30・それぞれの戦い
「やっと――わかりました。あなたのことが。そしていま、あなたは限りなくまともだということも」
レイモンドはなにも言わず、ただ穏やかな表情を貼り付けて立っていた。こころなしか、少しだけ気の弱そうな、ウィルの知っている顔も混ざっている気がする。彼を理解したことで、得体の知れない不気味さが払拭されたから、見知った面を見出すことができたのかもしれない。
それなのに。
銃を持つ手を、おろせない。
幼馴染に真っ直ぐ向かった銃口を、さげることができない。
そんな自分が恐ろしくて、ウィルは言葉を紡ぎ続ける。話している間は大丈夫。
それこそ――。
意思の疎通ができている間は大丈夫だと、自身に言い聞かせるように。
「僕はずっと、あなたの表面しか見ていなかったんですね。あなたは、なんどもサインを出してくれていたのに」
顔を腫らせて遊びに来たことがある。もちろん、ウィルはどうしたのかと問うた。
――お母さんに、怒られちゃって。
幼かったレイモンドは、ばつの悪そうな笑みを浮かべながらも事実を述べていた。それに対し、自分はなんと答えただろうか。
――ああ、エリーも母さんのプリン勝手に食べて拳骨もらってましたよ。
呆れながら、そんな答えを返した気がする。そしてこんなやりとりは、一度や二度ではない。いつでも彼は素直に話してくれていたのに、気付けなかった。
やがて時は経ち、レイモンドが傷をこさえてくることはなくなった。その頃から彼は魔獣に興味を示し、魔獣組合にも興味を持ち始める。魔獣組合で開示されている魔獣の情報や文献を読みふけり、気になる情報は書き出して毎日毎日紙が真っ黒になるまで手を動かしていた。
――レイは、やっぱり学者になるの?
手を止めることなく頷いた兄よりも一つ下の少年の手元を覗き込み、エリーは「ええ~」とげんなりした表情を浮かべた。
――エリーはお勉強するより、身体動かしてたほうがずっと楽しいな。
――エリーさんはそのほうが似合うよね。俺は、勉強頑張るぐらいしか、できないから。……父さんと一緒にいたいから。
傷をこさえてこなくなった代わりに。
幼いエリーを相手にしてでさえ、弱気な、後ろ向きの発言が増えた。父と一緒に暮らしたい、という発言が増えた。あまりに熱心だったため、ウィルは彼の言葉をそのまま鵜呑みにしてしまっていた。
「身長の伸びたあなたに、手を出すことはなくなった。けれど、そこからが本当の、地獄だったのではないですか? 言葉で、あなたとあなたの父さんを比べ、罵倒した。あなたがなにもできない人間だと、心を抉った。どうしてなにも……言ってくれなかったんですか」
「……言う必要がなかった。俺が馬鹿でなんの取柄もないことが、悪かったんだから」
ここにきて、レイモンドは一瞬答えを躊躇した。檻の中から少しだけ視線を逸らした彼を見、ここが正念場だとウィルは言葉を畳みかける。
「なんの取柄もない……そんなあなたが、どうしても坊ちゃんについて行きたかったのはなぜです? 僕かエリーしか一緒にいられないことを知っていながら、それでもあなたは引き下がらなかった。僕は、どうしてもその答えが知りたいんです」
あの。
くだらないケンカの、真実を。
彼を理解して、すでに答えは見えているのだけれど。
答えは、幼馴染の口から聞きたかった。
聞きたかったのだけれど。
レイモンドは首を傾げ、ゆるりと微笑んだ。
「答えもなにも、あのときに言ったことがすべてだよ。魔獣について知りたくて、色んな土地に行ってみたかった。ただ、それだけ」
「違う。あなたは、逃げ出したかったんだ。この街から、いや、両親から。だから、叶わないと知っていながら声にした。……レイモンド、あなたはあのとき、初めて言葉にしたんですね?」
――俺が行く、っていうのはどうかな?
