1・乙女心と少女たち
「なあ、ソラちゃん見なかった?」
「ソラさん、ですか? いえ、見ていませんが。なにか、用事でもあるんですか?」
「いんや? ただ、今日一回もソラちゃんの顔を見てないから見たいなと思って」
理由はともかく。空色の少女を、メビウスが一度も目にしていないというのは確かに珍しいとウィルも思った。
彼らはまだ、デア=マキナにある魔獣組合魔獣組合本部に滞在している。魔女の家とは違い、簡単に外に出られる環境のここでは少年はいつもにも増してソラにくっついていた。心配なのはわかるが正直、見ているほうもうるさいと思うほどであったので、ウィルはじとりと半眼で少年を見下ろし、ぽつりと本音を吐く。
「……坊ちゃん、ウザすぎてフラれたんじゃないです?」
「はあ!? フラれるもなにも告白してねーし! オレは、そーゆーのはきちんと準備して完璧にやらないと気が済まねーし!」
「おや。まだなにもしていないとは、意外でした」
「お前よりスキンシップしてる自信はあるけどな。そーゆーのはムードとか、色々あんだろ」
にしっと青年を見上げ、無駄にマウントを取る。ウィルもウィルで、毎度この話題はスルーできず、おかげで結局いつも通り口をつぐむ羽目になった。
「まあ、お前が見てないんだったら、あとはエリーだけだなあ」
腕を組んだメビウスの呟きを耳聡く聞きつけ、ウィルは「ん?」と胸中で首をひねる。どこか、違和感を覚えたのだ。違和感の正体をどうにか引っ張り出し、ぼそりと口にする。
「そういえば、エリーも見かけませんね」
「……ん?」
なんとなく、二人は顔を見合わせた。メビウスはきょとんと読めない表情をしていたが、ウィルはあからさまに面倒そうだと眉を寄せている。
「あ、なるほど」
ふいに、ぽんとメビウスが手を打った。少年の、なんとも楽しそうな表情を見て、ウィルはさらにげっそりすると大きくため息をつく。
「ソラちゃんだけじゃなく、エリーもいない。つまりこれは、エリーがソラちゃん誘って女子会ってやつを楽しみに行った、ということでは」
「ああ、まあ、二人が一緒に出掛けた、というのは合っていると思います。ただ、楽しい女子会かどうかは、わかりませんがね」
「え、そうなの? てかお前、なんでそんなにやつれてんの? 腹でも壊したか?」
「まだ壊していませんが。そろそろ胃に穴が開きそうな気配はありますね」
「ふーん。大変だなあ、お前も。ま、変なモン食わねーように気をつけろよ」
ひらっと手を振って去って行こうとする少年の長い三つ編みを掴み、なんとか引き留めた。肩でもフードでもなく髪の毛を引っ張られ、メビウスは頭だけその場に残したような体勢で足を止めざるを得なくなる。首が、変な音を立てたような気がした。
「いって! お前な、取れたらどうすんだ!」
「……三つ編み、取れるもんなんです?」
しげしげと見つめるウィルの手から三つ編みを取り返し、肩口から身体の前へ流しながら、首に手を置いてこきこきと動かす。
「んなわけねーだろ。全部オレの自前。ったく、なんなんだよ」
「改めて見てみると、結構な長さですね。……じゃなくて! 坊ちゃん、どこ行くつもりです?」
「もちろん、女子会乱入両手に花」
「でしょうね。それしかないと思いました」
はあ、と額に手を当てて深いため息をつき、ウィルは何度もうなづいた。
「あのですね、乱入してどうすんですか。というか、坊ちゃんが行ってどうすんですか。どうせ引っ掻き回すだけでしょう? もう少し、乙女心というものをですね、考えましょうよ」
「……いや、なんか、目が据わっちゃってるんだけど、だいじょぶ?」
「坊ちゃんが、二人の邪魔をしないというのなら、大丈夫です」
「だから、なんで? なんでオレが邪魔をするって話になってんだよ」
口を尖らせるメビウスを見、ウィルは思わず天を仰ぐ。こりゃダメだ、と心の中で呟きながら。
「いいですか。はっきり言いますよ。ソラさんが一人で外に出ることはないでしょうから、エリーが誘って声もかけずに出て行った。つまり、エリーはソラさんと二人きりになりたいんですよ。それだけなら行く先を誰かに告げても構わないと思いますけどね、告げると追いかけてきてほしくない人間が必ず追いかけて来ることが簡単に予想できる。つまり、わかりますよね? エリーは、坊ちゃんに聞かれたくない話をソラさんとしたいんです。だから、邪魔だって言ってるんですよ」
長い言葉を肩で息をする勢いで一言も噛まずに言い切って、眼鏡の青年はじろりと疲れた目つきで少年を睨む。彼はそれでも納得がいかない顔をしていたが、渋々首を縦に振った。
「そっか……。オレも罪作りな男だぜ」
「はいはい。ってほんとですよ、多少は自覚を持ってですね……って、坊ちゃん!?」
ふっと横を向いて遠い目をした少年に、ほんの少しだけ気を許したところで。
メビウスは、視線の先にある窓からひょいっと飛びおりてしまった。ちなみにここは二階の廊下である。慌てて窓から顔を出すと、あっさり完璧な着地を決めた少年が満面の笑みを浮かべて手を振っているのが目にはいる。
「よーするに、邪魔しなきゃいーんだろ? だーいじょーぶだって! 顔が見れたら帰ってくるから!」
言うだけ言って、さっさと走って行ってしまった。小さくなる背中を見つめながら、ウィルは呆然とひとりごちる。
「邪魔してる自覚がないのに、邪魔しないって、無理な話じゃないですか……」
――ちょっと、付き合ってくれます?
