33・廻らない魂
オルトロスの魂が成れの果てから離れたのと同時に。
大地に突き立っていた銀の歯車が、バラバラと崩れ落ちた。地に落ちた歯車はあちこち好き勝手に転がりながら雨に打たれ、しゅわしゅわと泡になって消えていく。
殺気立っていた気配が薄れ、霧散する。黒いものはただの漆黒のかたまりとなり、動く素振りさえ見えなくなった。結界に寄り掛かった巨大な体躯も、そのまわりに散らばった錐となって飛んでいたものもすべて地面に落ちて、主のいない影のように動かない。ただ、静かに雨に濡れている。
「もう、いいの?」
かすかな雨音だけが響く広場で、少女の声は凛として少年の耳朶に届いた。はっとしてソラを振り返る。彼女は、漆黒に覆われた大きな手のひらで、一つだけになった胎児の頭を包み込んでいた。その姿は、いびつではあるが空色の少女が胎児を胸に抱いているようにも見えて、メビウスは声にならない言葉を胸中に飲み込む。
ソラは、胎児を抱きしめて限りなく穏やかに――美しい笑みを浮かべていた。メビウスですら初めて見る、自然に心を締め付けられるような、優しい笑顔。
そこには、出発前に「どうしてわたしなの?」と恐怖していた少女はどこにもいない。それどころか、そんな少女はもともといなかったのではないか、という錯覚すら覚え、メビウスは足を一歩ソラのほうへと踏み出した。ざり、と戦闘で砕けた石畳の破片を踏む音がし、ソラはふっと顔を少年へと向ける。
「……メビウス?」
きょとんと口にした声は、先ほどの笑顔は夢だったのではないかと思ってしまうほど、知っているソラの声で、メビウスは安堵のような脱力感を味わった。ついでに大きく息を吐く。自分でも知らぬうちに、呼吸を忘れるほど緊張していたのである。
「ソラちゃん。……大丈夫?」
へらりと貼り付けた笑顔は、いつもより硬い。色んな感情が綯交ぜになった「大丈夫」も、普段の軽口から比べればがちがちのまま口から滑り落ちてしまった。しかし幸い、ソラは彼の変化に気付かず、左手から血を滴らせているメビウスを眺めてじとりと呟く。
「それは、わたしが言うせりふ」
ソラの言葉にははっと乾いた笑いを返して、メビウスはもう一度大きく息を吐いた。いま、目の前にいるのは自分の知っているソラだ。突然夜空から降ってきた、少し変わっているが愛おしい少女で間違いない。
さきほどの、少女は、とても美しかったのだけれど。
まるで、作り物めいていて、メビウスは違和を感じたのだ。
「ソラちゃん。それは、もう?」
指差そうとしてさっき見咎められたことを思い出し、視線だけ動かして問う。漆黒で覆われた生首状態の胎児。血どころかなんの体液も流れず、艶のない黒が光すら飲み込み凹凸もわからぬほどであるから、知らずに見れば大きな球体を抱え込んでいるように見える。が、メビウスはそれがなんであるか知っているわけであるから、あまりソラに触っていてもらいたいものではなかった。
ソラはそっと夜空色の瞳を伏せると、小さく首を上下させる。
「この子が暴走したのは、オルトロスの魂に影響を受けていたから。本当は、静かにわたしを待っていたかったって、言ってる」
「そっか。前のとは、結構違うもんなんだな」
「そう、みたい。少なくともこの子は、わたしと一緒にいくことを嫌がってない」
そう言って、ソラは優しく黒いものを抱きしめる。少女の足もとから沸き上がる眩い光を受け、彼女の漆黒に覆われた手は元に戻った。白く、華奢なソラ本来の手を胎児から離したのと、彼女の足が石畳を離れるのはほぼ同時だった。
ふわり、と美しい銀髪と繊細な生地で作られたスカートがはためく。圧倒的な光に照らされながら浮かび上がるソラの背中から、銀でできた翼が神々しく広がる。薄手のワンピース越しに、魔法陣を分解したような複雑な文様がソラの身体に具現する。緑色に発光するそれは、彼女の鼓動に合わせて静かに明滅を繰り返していた。
