31・軋む歯車
一本、また一本と巨大な錐がメビウスに、はてはその後ろにいるソラに向かって飛ぶ。最高潮まで引き上げられた集中力のお陰で、錐の位置はすべて把握できている。
――焦るな。
先頭を切って飛ぶ錐がメビウスに届くのと、最後尾についた錐が得物の攻撃範囲にはいるのと、どちらが先かは微妙なところだ。しかし、焦って取り逃がすわけにも、機を逃して自分が倒れるわけにもいかない。一撃で仕留める必要がある。
――最悪を、考えるな。
目が覚めてから、弱気の虫に取りつかれている感があった。メビウスはおもむろに目を閉じると、思考の隅に入り込もうとする雑念をリセットする。
よりクリアになった聴覚が。空気が震える感覚が。その瞬間を告げた。
「飲み込め――ブリュンヒルデ――ッ!」
言葉より先に、ブリュンヒルデを大きく真横に振り切っていた。星屑も一斉に追尾を開始する。
普段と違う手応えに、ぱっと見開いた太陽の双眸に映ったもの。
斬撃の軌跡に沿って、巨大な衝撃波が生まれていた。まるで解放時に発生する浄化の光の如く強大なちからを秘めて、瘴気を巻き込みながら成れの果ての半身に迫っていく。
メビウスが錐を跳ね返して瘴気を巻き起こしてからブリュンヒルデを振り切るまで、実際は一分もかかっていなかっただろう。圧縮された浄化の衝撃波は、襲い来る漆黒の錐をことごとく飲み込み、粉砕していく。一緒に広場に植えられていた街路樹や、広場の目玉である時計塔の端までもをがりがりと削り取り、体勢を立て直そうとしていた成れの果てへとぶち当たり、広場にかけられた結界にその巨躯を押し付けて弾ける。黒いものは、ずん、と大きな音を立てて地面に沈んだ。そのまわりには、巻き込めなかった錐の欠片が星屑の短剣によって縫い留められていた。
立ち込める土煙と、一瞬の静寂が結界内を支配する。
ひゅっと鋭い音が耳に届いた。土煙を切り裂いてなにかが飛んでくるのを認め、メビウスは反射的に左手を伸ばしてつかみ取る。握られた手の中から逃げ出そうと、勢いのままに手のひらをずずっと移動した。絶対離すまいと強く握りしめた左手と一緒にふわりと浮き上がった身体を、ブリュンヒルデを突き刺して踏みとどまろうとする。
「……ぐッ」
つかんだものは、錐の破片だった。破片とはいえ槍程の長さと太さがある。人間が貫かれれば、場所によっては即死も免れないだろう。
暴れる錐の勢いを、どうにか両の足を踏ん張って、地面に突き刺した得物に右手一本で縋りついて引きずられつつも弱めていく。左の手のひらがずるり、と動いた感覚がした。次いで、焼けるように熱さがやってくるとぱたぱたと赤いものが地面に落ちた。
熱さを自覚すると同時に。
「う……ッ」
左手から侵食してくる、冷たさも自覚する。前にも、成れの果てに触れられたときに感じた、嫌な感覚。戦いの最中であっても得物を手放してしまうほどの、死を思い出す寒さ。内臓が直接冷たい手で握られているような、身体が内側から冷えていく、命の炎が消えて死を待つだけのような――。
「……通さねえって、言ってんだろッ!」
声に出すことで精神を繋ぐ。ぎりっと歯を食いしばり、ブリュンヒルデを握りしめて強引に足を止めた。左腕が一杯に伸ばされ、のけ反る身体を右腕で引き寄せ、大きく足を踏み込んで全力で投げ返す。耐えられる限界までちからを受け止め、勢いを乗せて返した黒い錐は空気を切り裂いて一直線に飛び、立ち上がろうとしていた成れの果ての胴体を穿った。凄まじいスピードで背後の結界に身体を打ち付けられ、黒いものが身悶えしながら崩れ落ちる。漆黒の身体が崩れても、銀の歯車だけがまるで背骨のようにそびえ立っているのが不気味である。
「回収する手間が省けたろ?」
肩で息をしながらも、にっと口の端を持ち上げて笑う。ひしゃげた頭部に接続した漆黒の両手を這わせたまま動かないソラと、恐らくは動けないのであろう双頭の胎児に一瞬だけ目をやった。が、すぐに自分の相手に視線を戻す。
しねないいきもの。
死なないのではなく、死ねない。なぜ、この黒いものは死ねないのだろう。どれだけ傷つけても死なないどころか、痛みも感じていないようである。以前、ブリュンヒルデによって内部から爆散させても、なんの問題もないように動いていた。感覚だけではなく、感情もなにもないように見える。ただ、本能のままに動いているようだが、その本能はいったいどこから湧いて出ているのだろう。
何度戦っても、釈然としない手応えのなさ。自分だけが空回りしているような、気持ちの悪さが押し寄せてくる。
そもそも。
魔王だったものが、どうしてこのような変化をしたのだろう。
黒いものを監視しながら浮かんだ疑問。だが、その答えを考え始めるより早く、いままで静寂を保っていた最果ての魔女の言葉がメビウスの耳朶を打つ。
「いったん落ち着いたか。ならば、あれに気付くだろう?」
ルシオラは、鋭い視線で上空を睨んでいた。つられて見上げ、彼女がなにを牽制しているのかを知る。瘴気のかたまりと言っても過言ではないような成れの果てと渡り合っていたため、彼がいることに気が付けなかった。
この、気配は。
何度も渡り合った相手だ。間違えようもない。
「ルシオラ。上の気配はほっとけ。それより目の前にやつに集中しろ」
あっさり言い放った言葉に、魔女は意外そうな声で返した。