唐突にエリーに声をかけられ、あれよあれよという間に外に連れ出されてしまった。メビウスどころか誰にも声をかけずに外出するのは初めてで、ソラはどうしても落ち着かない。
誘っておきながら、エリーはさっさと先を歩いて行ってしまう。時たま彼女に声をかける街の人々には花のような笑顔で答えているけれど、ソラに声をかけることはしない。新緑の揺れる背中について歩きながら、空色の少女はどうするべきか一生懸命思考をこねくり回した。
答えが出る前に結局、ソラは目的の場所についてしまった。初めてこの街にきたときにも訪れた、時計塔のある広場。エリーは橋を渡って広場に足を踏み入れると、ソラも広場に入った頃を見計らって振り返ったのだ。
「ソラさんって、コーヒー飲めます?」
唐突な問いに、ソラはやはり答えを飲み込んでしまう。しかし、考えねばならない問いではないので、すぐにこくりとうなづいた。それを見て、なんの表情も乗せていなかったエリーの顔に、やっとふわりと笑みが咲く。
「じゃあ、買ってきますから、そこのベンチに座っていてください」
「え、あの……?」
ソラが疑問をぶつけるまえに、エリーは行ってしまった。一人になったソラは、ぱちぱちと目を瞬かせると、言われた通り新しく設置されたベンチに腰掛ける。手持無沙汰になり、星の髪飾りをなにげなく触りながら広場の中を見回した。
広場の中は、まだ先の戦闘の傷跡がすべてなくなったわけではない。損傷の激しい時計塔は立ち入り禁止であるし、広場内も足をひっかけそうなほど石畳が壊れている場所にはところどころ黄色い規制線が張られている。それでも、散乱した小石や埃は綺麗に掃除され、歩くのに支障のない場所は少しずつではあるが活気を取り戻しつつあった。ソラが座っているような、新設されたであろう真新しいベンチもいくつか確認できる。
エリーは、営業を再開したお気に入りのドリンクスタンドから笑顔でカップを二つ受け取って戻ってきた。ソラの隣に腰かけると自分はもうストローを加えつつ、無言で大きなカップを差し出した。空色の少女は困惑して眺め、おずおずと手に取る。
「……え、と、これ、は?」
「エリー厳選カスタムコーヒー、エリーちゃんスペシャルです。特別に奢りなんですからね」
ストローから口を離し、得意げに胸を張るエリーを横目に、ソラはおっかなびっくりストローを吸ってみた。思っていたよりもずっと冷たく、甘いものが口内を満たし、少女はびっくりしてカップをまじまじと見た。
「……コーヒー?」
ソラが知っているコーヒーとは、ブラックのみだ。いつも一緒にいる三人が三人とも砂糖もミルクも使わないので、ソラもそういうものだとして飲んでいたからである。だから、なにかをいれて飲むこともある、という根本的なところから彼女は知らないのだった。
疑問形での呟きのあと、カップを眺めたままストローに口をつけようとしない少女をちらりと見、エリーは当てつけのように一気に残りを飲み干すと、たんっと音を立ててカップをベンチに置く。ソラの肩がびくっと跳ね上がった。
「コーヒーです。メビウスさまたちはなにもいれないで飲みますけど、こーやってミルクなんかをいれてアレンジするものもあるんです。これはそういう、甘くしたコーヒーなんです」
「……そう、なんだ」
エリーの剣幕に押されながら、ソラはもう一度ストローに口をつけた。暴力的なまでに甘いシロップやら生クリームやらの中に一瞬、ふわりと嗅ぎ慣れている芳醇な香りが通りすぎていったような気がする。それを感じて、空色の少女は柔らかく瞳を細めた。
「うん。……美味しい」
「そうでしょう? 女の子は、こういうものが好きなんですよ? 美味しいし、見た目も可愛いし。メビウスさまって女の子が好きなくせに、女の子のこと知らなさすぎなんです。誰かが教えてあげないと、ソラさん女の子の楽しいこと、なにも知らずに女の子終わっちゃいますよ?」
「楽しいこと?」
「そりゃあ、美味しくて可愛いスイーツとか、お洋服とか、恋愛とか」
「……?」
頭の上に、はてながたくさん浮かんでいる図が目に見えてしまうほどわかりやすく少女は困った顔をした。首を傾げたまま、固まってしまう。
「どれも、ピンとこないです?」
混乱状態のソラに助け舟を出すと、少女はこくりと頷いた。上目遣いのソラに多少のあざとさを感じつつも、エリーはぐるぐると思考を巡らせる。本当は、こんなことを言いたくて彼女を連れだしたわけではないのに。
――エリーも、仲良くしてやってくれねーかな?
