16・不器用な本音
「聞いていたのか」
扉を後ろ手で閉めながら、ルシオラは扉の横で立ち尽くす眼鏡の青年に問うた。ウィルは気まずそうに頷くと「聞くつもりはなかったのですが……」と歯切れの悪い言葉を返す。
「……ルシオラさん。もうちょっと、坊ちゃんに優しくすることはできませんか」
「おや、珍しいことを言うな。お前も相当手厳しいぞ?」
「いえ……それでもさすがに、死ねば良かったと割り切ることはできませんよ」
「そうか。意外だな」
少しだけ、笑ったようだった。同意しなかったことで、いつも自信にあふれたルシオラが急にいなくなってしまうような気がして、ウィルは言葉を絞り出す。
「僕は、ルシオラさんや坊ちゃんのように長い時を生きていません。だから、死なないと知っていても、坊ちゃんが死ぬことには慣れられないんです。多分、一生慣れないでしょう」
「……そうだな。私もアレも、最初は違和感があったはずなんだ。もう、忘れてしまったがね」
お前たちに強いるのは、酷だな、とルシオラは呟く。
「すまない。私も、わかってはいるんだ。だが、私にはできない。私が仕上げをした以上――いまのアレに、これ以上死なれては困る」
自嘲的な響きをともなわせ、ふっと目を伏せる。
「アレを飼い殺さなかったのは、私のエゴだ。私は、決められた世界から出られない現実を、少しは知っているからな。アレに選択させたのは、私が選べなかったからさ。その結果が、これだよ。だから、本当の責任は、私にあるんだろう」
……無理ならしてるさ。ずっとずうっと無理してるよ。
本棚で、少年が口にした本音を思い出す。しかし、同時にまぶたの裏に思い浮かぶのは、誰にも会えなかったら、それはつまんねぇな、と言って照れたように笑った彼の顔だ。あの言葉こそが本当の彼の気持ちで、さきほど部屋の中から聞こえた叫びは、ルシオラへの本音でもあるだろうが自分自身にぶつけた――選択を誤った自分自身に向けたどうしようもない怒りでもあるのだろう。いまさらたらればでルシオラに責任転嫁するぐらいなら、とっくに彼の命など尽きている。
ずっと二人でいたくせに、とウィルはそっと嘆息する。
「……どうしてそこまで不器用なんだか」
「……お前、聞いてたろ」
部屋に入った途端、魔女と同じことを問われて青年は薄く笑う。
「あれだけ大声を出していれば、聞くなというほうが無理です。あまり大きな声を出しては、身体に障りますよ」
言いながら、水のはいった桶とタオルをベッドサイドのテーブルに置く。背中を向けて毛布に潜ったままの少年を見下ろし、ウィルは額に手をやるとわざとらしく深いため息をついた。
「まったく。子供ですか坊ちゃんは。とりあえず、僕の仕事をさせてもらいますよ」
「は?」
間の抜けた声を出した少年に構わず、先ほどの吐血で汚れた毛布を一気にはぎとる。大きなベッドの上で丸まっていた小柄な身体を有無を言わさず起こすと、ベッドに腰かけさせた。上半身に巻かれた包帯を器用に巻き取り、薬を沁み込ませたガーゼも傷口から剥がしていく。そうしてあらわになったのは、肩から腰にかけて斜めに斬り裂かれた大きな傷だった。すでに縫い合わせてあり、目が覚めて引きつるような痛みが走ったのはこのせいだろう。
ウィルはてきぱきと慣れた手つきで患部の汚れを拭きとり、新しい薬をガーゼに沁み込ませると手際よく傷口に貼っていく。冷たい薬がじくじくとした痛みを訴えるが、文句を言うよりも早く、ウィルは包帯を元通りに巻き直していった。手際の良さに、思わずみとれる。
が、しかし。
「ソラちゃんは……無事だった?」
少年の傷口には、ソラが回復を試みた形跡はなかった。彼女が触れているなら、全快はしなくとももう少し傷口が小さくなっていたり、自然にくっついていたりしてもおかしくはない。
ウィルはメビウスの足を慎重にベッドサイドの椅子の上に乗せながら、彼の左手を指差す。
「無事です。怪我も大したことはありません。何度かお見舞いにもきましたよ。坊ちゃんの左手、治っているでしょう?」
言われて、左の手のひらを見やる。ブリュンヒルデを呼ぶために自ら傷つけたそこは、なにごともなかったかのようにきれいに再生していた。
「ソラさんが、ずっと手を握っていました。その効果でしょう」
「……ソラちゃん」
「初めて魔獣と一人で戦ったんです。怪我より心労のほうが大きかったんでしょう。いまは、隣の部屋で眠っています」
「そっか」
