34・エピローグ
魔獣組合本部についたあとも、メビウスたちは一休みというわけにはいかなかった。
扉を潜ると、苦手な支部への全体通信を終えて疲労困憊なテオをはじめ、補足説明に飛び回ったエリー、深刻な顔で黙り込んでいるウィルとその隣にイザベラ。コナー家四人の瞳に見つめられ、ソラはもちろん、メビウスですら一瞬目をぱちくりとさせる。
内部にいたものといま入ってきたもの。両者の間を不思議な沈黙が支配する。
その沈黙をぶち壊したのは、ぱちぱちと瞬きをしたかと思えば目をこすってみたりしながらも、最終的にはまじまじと太陽の瞳を真ん丸にして呆然と声を出した少年だった。
「……イザベラ? 五年……いや、七年ぶり、か? 変わんねーなあ」
「久しぶりに顔を合わせて、一言目がそれ? 坊ちゃんこそ、育ち盛りの割になんっにも変わってないわよ」
「そりゃそーだろ。むしろ変わってたら困るっつーの」
なんだか同じような会話をテオともしたような気がする、と思いながらメビウスはぼやく。そんな少年を、イザベラは眉を寄せた険のある視線で射抜いた。
「ふうーん。世界中で魔族まで出始めて大混乱してるから、さぞ立派に成長してるのかと期待してたんだけどな」
「ちょっ――」
さすがに言い過ぎです、とウィルが抗議の声をあげる前に、少女の細いが凛とした声がその場に響いた。
「メビウスは! わたしを助けるために無茶をしただけ。わたしのために、死なない選択をしたの。だから、世界がおかしくなったのは、わたしのせい、です」
「ソラちゃんッ」
「……誰?」
珍しく咎めるようなメビウスの声と、唐突に知らない顔に割り込まれたイザベラの呆気にとられた声音が重なる。場の注目を一身に浴びてなお、ソラはしゃんと顔を上げていた。いつの間に、彼女はこんなに強くなったのだろう、とメビウスはソラの揺るがない夜空色を見つめながら思う。
だからこそ。
メビウスは、ぽんぽんとソラの頭を撫でていた。少女の、虚勢を張って強張った身体が、じわじわとほぐれていくのを感じる。
「サンキュな、ソラちゃん。でもまあ、無茶をしたことに変わりはねえし、オレが自分で選んだことだから」
「でも……ッ」
「いいの。あんときのソラちゃんなら、オレが死んでもどーにか持ちこたえられたかもしんねーけど、無理だったかもしれない。そんな可能性に賭けてられる相手じゃなかった。オレは、選択を間違ったと思ってねえよ」
言い切り、きっと全員を見やる。そのあどけなさが残る顔には、いつもの笑みなど欠片も浮かんでいない。そこにいるのは、自分の意思を貫き通す確かな覚悟を決めた、素顔のメビウスだった。
彼は決意の光を灯した太陽の双眸をルシオラに向け、静かに口を開く。
「オレは、封印の鍵だ。だから、いまもこうやって生きてる。生きてる限り忘れることなんかねえ。だけどな、目の前で仲間が殺されそうになったら、オレは何度でも同じ選択をするよ。助ける手段があるなら、オレは迷わず使う。見捨てたら、後悔しか残んねえから」
別段、強い口調で言ったわけではない。淡々と、穏やかに決意を語っただけだ。それなのに、場の空気は完全にメビウスが支配していた。ルシオラですら口を挟めない、圧倒的ななにか。オーラとも言えるようななにかが小柄な少年の身体から迸っているような――そんな錯覚すら覚えるような。
一拍のときを置いて、メビウスがふっと表情を崩す。
「生き返った後に、誰かがいないなんて状況は嫌なんだ。オレは死んでも生き返るけど、皆は違うだろ? だからこれは、生き返るオレだけが言える、究極のわがままだ」
へらりと浮かべた笑みはしかし、普段よりも柔らかくあたたかい。清々しいまでの笑顔を見せつけられ、イザベラは小さく息を吐く。
「……あーあ。相変わらずへらへらとぼけた顔してるけど、こりゃあ中身はようやっと反抗期にはいったか」
見事に毒気を抜かれた。肩をすくめ、少年の笑顔につられて隣で微笑む少女に視線を移す。
「あのコのせいかしらね」
「その通りだよ、同胞。彼女が現れてから、アレは実に、御しにくくなった」
「ルシオラさまでも、ですか」
いつの間にかイザベラの近くに移動して来ていたルシオラの言葉に、イザベラは驚きの表情を浮かべた。
「ああ。最近は本当にやんちゃが過ぎる。二度と無茶をするなと言ったのに、すぐこれだ。……アレには、できるだけ長く生きていてもらわねば困ると言うのに」
後半は、ほとんど独り言のようなものだ。無意識のうちに紅い爪を噛みながら、情報の共有を始めたメビウスを睨んでいると言っても過言ではない強い視線で見つめる。最果ての魔女の、まるで目にしたことがない表情を見、イザベラは気付かれぬように息を呑み込んだ。
