持った腰まであるさらさらの黒髪が揺れ、透き通るような白百合色の瞳と目が合う。
女性らしく少し長めの睫毛は髪とは真逆の透明感のある白銀色をしており、触れたら簡単に壊れてしまいそうな儚い雰囲気と共にどこか眠そうな印象を与えてくる。
紺色のゆったりとしたロングスカートと、ブラウスの上に薄青色のカーディガンを羽織ったシンプルかつ清楚な服装も相まって一見すると精巧な人形のように見えなくもない。
身長が咲希の肩くらいまでしかないため高校生のように思えたが、市内の高校も既に新学期が始まっていることから恐らく新たにこの大学に入学した一年の子なのではないかと簡単に見切りをつける。
少女はこちらを少し見上げるような状態になっているが、その目にはいきなり声をかけてきた見知らぬ男に対する警戒の色が浮かんでいた。
少女は最初に咲希の顔の辺りを見た後に手元に視線が移り、そこにあったものに気づいて目を瞬かせる。
「⋯⋯あの⋯⋯⋯⋯?」
どうすればいいのか分からないといった困惑の空気を纏う言葉が少女の口から漏れる。
呼び止めたのに何も言わない咲希を不思議に思ったのか少女は無表情のまま首を傾げた。その拍子に肩にかかっていた髪がさらりと流れる。
「あっ、えっと⋯⋯これ、さっき落としましたよ⋯⋯ね?」
何とか戻ってきた咲希は誤魔化すように慌てて栞を差し出す。
「⋯⋯⋯⋯すみません、失礼します」
「え⋯⋯?」
少女は咲希の手から栞を奪うように受け取ると、それ以上何も言わずに足早に去って行ってしまった。
「⋯⋯何か悪いことでもしたかな⋯⋯」
何故謝られたのか、何故逃げるように去っていったのか全く検討もつかず、一人取り残された咲希は呆然と呟く。
もしかしたら何か急ぎの用があったのかもしれない。それならあの対応にも納得がいく。
もちろん普段と変わらないただの親切心からの行動であったし、恩を売りたいとか会話がしたかったとかそういう他意は無かったため不快に思うことも無い。
とりあえずちゃんと持ち主の元へ返せたことに安堵しつつ、なんとなく気分が変わったため予定を変更して歩いてきた廊下を引き返して少女とは逆方向に足を進めた。
♢
午前中の講義が終わり、今日は学食の気分だった咲希はいつものように窓際のカウンター席に腰を下ろして一人で昼食を食べていた。
食事中にスマホを触るのは行儀が悪いと思っているし、会話をするというのも余り好きでは無い⋯⋯というかそもそも話す相手が居ないため一言も発さずただ黙々と食べ進めるのが日常だ。
「⋯⋯うーん⋯⋯」
しかし咲希の顔は曇っていた。理由は単純、今日は珍しく後ろが騒がしいからだ。
咲希は食事中に邪魔されることを極度に嫌っているため、あまりうるさくされるとどうしても嫌な気分になってしまう。
さっさと食べ切って退散しようと箸を進めていたのだが、もうすぐ食べ終わるという所で誰かのか細い声が耳に届いてしまった。
「やめてください⋯⋯」
そのたった一言がやけに耳に残り急いで後ろを振り返ると、六人がけのテーブル二つほど離れた所で男二人に絡まれているらしき少女が目に入る。
「あの子は朝の⋯⋯」
間違いない。廊下で会った黒髪の少女だ。
男達はへらへらと笑いながら話しかけているが、背後から迫られている少女の方は見るからに嫌そうな顔をしている。集中すれば三人の会話が聞こえてきた。
「なんでよ、いーじゃんこの後遊びに行こってだけで。折角先輩が誘ってあげてるんだから、後輩ちゃんは大人しく従わなきゃだめなんだぞー☆」
「そうそう。俺ら別にやましいこと考えてる訳じゃ無いしー?な?楽しいとこ連れてってやるからさ」
「⋯⋯遠慮させて頂きます」
チャラチャラした男達の圧に負けずに抵抗してはいるものの、完全に押され気味だ。これでは押し切られるのも時間の問題のように思える。
止めに入るべきではないのかと思い周りを見渡すが、その光景を見ているはずの十数人の男女は誰も動かない。互いに「お前が行けよ」と目で訴え合っているだけだ。
「あーもういいからさ、俺もう限界だから田中お前連れてきてくんね?」
「いや、ここはお前が行かなきゃだめだろ。俺はあくまで付き添いっつっただろ?」
「そうか、そうだったっけな。まぁいいわ、行くぞー☆」
何を言っても拒否され、言葉で落とすのは無理だと判断したのか強硬手段に出た男の手が少女に伸びる。
「っ──!」
男の手が少女に触れる直前、ぱん、と小さな音が響いた。
「⋯⋯は?お前⋯⋯」
「っ!?、す、すみません⋯⋯⋯⋯」
明確な拒絶。反射的に動いてしまったのか少女自身も自らの手を見つめていた。
伸ばした手を払われた男の顔つきが変わり、へらへらした態度から一変して不穏な空気を纏う。
「こんなことしていいと思ってんの?別にいいんだぜ?お前一人くらい俺らなら簡単に押さえ込めるし、二度と大学に来れなくもできるし」
「あーあ、やっちゃったね神原ちゃん。こいつ怒ったら何言っても聞かないからさー。ここらで諦めて大人しく従っときな?まぁ、それで許してもらえるかは分かんないけど」
「⋯⋯っ⋯⋯」
「行くぞー☆」
男は再び少女に手を伸ばす。下品な笑みを浮かべる男2人は先程とは違って加減するつもりは無いように見える。
「いやっ!⋯⋯やめてください⋯⋯っ!」
口で抵抗するが男は止まらない。少女が涙を浮かべた目をぎゅっと瞑った瞬間だった。
「はいそこまで」
男の手が少女に触れる直前、背後から近寄っていた咲希は男の手首を掴んで動きを止めた。