ソラは両手を大きく開き、ゆるりと微笑む。手を離したのにも関わらず、彼女とともに宙に浮かんでいる漆黒の胎児の顔が、まるで笑ったようにくしゃりと歪んだ。結界に押し付けられ、動かなくなっていた身体から、陽炎のようにじわりと影が立ち上る。
天使と化した少女の声が、メビウスの頭上から響く。聞き慣れていながら、初めて聞くその声は、あまりにも透明だった。
色のない声は、なぜかメビウスの心をざわつかせる。心地良いはずなのに、どこか胸の奥をかりかりと引っかかれているような、小さな違和感がある。
「滅びを求めるのなら――わたしと一緒にいきましょう」
告げたのなら――刹那。
成れの果てから立ちのぼった影が、真っ直ぐにソラに吸い込まれていく。吸い込まれたそばから、漆黒の身体は朽ち果て、灰となって消えていった。
最後に残った胎児に向かって、ソラは微笑んだまま頷いた。
ぶわりと、天使を覆い隠すほどの影が出現する。それを受け入れるように、ソラは広げた両手を斜め前に向けた。影は肉体を捨て、嬉しそうにソラの中へと消えていく。
「……これで、ふたつ」
だらりと両腕を下げ、呟いたソラの白い足にぐるりと文様が増えた。
一連の出来事を、メビウスはまばたきをすることすら忘れて見つめていた。見開いた太陽の瞳に浮かぶのは、以前と違い感動ではない。意識が朦朧とする中で見上げたそう遠くない記憶の中の天使と、いま目の前にいる天使ではあまりに違いすぎたからだ。双方に共通点があるとしたら、神々しいまでの美しさ、そこに尽きるだろう。
――天使のソラちゃんを見たい、だなんて。
そんな言葉を軽々しく口にした、さきほどの自分を殴ってやりたい衝動に駆られる。天使の少女は確かに美しい。だがそれは、ソラの持つ素朴で純粋な美しさとは質が違った。圧倒的、威圧的でありながら、すべてを内包する優しさも併せ持つ唯一無二の存在。人族でも、神族でも、魔族でもない。そんな種族など凌駕したちからを持つ存在だと、全身で理解した。
「……ソラちゃん」
一瞬ためらい――ためらった自分に驚きながら――自身が贈った名前を口にする。ソラは気だるげに首を動かし、メビウスの姿を認めるとゆっくりと機械の翼を羽ばたかせておりてきた。
二人の視線が交錯し、一瞬の静寂が辺りを包む。
メビウスが言葉を探している間に、ソラは少年から視線を外すとさきほど見咎めた左手を夜空色の瞳で見つめた。メビウスが気付いて左手を隠す前に、彼女はさっと血にまみれた腕を取る。
「やっぱり、無茶をした」
左手を握られたままじとっと見上げられ、メビウスは返す言葉もない。へらりと普段の笑みを浮かべ、視線を空々しく逸らす。ソラの手が、派手に傷ついた左手から離れたのを感じた。
――と。
ソラの両手がメビウスの背中に回る。逸らした視界の端に、空色に輝く銀髪がたなびくのが映る。少女の確かなぬくもりを身体中で感じて、メビウスは視線を引き戻した。
「ソラ、ちゃん?」
「じっとしていて。いまなら、いつもより強くちからを使うことができるから」
少女の言葉どおり、抱きしめられた自分の身体がざわ、と粟立つような感覚を覚える。大きく傷が開いた上半身と、ソラに直接触れてはいないだらりと身体の横に落としたままの左腕。どちらもが、目に見えて治っていく。時間が戻っているかのように、左の肘まで達していた裂傷はみるみるうちに筋組織が復活し、血管が脈を打ち、ずるりと剥がれた皮膚も膜を張っていく。あまりの回復速度に、伴うのはいつものむず痒い感覚ではなく治っているというのに傷口を暴かれるような激痛だ。どさくさ紛れに抱き着こうとした両手をぐっと握りしめ、こぼれそうになった呻き声を噛み殺す。
「……んぐ……ッ。ソラちゃん、今日は、中々過激ですなあ」
激痛に苛まれながらも、軽口を叩けたのは上出来というところだろう。
「無茶したから仕方ない。元々大怪我してたのに」
冷やりとソラが口にした元からの大怪我は、傷口の中に熱した石でも放り込まれてぐつぐつ煮だっているのではと錯覚するほどだ。正直、怪我を負ったときより、いまのほうが確実に痛い。
