15・存在理由
ひどく、まぶたが重い。
眠気が抜けきらぬ気だるさを感じながら、メビウスは薄く目を開いた。ここがどこか確認する前に、胸のうえに感じる人のあたたかさと重さに気を取られ、ゆるりと視線を移す。半開きの瞳に、ベッドに広がる葡萄酒色が飛び込んできて、メビウスは一気に目が覚めた。
少年の上半身に突っ伏して眠っていたのは、最果ての魔女だった。長すぎるほどの時を一緒にしているが、こんな無防備な姿は数えるほどしか見たことがない。大胆にあいた背中は規則正しく上下しており、寝顔は安らかだ。
あまりに珍しい光景に、メビウスはまじまじと彼女の顔を見つめる。そっと身体をずらして上半身を起こすと、包帯だらけの身体に引きつるような痛みが走り、「つッ」と小さな呻きをもらして毛布に突っ伏する。
「よく生きてたな、オレ」
そっと息を吐き出し、苦く笑ってゆっくりと身体を起こすと、ルシオラの左右非対称の色をした瞳と視線がかち合った。
「あ、ごめん、起こしちゃった? えと、ソラちゃん……わぷッ!?」
言葉を飲み込んだのは。
最果ての魔女が、彼を抱きしめたからだった。彼女の豊満な胸に圧迫されて、少しだけ息苦しい。
「……ルシオラ?」
あちこち飛び跳ねている金髪に指を絡ませ、メビウスの頭の上に顎を乗せたルシオラは、ひどく小さな声で「すまなかった」と呟いた。
「無理に教えようとした私にも責任はある」
包帯を巻かれた背中に置かれた手のひらから、最果ての魔女と呼ばれる女の、二つ名にはまるで似合わないあたたかな体温が伝わる。
「当時は私も手探りだった。お前をどう扱うべきか、お前になにを教えるべきか。焦ることはない、まずはお前をよく知ってから決めても良かったのだな。つらかっただろう」
胸元に抱きしめ、頭の上に顎を乗せているのだから、ルシオラの表情は見えない。淡々と紡がれる告白には色がついていないが、それゆえに普段彼女の漂わせている自信といったものも感じられなかった。
「なんか、不思議だな。殊勝なルシオラってのは」
戸惑い半分、からかい半分の軽口を投げる。ルシオラは、ふっと口元だけ歪ませた。
「……ああ。私も不思議だよ。こんなにも、浅はかだったと自分に怒りを感じるのは初めてだ」
「いや、でも、今回はそのおかげで助かったし……」
「この馬鹿が。……二度と使うな」
「毎回死ぬ思いしたくねえしな。けど」
「勘違いするな。お前のために言ってるんじゃない。外を見てその寝ぼけた頭を覚ませ」
メビウスに皆まで言わせず、ぴしゃりと言葉を被せるとルシオラは一気に毛布を剥いだ。言われるまま窓の外を見、メビウスは総毛だつ。
二階の窓故に、遠くまで見渡せる。少年の目に飛び込んできたのは、空を飛ぶ魔獣の群れだ。大群というほどの数ではないが、小さな群れがあちらこちらから飛来している。それらの侵入を拒んでいるのは、街全体をおおった巨大な結界だった。アインが作り出した禍々しい色のものではなく、普段ウィルが使う防護陣を大きく半円形に引き延ばしたような、淡い緑色をしている。
「……これ、魔獣組合が守ってんのか」
呟きと共に、窓へ近づこうと、ベッドからおりようと床に足をつく。ひんやりとした木製の床に立った足はしかし、次の瞬間には悲鳴を上げて立つことを拒否した。ベッドに手をかけて崩れ落ちる身体を支えながら、メビウスはゆっくりと膝の下へと視線をおろす。ソラのもとへ駆け寄ろうとして響いた絶望的な音が、フラッシュバックする。
膝から下は、添え木と包帯でぐるぐる巻かれ、中がどうなっているのか見ることはできない。だが、思ったように動かない時点でそれがまともな状態であるわけがない。「くそッ」と小さく毒づいて、メビウスは窓の外へ視線をやった。