「……ッ!」
同じ場所で同じものを飲んだからか。
わざわざ、いま思い出さなくとも、という言葉と顔を思い出す。
あのときの、少しだけ大人びた少年の表情は、ひどく真面目で嘘偽りのない真っ直ぐなものだった。いくら憧れても自分には届かないと、そう気付かせるにじゅうぶん値するものだった。
そう――自覚してしまったのだ。
初恋にも似た、憧れの時間が、終わったのだということに。
だから。
せめて、確認だけしておきたかった。
ふう、と深く息を吐いて、ツリ目がちの瞳を閉じるとゆっくり開く。ソラと二人でいることに落ち着かないのは、エリーも同じだった。というより、突然現れた恋敵も同然な相手と二人きりなど、どう考えてもまともな精神ではいられないのは当たり前だろう。
その状況を望んだのは、エリーなんですけど、と呼吸を整えたためかわずかに冷めた頭で軽く笑う。本命を口にするなら、いましかないと彼女のふっくらとした唇が言葉を紡ぐ。
「じゃあ、質問です。メビウスさまのことは、一体どう考えているんです?」
「……え?」
どう? と聞かれても……とソラは口にすべきか迷った。ソラにとってメビウスは、目が覚めたときから彼女を助け、ずっと身近にいた存在だ。深く、考えてみたことはなかった。
空色の少女が口ごもるのを見、エリーの口調に熱がこもる。自然、言い募る形になってしまう。
「メビウスさま、女の子は好きだけど、誰ともそういう関係にはなる気はないみたいだって、お父さまから聞きました。だから、慕うのはいいけど本気になるなよって。メビウスさまの時間は、普通の人間とは違うからそうしてるんだろうってことぐらい、エリーにだってわかります。エリーだって、同じ立場なら、どうせ好きな人と同じ時間を歩めないんだったらって思います。でも」
いつの間にか、強い感情が揺れるすみれ色の瞳をソラへと向ける。感情のままの言葉を、少女にぶつける。
「あなたは、どう思ってるんですか? あなたには、覚悟があるんですか?」
「覚悟……? 覚悟が、必要なものなの?」
少女の返答は、エリーの想定していたどのパターンとも違っていた。だからと言って軽く見ている感じもなく、エリーは思わずソラの言葉の続きに期待して身を乗り出してしまう。
空色の少女は、両手で持つエリースペシャルに視線を落としながらも、不思議と透明な声で告げる。
「思いとか、覚悟とか、よくわからない。でも、メビウスはわたしがなんだとしても、味方でいるって言ってくれた。だから、わたしもなにがあってもメビウスの味方でいたいと思ってる。ただ、それだけ」
カップを握る手にきゅっとちからがこもる。下を向きながらも、ほんのり染まった頬が嫌になるぐらい目にはいった。思いも、覚悟もわからないと言いながら、心のどこかではわかっているのだ。
エリーは大げさに肩をすくめると「呆れた」と呟いた。
「ああ、記憶がないんでした。だったら、エリーが教えてあげます。あなたのそのよくわからないって言ってる気持ち、それが、恋愛、恋ってやつですから。女の子の、一番大切な気持ちです。忘れないで覚えていてください」
うつむいた顔を覗き込み「わかりましたか?」と念を押して、エリーはぱっと立ち上がった。空になったカップをゴミ箱に捨てると、ソラの手を取って立たせる。
「あの?」
なかばエリーに引っ張られるようにして歩きながら、小さく疑問を口にしたソラにエリーは振り返りもせず簡潔に答えた。
「次は、お買い物です」