ウィルの説明に、やっと安堵の表情を浮かべた。しかし、あらわになった足の状態を見て、すぐに難しい顔になる。混濁した意識のなかで見えたときよりはずっと血色も良く腫れもひいてはいるものの、骨にひびは入っているようだ。数日間は薬を飲みながら絶対安静ですよ、とウィルに言われ、ふと疑問が浮かぶ。
「なあ。ソラちゃんは、手の傷以外触れてないんだよな?」
「ええ。彼女も疲れていましたし、魔法を使わせるのは難しいかと」
「……オレの怪我、こんなもんだった?」
記憶曖昧だから、すっげー痛い気がしただけかもしんねーけど、と続け。
「でも、足の感覚ははっきり覚えてる。あれは、折れたっていうより砕けたっていうか」
首をひねって、言葉を吐きだした少年を見やり、ウィルは逡巡する。彼はその答えを知っているが、処置を施した本人に聞かず、自分の口から言っていいものかどうか悩んだのだ。
それになにより。
いまこのタイミングで話したところで、余計に状況が悪化するのではないか。
とはいえ。
ソラが関与していないのであれば、ほかになんらかの手段を講じられる人物など一人しかいないことはわかり切っている。つまり、少年が疑っているのは瀕死だった自分のあやふやな記憶なのだ。極限状態にあった記憶が大げさなのだと口にすれば、それで済む話なのである。
だが、嘘をつくことが良いことなのか、こちらも青年にはすぐ判断ができなかった。
よって、答えを出せぬまま黙々と包帯を取り替え、少年をベッドに戻す。汚れた水と毛布を持って一度部屋を出かかったが、結局、桶と毛布だけを扉の外に置いて戻ってきた。きょとんとメビウスがウィルを見つめているあいだに、ベッド脇の椅子に腰をおろした。
サイドテーブルに置かれた淡い色の薬がはいった水差しに一度、視線を落とす。
自分の口で言っていいのかどうか以前に。
あの人は、そもそもなにも言わないだろう。
彼女の性格を考えれば、すぐにわかる答えだ。そして彼は、その行動を望まない。いくらメビウスへの言葉が端的で酷かったとはいえ、あのときのルシオラの行動こそが彼女の真意なのだと、ウィルは思っているからだ。
だから青年は、魔女の代わりに口を開く。
「その薬……いったいなにでできていると思います?」
案の定、少年の顔から一切の表情が消えた。
「どーせルシオラが作ったんだろ。大体、あいつがなにを持ってるかも知らねーよ」
「じゃあ、ルシオラさんは、どうしてここにいたと思います?」
「さあね。オレが起きたら、一番に現状を見せつけるためじゃねーの?」
まともに取り合おうとしないメビウスに、さすがのウィルも苛立った。青年は、包帯を変え終わった少年のふくらはぎをぐいっと掴む。乱暴な扱いに一瞬顔を歪ませるが、声はださず、射殺せそうなほど鋭い目つきで睨んだだけだった。いままで自身に向けられたことのない殺気立った瞳に、戦闘中ですら見たことのない空虚な冷たさを伴わせている。瞬間、怯みそうになったがウィルもここで退くわけには行かなかった。メビウスがソラを守る選択を捨てられなかったように、ウィルにも、そう簡単には退けない理由がある。ふう、と大きく肩で息をついて自分に喝を入れると、青年は足から手を離し、口を開いた。
「確かに、足は粉々でした。それこそ、痛みすら感じないほどだったそうです。ルシオラさんがここにいたのは、坊ちゃんが心配だったからですよ」
その言葉を聞いて、メビウスは乾いた笑みを浮かべると顔を逸らした。窓の外を眺める顔には、もうなんの表情も浮かんでいない。
「これは、僕の独り言です。僕が見たこと、聞いたことを勝手に話すだけです。五日前のあの日、坊ちゃんが倒れてから戻ってきたルシオラさんは、瀕死の坊ちゃんを見てひどく取り乱しました。ソラさんを僕に預けて、僕たちを遠ざけたあと、彼女は禁術を使った」
ぴくりと、メビウスの指が動く。
少年の使う禁呪は、あくまで自分が知る外の世界への干渉及び、生命力を魔力に還元して使う、扱いの難しさゆえに禁止されている魔法だ。使うと術者の命に関わるかもしれない魔法。
それに対して、禁術とは、世界への干渉が大きすぎるゆえに禁止されている術式であり、失敗した場合は術者どころか世界をも巻き込む危険のある魔法である。もし制御できなければ、デア・マキナを消滅させることぐらいは簡単だろう。
そんな術を。
時を巻き戻す術を、彼女は迷いもなく使った。
それ以外に、少年の時を巻き戻す以外にルシオラには彼を救う手立てが思いつかなかったからだ。