それらの痛みが急速に治まりはじめ、メビウスは長い息を吐いて身体のちからを抜いた。どうやらソラの荒療治は終わりに近づいているらしく、いつものくすぐったいような感覚が傷口まわりを支配する。
薄目を開けて、下に落とした左腕を見ながら軽く手を握った。動かしても、痛みも液体が流れ落ちる感覚もない。激痛を伴うが、普段よりも強くちからを使えるというのは、本当だ。
「ほうほう。過激プレイも悪くねーかも」
荒い息をなんとか押し殺しておどけながら、今度こそソラの背中に手を回す。だが、目当てのものに触れることはかなわず、メビウスは困惑気味に瞳を開いた。いつの間にか、ソラの姿が元に戻っている。メビウスは、がくんとわかりやすく項垂れた。
「ソラちゃんの羽……。今回も触れずか……ッ」
「……?」
不思議な顔をして、ソラががっくりとうなだれたままの少年から離れる。そのまま動かない彼の顔を、かがんで覗き込んだ。
「怪我は治ったと思うけど。まだどこか痛い?」
「……いや。サンキュな。かなりちから使わせちまっただろ」
逡巡のもと、顔を上げたメビウスの表情は、見慣れた笑顔を浮かべていた。つられて、ソラも自然に微笑みを浮かべる。
「大丈夫。魂が二つになったから、前よりちゃんとちからが使えたと思う」
「……魂が、二つ? 前より?」
「魔王の……成れの果ての魂。身体と一緒に、ばらばらに宿っているの。だから、一つでは天に還ることもできないの」
――滅びを求めるのなら、というソラの台詞がよみがえる。
つまり。
「一つになるのを待ってる……って」
まさか、本当にそのまんまの意味? と唖然とした表情が、言葉よりもはっきりと疑問を語っている。ソラは、微笑みを少しだけ曇らせて、首をこくりと上下に動かした。
「これは、いびつな魂だから。元通りにしてあげないと、廻ることができないの」
胸に手を当てて下を向いた少女に、メビウスはきょとんとたずねる。
「廻れない魂? それを、ソラちゃんが? ソラちゃんは、いままでもそんな魂を救ってきたの?」
「わからない。わからないけど――」
――きっと、違う気がする。
最後の言葉は、胸の中でのみ続けられた。曖昧に濁した続きは、少年が勝手に解釈したようで「あ」と呟くと苦笑いを浮かべて頭に手をやる。
「そっか、そうだよな。簡単に思い出せてたら、今頃本当の名前だってわかってるよな」
眉を困らせながらもにしっと笑うメビウスに、思わず押し込めた考えを口に出しそうになる。
「……帰ろっか」
しかし、少年が先に提案をしたため、それはソラの口から飛び出ずに済んだ。言わなくて良かったとなぜか安堵の気持ちを覚えながら少女は頷き、空の色を映した銀髪をなびかせて歩き出す。
そんなソラの後ろ姿を眺めながら、メビウスはいつもの笑みを静かに消した。横に、ルシオラが降りてくる気配がしたからだ。魔女の、片方だけの翼が目の端できらめく。
「お前、最初から参加する気なかっただろ」
隣に降りた魔女をちらりと見、じとりと本音を吐くと歩みを進めた。彼女は「心外だな」と楽し気に呟いて、大げさに肩をすくめる。
「もちろん、興味はあったさ。成れの果てとやらも実物を見てみたかったしな。しかし、それよりも強大な魔力が結界上に出現したゆえ、仕方なく相手の牽制役を買って出たまでだ」
「牽制、ね。それで? 高みの見物して、なにかわかったか?」
珍しく、ルシオラは笑みを消して紅い唇に指を当てる。カツカツと、高いヒールの音だけがメビウスの耳に届いた。魔女が口にできる答えを用意していないのは、とても珍しいことである。
「……そうだな。気になることならいくつか。たとえば、あの魔王だったものは、なぜ胎児の姿をしているのだろうな」
「……は?」
予想外の答えに、メビウスは思わずルシオラを見た。彼女はいまも笑みを浮かべておらず、唇を触りながらどこか遠くを見ているようだ。