それは、控えめな主張だった。そして、あり得ない主張でもあった。旅立つ準備をしていたウィルも、自分が行くと我がままを言い続けていたエリーも口を閉じ、聞き間違いかと二人で唖然と顔を見合わせたのを覚えている。言葉をなくした二人に向かい、レイモンドはもう一度、おずおずと切り出したのだ。
――俺なら、一人で動けるし。魔獣についても役に立てると思う。
――ごめん、レイ。そういうことじゃないんですよ。これは、僕たちの問題で……。
――ああ。俺は蚊帳の外ってことか。まあ、元々部外者だしね。
思い出しながら、ウィルは心の中で「ああ」と呟いた。彼を意地にしてしまったのは、自分の発言だったのだと気が付いたからだ。当たり前のように僕たちの問題、と口にしてしまった。
「僕が、あなたに会うのを避けていたのは、自分自身と向き合う自信がなかったからだったようです。情けないでしょう」
「ウィルさんがなにを勝手に納得しているのかは知らないけど。俺は結局、残って良かったんだ。母さんの発作の回数が増えて、どうしようもなくなって父さんを頼りに中央に行かなければ、教授には会えなかったんだから」
「……プロ、フェッサー?」
嫌な予感が、ぞわりと背筋を駆けのぼる。
その、呼び名は。
レイモンドは、手に持ったままの注射器を恍惚と見つめ、嬉しそうに微笑む。
「父さんと同じ研究者だよ。彼が、瘴気を使った治療法を教えてくれた。少しずつだから、合わないようならやめることができるし、大丈夫であれば人間の病気はほとんど治すことができるって。ただ、瘴気を使うから、あまり目立つ場所で使える薬ではないとは言われたけどね」
「……それは」
ウィルの言葉を遮り、にこにこと笑みを貼り付けてレイモンドは続ける。
「でも幸い、ここがある。母さんが元の優しい母さんに戻ってくれるならって、俺は心を鬼にして治してみせるって決めたんだ。母さんは運よく適合して、いまはすっかり優しくなった。少し見た目は変わっちゃったけど、そんなの歳を取れば些細なことだよ」
「レイモンド。あなたは、母親を自分の手で、魔人に作り替えたんです。どんな理由があろうと、その事実は変わらない。だから、僕は――あなたを危険人物とみなし、魔獣組合の人間として拘束します」
話を打ち切るように、事務的な口調で告げると銃口を向ける。殺す気はないが、銃を下ろす気もまた、なかった。たとえ幼馴染であろうと、動けなくするぐらいの覚悟は持って、武器を持っているつもりだった。
銃を持つ手に、余計なちからがはいっている。視野が狭くなっていることにも、気が付けない。
「や、メて、ウたナイで……! このコは、なニモわるク、な……!」
「……ッ!」
枯れ木のような身体のどこにそんなちからが残っていたのか。『母さん』はごわごわとした声で叫びながら、檻の扉を破壊してウィルの身体に体当たりするとレイモンドの前に立ちはだかった。完全に不意を打たれ、衝撃で手放してしまった銃の行方を追いながら、『母さん』の姿を間近で見、ウィルは幼馴染の過ちを目に焼き付ける。
骨と皮と言うにも細すぎる身体はところどころ黒ずみ、じゅくじゅくと血と瘴気が混じったような赤黒い液体を垂れ流している。記憶の中では美しい栗色だったはずの髪の毛は色が抜け落ち、伸び放題の髪自体もまた動くたびにはらはらと散っていく。そして髪より鮮やかな赤茶の色を持っていた瞳は、魔人の特徴とも言える銀の瞳に取って代わられていた。
確かに、言葉は通じている。簡単な会話もできるのだろう。
だが、それでも。
赤黒いものをぼとぼとと落としながら、必死に骨だけのような両腕を広げて幼馴染の前にふらりと立っているそれは、もうひととは呼べないだろうことは明白だ。先日、メビウスが躊躇なく斬り伏せた本棚の近くに身を寄せていた子供たちと、なにも変わりはない。意思の疎通ができるとは言っても、こんな姿でこれからどうやって暮らしていけと言うのだろう。
「……あなたは、そんなことすら、考えられなくなっていたのですね」
ぽつりと、こぼれた。
「これは、僕の――いえ、気付けなかったみんなで引き起こした惨事なんでしょう。だから、僕にも、責任はあります」
落とした銃を見、レイモンドの前に立ちふさがる哀れな魔人を見やり。
彼女の後ろでゆらりと立っている、壊れてしまった友人をしかと見据えた。
左手にはコートの下から取り出した、もう一丁の銃を構えて。
――魔人化した人間は、元には戻らない。