金と銀。
左右で違う色を宿した瞳。そこに宿っていたのは。
――怒り、にも似た、苛烈な感情だったから。
ふわふわと前髪を持ち上げて通りすぎていく夜風が気持ちよい。メビウスは寝転んで瞳を閉じると風に吹かれるまま、ふんふんと調子っぱずれの鼻歌を口ずさんでいた。彼の、耳障りの良い声が勿体ないと評されるまるで聞き覚えのない旋律を右から左へスルーしながら、気晴らしに誘った本人――ウィルは以前魔獣退治をした場所で座り込み、話しかけるタイミングを伺っていた。
「いやー、一仕事後に外で伸び伸びごろごろするのは実に気持ちが良いですなあ」
「そうですか。それは誘った甲斐がありました」
道端の草むらで、気持ち良さそうに伸びをした少年を見やり、不愉快な旋律から解放されたウィルはほっと息をつく。今回は鼻歌であり、はっきりと聞こえたわけでもないため問題なくスルーすることができたが、無駄に良い声で朗々と歌い上げられた日にはたまったものではない。自分の音感がおかしくないという極めて通常の事柄を、呪いたくなるほどのレベルなのだ。
「……二千年も生きてきて、どうして気付かないんだか」
「なんか言ったか?」
「いいえ? 虫の声じゃないですか?」
「ふーん」
心の声が思わず外に飛び出してしまい、少年にじとりと見上げられる。が、メビウスはすぐに追及を諦め、頭の下で手を組んだ。
「まあ、いーけど。んで? こっそり夜中に押しかけて来るなんて、どういう風の吹き回し?」
単純に、気晴らしってわけでもねーだろ、といつもの人懐こい少年然とした瞳で問いかける。ストレートに問われて、ウィルはますます口にしにくくなった。わざわざ二人きりにならずとも、と頭を抱えたくなるが誘ったのは自分である。後悔してももう遅い。
「ええ、まあ……。気晴らしも兼ねて、ではあるんですが……」
「ま、大体見当はついてるさ。話したくなったら話せよ。オレは適当にごろごろしてっから」
適当に、ごろごろ。
適当だろうと真面目だろうとごろごろするのは変わらないんじゃないですか、と思わず突っ込みかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。そんな言葉尻をいちいち捕まえていては、朝になってしまう。
どうやって切りだそうかと悩んだ挙句、口にしたのはどうしようもなく遠回りな言葉だった。
「坊ちゃん。……本棚で、僕が鍵なんてかけるべきじゃなかった、って言ったときの言葉、覚えてます?」
「ん? なんだよ唐突に。つーか、そんな話したか?」
本気とも嘘とも取れる少年の反応は想定内だ。答えを待たず、はぐらかされる前に話を続ける。
「しましたよ。坊ちゃんはね、『確かに二千年は長い。でも、鍵にならなければ誰とも会えなかった。それはつまんねえって思う』って言ったんですよ」
「そうだっけ。んーまあ、生まれてすぐ死ぬってのも寂しいよなあ」
どうせ生まれたなら、楽しまねーと、とメビウスは顔だけウィルへと向けてへらりと笑う。対して、ウィルの表情は真剣そのものだ。眼鏡の奥から覗く瞳は、真っ直ぐに少年を射抜いている。
「あーっと。これは、ふざけちゃいけねえ類いの告白ですかな?」
「気付いてるなら、そういう物言いはやめてください」
言われて、メビウスはすっと笑みを消してきりっとウィルの視線を受け止めた。真面目――というよりはドヤ顔のように見えてしまい、むしろいらっとする。さらにいらっとする点は、彼はそれをわかってやっているだろうという点だ。
しばし視線を交錯させて、先に逸らしたのは結局ウィルだった。青年は、大きくため息をついて目を瞑る。その様子を見て、メビウスは少しだけ眉を困らせながら小さく笑った。
「はは、いや、悪い。まーたお前が肩肘張りすぎてるなって思ったからさ。で? そんな話を持ち出して、なに?」
改めて切りだされると、それはそれで話しづらい。目を瞑ったまま逡巡し、夜空を見上げてまぶたを上げた。デア=マキナ周辺の隙間はあらかた閉じられ、澄んだ空気に星がきらきらと瞬いている。
「……僕は、そんな答えを返せる坊ちゃんが、単純に凄いと思ったんですよ。僕なら、二千年死に続けながらも生きなければならないなんて状況に置かれたら、すぐにおかしくなってしまうと思った。人間なんて、そんなに強いいきものじゃ、ないですから」