「最初が腕、今回は足。それらの特徴は持っていたが、胎児の顔を持っている意味がわからない。声らしきものをだすこともなく、目を開くこともないのだぞ。行動するには不必要なものだろう。それでもついているからには、必ず理由があると私は思っている」
「まあ、そう言われりゃーな。不気味は不気味だけど、真っ黒だからそもそも顔自体よく見えねーしなあ」
腕を組み、メビウスが呻く。一瞬の間を置いて、ルシオラが切りだした。
「あくまでも仮説だが。胎児とは、生まれてくる前の赤子の姿だ。つまりアレは、これから生まれてくるという意思の表れではないのかね」
「いや、でもソラちゃんは。成れの果ての魂は、元通りにしないともう廻ることができないって」
「ふむ。元通りにするとは、これまでのように成れの果てを取り込んでいくということか。では、それらがすべて集まったとき、その魂は解放されるのか、もしくは別のなにかとして生まれ落ちるのか――胎児の姿はそれを示唆している。ソラの言葉と合わせても、仮説としては成り立つだろう」
「仮説としてはな。でもアレはもう魔王じゃねえんだろ? だったら、なにが生まれるっていうんだよ」
「さあな。そこまで仮定するにはあまりにも材料が少なすぎる。ただ、あの胎児の顔には、そういう意味があるんじゃないかとそういう話だ」
それきり、ルシオラは口を閉ざしてしまった。メビウスにしても、追随する手札がない。すぐ先を歩く少女の、翼の代わりに空色に輝く髪が揺れる背中をぼんやりと見つめ、こつんとつま先に硬いものが当たった感触がして足を止める。
雨の範囲から逃れた小さな歯車が一つ、石畳の上に落ちていた。もう、なにものとも嚙み合わぬ歯車。一つでは、なにも動かすこともできない。
なんとはなしに拾い上げ、ころころと手のひらの上で弄ぶ。
「……ルシオラ。いったいどれが、本当のソラちゃんなんだろうな」
メビウスの口からこぼれた言葉を、ルシオラは違う意味で受け取ったようだった。
「どれが、とは? ひとと変わりない普段の姿、成れの果てを具現した姿、そしてあの天使のような姿――どれもがソラの持つ姿で、本当の姿だと思うがね」
淀みない返答に、ルシオラと自身が持つソラへの興味がまったく違うところにあったな、と思い出す。だから彼は「ああ」と曖昧な言葉を落として口を閉じた。
少年が言っているのは、外見のことではない。内面の、性格――いや、もっと複雑な問題だ。気弱なようで意外と芯の強い、メビウスがよく知っているソラか、時折見せる、命や魂について詳しく、淡々と語るソラか。それとも、いま初めてしっかりと見た、美しいが冷たく魂を刈り取り、あたたかく内包する天使か。
それもいつか。
少女の記憶が戻れば、わかることだろう。そして多分、記憶が戻ることは、少女が自身を知ることは喜ぶべきことなのだ。たとえ、過去になにがあろうと、名前すら思い出せない状態はやはり自然ではないと、メビウスは思う。
ふと足を止め、左手をじっと見つめる。そこにすでに傷はない。まるで、なにごともなかったかのように、剥がれた皮膚も、弾け飛んだ爪も再生している。唯一、ぼろぼろになった袖についた血だけが、彼が怪我をしていたことを証明していた。
――告死天使。
いつだか、ルシオラが言った言葉だ。死を告げる天使ゆえに、死神とも揶揄される。成れの果ての魂を刈り取り、しかしその手で次にはメビウスの傷を癒し、微笑んだ。
本当の、姿なんて。
――ためらう必要など、どこにもない。
ありのままを、受け止めればいいのだ。
「……きれい、だった」
そっと吐き出した、誰の耳にも届かぬみじかな言葉。メビウス自身、いったいなにを指しているのかわからぬまま口にしてしまった言葉。わからないのなら、それは意味を成さない端的な音の集まりだろう。
そんな、音の集まりが吸い込まれていった空を見上げて。
きれいだったんだ、とメビウスはもう一度、呟いた。