メビウスが口にした言葉を思い出しながら、静かに目を閉じる。渓谷での子供たちを、本棚で変貌した少女の姿をまぶたの裏に映し出す。
知っている人間だからこそ、終わらせてやりたい。これ以上、ひとでなくなる前に。
それが、ウィルの答え。
引き金に、くっと指をかける。
覚悟は――決まった。
ガァンと空気を震わせて、破裂音が鳴り響いた。
ばきんと固い音を立て成れの果ての歯車が砕け散り、二人で握った刃は勢いよく黒いものを中ほどから切断した。泣き別れた上半身は、重力に任せて落下しているように見えるが、ひしゃげた胎児の顔が明確にソラに向かって牙を剥く。メビウスが動くよりも早く、ソラは接続した漆黒の手をブリュンヒルデの柄から放すと、深い夜空色の双眸で落ちてくるものを見やる。
「オルトロスはわたしに用があるみたい。あの魂は、わたしがなんとかする」
決意を込めた横顔を見つめ、メビウスは喉元まで出かかった言葉を飲み込み「わかった」と頷いた。
「でも、無理だけはしねえこと。あと、無茶もな」
「前者は考える。後者は、メビウスには言われたくない」
ソラの返事に少しだけ目を見張る。混ぜ返すような対応は、あまり聞いたことがなかったからだ。ほんのわずかだが心の距離が縮まった気がして、意識せずとも顔がほころぶ。
「さてさて? オレは無茶なんかした覚えありませんがなあ」
とぼけた声で返すと、メビウスは頭を落とされても地面に倒れる節のない胴体に得物ごと突っ込んだ。歯車を避けて突いた一撃は簡単に漆黒の身体に刺さり、攻撃の勢いのままわかれた半身と離れて飛んでいく。好き勝手に生えた足が、もぞもぞと動いて反撃の意を示す。
「じゃオレは、こっちがソラちゃんの邪魔をしないようにしねーとな」
銀の部分を蹴り飛ばし、自身が後ろに飛ぶことで長く広くなった刀身をなんとか成れの果てから引き抜いて、メビウスは追撃をいれるために駆けた。背後から、ソラが具現化させた漆黒の手がオルトロスと混じった頭部を受け止めた衝撃が伝わってくるが、少年はあえて振り向かない。
なぜなら。
彼女は、魂をなんとかする、と言ったからだ。魂の扱いにおいて、ソラより秀でているものはこの場にいない。ルシオラですら、それに関しては勝てないだろう。
だから、任せた。
その代わり。
「半身には絶対邪魔させねえ!」
吠えて、吹き飛びながらもこちらに伸ばしてきた多数の黒い足を豪快に斬り飛ばす。落とされた人の足の形をしていたものは、地面に着く前にぐるぐると高速回転をはじめ、一斉に飛んでくる。一本でもメビウスより大きいそれは、まるで漆黒の錐だ。当たれば身体に穴が開くどころか、引きちぎられてしまうだろうことは容易に想像できる。
メビウスは見極めるようにすっと目を細め、走りながら重心を落とした。後ろにはソラがいる。避けることはできない。
すべて、叩き落とす。
間近に迫った一本を跳ね返すように剣を振り、直後に迫ったもう一本に激突させる。二本の衝突で瘴気が巻き起こり視界を遮るが、そこは計算済みだ。漆黒の光線と化した成れの果ての攻撃は、回転しているのだ。瘴気を巻き込み切り裂いて、どこに何本あるのかがはっきりとわかる。
「絶対邪魔させねーって言っただろ」
呟いて立ち止まり、剣を持つ右手に集中する。自分の身長よりも大きな剣は、メビウスの呼吸に呼応するかのように青い光が刀身を駆け抜けた。そのたびに、幾何学模様が浮かんでは消え、少年の心音とシンクロしていく。浄化の青い光が、命の赤い光よりも輝きをみるみる増した。柄を握る感覚が消え、剣は右手の延長になっていく。ざっと左手を振れば、短剣の形に変化した星屑がメビウスの周囲にぐるりと現れ、空中で待機する。
それは、ほんの刹那の時間だったのだが、メビウスにはやけにゆっくりと感じられた。集中した右手に、得物の膨大な魔力が流れ込んでくるのがわかる。闇よりも暗い漆黒の錐が、回転しているのがはっきりと見て取れる。
一度メビウスの中に入り、身体中を破壊してまわったブリュンヒルデの魔力は、そのお陰で少年とのちからの結びつきを強くさせていた。皮肉にも、隅々まで内部から蹂躙されたことでメビウスは神族の魔力を一度壊された個所に浸透させ、自身のちからとして扱うすべを手に入れていたのである。
すべてがスローモーションに見える中で、メビウスはじっとそのときを待つ。錐も瘴気も、一気に吹き飛ばせる――少年の、ブリュンヒルデの攻撃範囲にすべてがはいる、そのときを。