メビウスから見れば、たった一瞬でしかないだろう時間で、壊れてしまう人間だってたくさんいるのだ。短い生を、現実をなんとか受け止めながら欠けてすり減らして、誤魔化しながら過ごしている。ほんの少しバランスを崩したら、すぐにがらがらと転がり落ちてしまうだろう。
レイモンドはまだ、危うい境界線の上を歩いている。もちろん、彼が母親にしたことは断じて許せることではない。だがそれ以上滑り落ちるまえに、友人の手を取れた。ギリギリで引き戻せるところに、まだ彼は立っている。
「うーん……。オレの場合は、状況が特殊でさ。一緒にいるのがルシオラだろ? あいつも、普通の人間とは時間の流れが違う。オレは自我を持つまえからこうなわけで……凄いっていうか、生き返るのがオレにとっての普通だから、慣れるしかなかったっつーか」
なぜだか申し訳なさそうな笑みを浮かべて、少年は続ける。
「それでもまあ、色々葛藤はあったさ。ルシオラ以外のやつは簡単に死んでくし、生き返るっても死ぬときゃ痛いしな。オレは、お前が思ってるような人間じゃねえと思うぜ」
「無理をしてるっていうのは聞きました」
「無理、かあ。うん、そうだな、それはそうさ。だけどきっと、お前が思ってるような無理じゃ、ねえんだ」
「……え?」
「ソラちゃんにも言われたことがあるんだ。化け物って言われて、どうして否定しなかったのってな。オレは、その通りだからって答えたよ。結局な、無理をしようが、化け物になろうが、最終的に壊れようが――鍵であるって事実からは逃げられねーんだ。オレは、生きてさえいればそれでいいんだよ。だったら、少しでも楽しいほうがいいだろ?」
悟り切った言葉に思いっきり殴られたような気がして、ウィルは思わずメビウスを見やった。いつからか見上げていた、太陽の双眸とかち合う。その柔らかく細めた瞳に浮かぶのは、穏やかに凪いだ光だ。見た目にまったくそぐわない大人びた光を帯びて、静かにウィルの視線を受け止めている。
「いーんだよ。お前がそんな顔する必要はねーんだ。ただオレは――強いとかそんなんじゃねーから、レイの件の参考にはならねえぞってことで」
「あ、いえ」
「……ウィル。バレバレだって。顔にしっかり書いてある」
「だから、真面目な顔してそういうこと言うのはやめてください」
「お前こそ、もう隠し事はやめとけ。どうやっても顔に出るから。あと、一対一で話すんのもな、わかりやすすぎるからやめとけ」
ウィルみたいな真面目くんには、隠し事なんて性に合わねえの、と茶化して普段のいたずらっ子めいた笑顔を浮かべると、夜空を見上げて瞳を瞑る。自分が、彼に隠していることなどどれだけあるだろう、などと考えながら。
口を閉じると、虫の声と夜の優しい風音だけが響いている。しばらくその音色を楽しんでいると、どさりと大きな音がして衝撃に草花が揺れた。横を見ると、ウィルが大の字になって寝転がっている。眼鏡の青年が、そんな子供じみた真似をするのは珍しく、メビウスは心中で目を見張った。
「……確かに。外でごろごろするのも、悪くないですね」
言っていることと表情が、まるで噛み合っていない。眼光は鋭く、眼鏡の奥から夜空を睨んででもいるようだ。
だが、それは見なかったことに、した。
だから、にしっと破顔して青年の言葉に合わせることにする。
「だろ? こーゆーときはな、なーんも考えねーの。頭ん中空っぽにして、くだらねえ話でもするのが一番さ」
「ええ、そのようです。言いたいことが多すぎて、なにも言葉になりゃしません」
「おお、大いに悩めよ青年。そういうもんはな、タイミングが来たら勝手に口から出て来るってもんだぜ」
「その顔で言いますか。坊ちゃん。一応言っておきますが、僕にも隠し事ぐらいあるんですからね。なんでもお見通しのつもりかもしれませんが、そうはいきませんよ」
「へえー。そりゃぜひとも教えてもらいてーもんですなあ」
「馬鹿ですね。教えたら隠し事にならないでしょう」
「うん? その反応は、本当になにか隠してますな? オレが寝込んでるうちにルシオラと手でも繋ぎましたかな?」
「……幼児じゃあるまいし。手ぐらい触れたことはありますよ」
「ふむ。では……まさか、肩! 肩を抱いたとか、どさくさで谷間を覗いたとかそういう!?」
「そ、そんなことするわけないでしょう!? 坊ちゃんじゃあるまいし! え、なんですか、その勝ち誇った顔!」
本当に、くだらない。
後から考えてみれば、本当にくだらないやり取りを延々と繰り広げたものだとウィルは思うことになるのだが。
それはそれで、楽しかったのかもしれない。
少なくとも、自分にとって無意味な時間ではなかったのだと気付かされるのは、もっとずっと先の話である。