「おや。気が付いていたのか。ならばわかるだろう。この気配は魔族――それも上位のものだ」
「いーんだよ。向こうが手を出してこねえなら、わざわざこっちから状況を面倒にする必要もねえだろ?」
「……確かにな。だが、動きを感じたら手は打つぞ」
「ああ、頼む」
はるか上空に感じる気配は、ジェネラルのものだとメビウスにはわかっている。こちらが成れの果てと接触したのを知り、様子を見に来たのだろう。彼の目的は、ソラと成れの果てを手に入れることだが、いまは手を出す必要もないはずだ。
ジェネラルは、自分たちよりもずっと成れの果てがいったいなんであるのかを看破している節がある。しかし、確実に言い切れる証拠もないのだろう。だから、観察しに来ただけだ。自分の推測がどこまで正しいのかということを。
ちらりと、だが広場を覆っている結界すら貫きそうな鋭い視線を上に飛ばし、メビウスはすっと目の前で崩れたままの黒いものに朱の双眸を向けた。ソラからかなり引き離したとはいえ、成れの果ての再生能力は異常に高い。それを防ぐには、再生する暇もないほど攻撃を続けるか、どうにかして少しでも動きを止めるしかない。同じレベルの攻撃を連発できれば簡単だろうが、いまの自分ではそうもいかない。耐えられたところで、あと一発が限度だろう。さらに、めいっぱいのけ反ったことで開きかけていた上半身の傷口も開いたようだ。じわりと血が染み出す生暖かさを感じる。
錐を投げ返した左手を、忌々しそうに睨みつける。黒いものに触れたときの、直接内臓を掴まれたような冷たい不快感は消えてはいるものの、手のひらから肘辺りまで赤い肉が見えるほどぐずぐずになり血が垂れ流されていて、いまは使い物にならないことが一目でわかる。
血だらけの手のひらに、額から汗が流れ落ちた。
ぽつりと、一粒。
――魔族の王は、雨が嫌いなんだそうですよ。
嫌になるほど見せられた、夢の中の言葉。
はっとする。
「ルシオラ。雨だ! 雨を降らせろッ!」
「雨? 浄化の雨か?」
「なんでもいい! これが魔王だったもんなら、雨が嫌いなはずだ!」
「なぜ、そんなことを――」
「封印の日は、雨だった。ブリュンヒルデが言ったんだ。魔族の王は、雨が嫌いだって」
腕のときは、浄化の雨だったから嫌がったのだと思った。しかし違ったのだ。夢の中身がすべて正しいと仮定するならば、あれは雨だから厭う素振りを見せたのだ。
ルシオラは一瞬、訝しむように首を傾げた。かの夢の中へは彼女をもってしても入れない。メビウスが死んでいる間、必ず見るように仕掛けたのはブリュンヒルデなのか、それとも単におまじないの副産物――偶然、ということもあり得る。夢の内容がどこまで本当なのかはわからないが、あの日、雨が降っていたのは記憶に残っていた。
ならば、やってみてもよかろうと、最果ての魔女は上空からソラが抑えている上半身と、結界近くまで吹っ飛ばされ、銀の歯車だけが立派にそびえ立っているぼろぼろの下半身を交互に見た。上半身はソラにも危害が及ぶ可能性がある。よって、狙いは崩れ落ちた下半身――というより、その中でもほぼ無傷な状態の歯車だ。
ふわ、と右手で宙になにかをえがく。たった一筆えがいただけの見えない文字は、ぐるりと回転しながら歯車の上へと飛んだ。回転するたびそれは膨れ上がりながら魔法陣の体を成し、銀に反射して煌々と輝いた。
「浸蝕する雨」
ちからある言葉だけを口にして、最果ての魔女はぱちんと細い指を鳴らした。
健在を訴えるいびつな歯車に、魔法陣から赤い雨がしとしとと降り注ぐ。
ソラの中に、雨を浴びている成れの果ての半身が苦しむ声が聞こえてくる。本来ならば持っていないはずの感情だが、オルトロスを取り込んだことにより、負の感情を少しだけ持ち合わせているようだった。
つまりは。
この成れの果ても、いびつ。
いびつで、軋んでいる。
ひしゃげている頭部の、耳の上辺りに黒く変貌した両手で触り、ソラは魂に向かって語りかけている。オルトロスは少女と対峙したとき以上の恐怖に支配され、また成れの果てもそれとは別の感情に恐慌し、どちらも動けない状態にあった。
オルトロスの魂は、成れの果てのいびつな、欠け落ちた魂と同化しそうになりながらもなんとか自身をたもっていた。そこから感じられるのは、身体が消失したときの、恨めしそうな視線だった。
――なぜ、お前は。
オルトロスは必死に意識を刈り取られぬよう、呪詛を吐く。ソラはなにもせず、静かに耳を傾けるだけだ。
――お前は、すべてを持っているのに。
――ずるい。
「……ああ。あのとき、あなたはそれが言いたかったのね」
感情の薄い声。だが、そこになにも込められていなかったわけではない。
空色の少女は、とても悲しそうな顔をしてオルトロスを見ていた。
――ああ、ずるい。なぜ気づかない? ずるい。なぜ――ずるい。ずるい。認めない。ずるい。ずるい。ずるいずるいずるい。ずるい。ずるい。ずルい。ずるい。ズるい。ズルい。ずるい。ずるイ。ズルイズるイずるいズルイズルイズルイずる――イずるいず――るいズル――。
ぱん、と大きな音を立てて両手が弾かれた。同時に、ひしゃげた頭部が霧散してゆく。取り込まれていた魂もまた、成れの果てから弾かれて上へとのぼっていく。
「そうね。あなたは――違うもの」
一緒には、いきられないもの、とソラは視線を伏せて呟いた。