大きすぎる魔力は、小さな器に閉じ込められながら、内部をどうしようもないほど破壊しつくしていた。顕著に現れたのは両足だけであったものの、メビウスの身体の中はあのときもう手の施しようがなかったのだ。文字どおり内臓も血管もずたずたに破裂しており、ソラのところまでたどり着いた時点で奇跡だったのである。
「ルシオラさんはとにかく対象を身体の中に絞って、術を使いました。対象が小さければ小さいほど失敗する確率は少なくなる。逆に言えば、それ以上――坊ちゃんの身体全体の時を戻すことはルシオラさんでも選べなかった。彼女でさえ、無傷の状態まで戻せなかった。戻せるだけ戻したあと、ルシオラさんはずっと坊ちゃんにかかりっきりでしたよ。自分も相当疲れているのに、薬を飲ませながら見守っていました。世界樹の葉を煎じた、万能薬です」
「……世界樹の、葉?」
ぎこちなく、メビウスが復唱する。その価値は、彼も知っていたからだ。いまでは、神界にしか生えていないと言われる、世界に満ちる魔力を生み出しているとされる、神話の時代の植物だ。テラリウム全体の魔力を生み出すちからがあることから、末端の葉一枚ですらどんな病気や怪我でも治してしまう効果があるという。数百年に一枚程度の割合で、神界から落ちてくることがあると言われているが、存在が確認されているのは史上に残っているもの数枚のみだ。
ルシオラが持っているのは、表の歴史には決して出てこない報告のされていない一枚。
エイジアシェルを出るときから持っていた、神界に生える樹の葉。
結局――知っている。
「あいつの、コレクションの一つだろ? なんで、そんな」
死ねば良かった、と言ったくせに。
いままでにも、治る見込みがないときは、見捨てたこともあったくせに。
「……なんで、だよ」
ぱた、と小さな音を立て、シーツの上に雫が一つ落ちた。ぽた、ぱた、と連続して囁く音と共に、白いシーツに濡れた染みが広がっていく。メビウスは窓の外を眺めたまま、前髪にくしゃりと指を絡ませた。
「なんで、オレと世界を天秤にかけるようなこと、してんだよ。たった一回死ぬだけだってのに。馬鹿は、あいつじゃねーか……」
震える声を絞り出した口元は、かすかに笑っている。しかし、普段強い光を放っている太陽の瞳からは、涙がぼろぼろと溢れ出して止まらない。少年が肩を震わせて静かにしゃくり上げるそのさまを、流れ落ちる涙を拭いもせずむせび泣く背中を、ウィルは口を挟まずただじっと眺めていた。
ルシオラが言うには、メビウスは相当命を削った禁呪を使ったのだという。それこそ――封印が緩んでしまうほどの。だから、これからは本当に一度でも多く死なせるわけにはいかない、と。
そのために禁術を使うしかなかったのだと、少年が峠を越えてからルシオラはことの顛末をかいつまんで説明してくれた。聞いたウィルも、その内容に一応は納得したのだが、一点だけどうしても腑に落ちないことがある。
ルシオラには、メビウスがなにをするつもりかわかっていたようだ。ならば、少年の惨状も想像できたはずだし、そのために世界樹の葉を用意してきたのだろう。
それなら、どうして。
血に染まった石畳に倒れ伏すメビウスを見て、普段顔色を変えることなど滅多にない彼女が声をあげて駆け寄ったのか。生死を確認するのすらおぼつかず、必死にかき抱いたのは――。
――たった一回。
簡単に口にする一回が、まわりの人間にとっていったいどれだけの重さがあるものなのか。
ルシオラも結局――知っていたのだ。
死んでも生き返る違和感を、忘れたわけでは決してない。ただそれを、慣れたと思い込んでいた――否、思い込んでいたかっただけなのだ。
二千年という長い時間。我慢して飲み込まず、吐き出すべきだった。素直に怖いと言うべきだったのだ。下手に隠せば、タイミングを逃してしまう。どちらかが、もっとずっと早くに本音をぶつけていれば。
「責任は自分にある」と言ったルシオラのらしくない表情を思い出しながら、声を押し殺しかすかに背中を震わせ続けるメビウスをぼんやり瞳に映す。表情をなくした彼の胸中でくすぶるのは、すべてを仕掛けた元凶――ブリュンヒルデに対しての激しい嫌悪である。
世界を魔族の脅威から救ったのは、事実かもしれない。そのお陰で人間が繁栄してこれたのもまた、事実だろう。
それでも。
二人を苦しめるあなたが――やっぱり僕は嫌いです。ブリュンヒルデ。