下はどうなっているのかよく見えない。上手く動かない足に苛立ちながら、ベッドサイドの椅子やテーブルを伝って窓枠に取りつく。やっとの思いで下を見てみれば、地面にも魔獣は湧いて出ていて、その数は空を飛ぶ魔獣の比ではない。結界を破られぬよう、戦えるものは皆応戦している。視界の隅に、なびく新緑が見えた気がして、メビウスは視線を動かした。大の男よりも前に出て、率先して魔獣を蹴散らしていくエリーの姿を朱の瞳におさえ、メビウスはゆらりと倒れ込むようにベッドに腰をおとす。
「……なんで。なんでだよ」
意味のない言葉がもれた。脱力した少年を、最果ての魔女がねめつける。
「これが、代償だ。いま、世界中で同じ現象が起きている。お前は、いったいどれだけの命を消費してあの女を呼んだ?」
厳しい声音に、あのときの感覚がよみがえる。
命が――猛スピードで削られていく、感覚。
ルシオラの言葉を正確に理解して、メビウスはひゅっと息を呑み込んだ。自分の魔力は、生命力とイコールだ。オオハシがいるゆえに、おまじないがかけられているゆえに、無限とも言える生命力がある。とはいえ、ひとが一度の生で消費する生命力――命は長く見積もったところで百年だ。禁呪により、生命力を魔力に置き換えて魔法を発動する際、命は数年ずつ削られていく。オオハシがメビウスに与えている生命力も、ある一定量に達すると、一度死んだものとして換算される。人間としての摂理を超えてしまうからだ。実際に肉体が死んでいなくとも、そうしてごまかしてやらねば、魔力として使用された生命力はどこにも還れない。あくまで魔力の代用品であり、生命力は生命力のままなのだから。本来ならば、短い生を終え、土に還るものなのだから。
メビウスは怯えるようにちらりとルシオラを見、ぽつりと呟く。
「……封印が、ひらいた?」
「封印が完全に解けるのは、お前が本当に死ぬときだ。だが、フェイズは進んだと考えてまず間違いあるまい」
「でも……あのときは、他にどうしようも」
視線を泳がせて言い訳をする少年に、魔女は「簡単だよ」と答えを口にする。冷たい響きにはっと顔を跳ねあげ、朱の瞳がルシオラの幻想的な瞳を捉えた。
「死ねば良かったのさ」
「…………」
「あのときは、私たちもすぐ近くにいた。ソラも成れの果てのちからを使えば、時間稼ぎぐらいはできたろう。お前が一度死んだだけならば、こんな事態にはならなかった。判断を誤ったな」
「……オレ、は」
死ねば良かった。判断を誤った。ルシオラの言葉は、確かに正しい。以前の自分ならば、そうしていただろう気もする。
それができなかったのは、ただ一つ――。
「ソラちゃんの前では、二度と死なないって誓ったんだ。だから……ッ」
「そんな安い誓い一つで世界を壊す気か。どこまでのろけるつもりだ? さらに面倒な気配があるだろう」
――どくんと。
心臓が飛び跳ねる。窓の外――時計塔の方角から、あの、きもちのわるい――。
冷や汗が額を伝う。確かに、最悪の事態と言ってもいい。
「ソラちゃんは。彼女はどこに」
黒いものを唯一どうにかできる少女の姿は、近くにはない。まさか、と心臓が早鐘を打つ。
縋りつくように見上げる太陽の瞳に、ルシオラはそれさえも凍らせてしまいそうなほど氷点下の視線で答えた。
「ソラと会ってからのお前は、二言目にはそれだな。一目惚れも身体を張るのも勝手にしたらいい。だが、お前はなにがあっても鍵だ。常にそれを優先して行動しろ。それができるようになってから、誓いでもなんでも立てるがいい。お前は鍵だからこそ、生かされているのだということを忘れるな」
ぞっとするほどの無表情だった。
あまりにも冷たい言葉に、メビウスの心に亀裂がはいる。
「……だったら」
ぽつりと声がでてしまった。言葉にしてしまった感情はもう抑えが利かず、メビウスはきっと顔をあげて押し殺してきた思いを勢いのまま口にする。
「だったら、どうしてオレを外に出した! 最初から、選択なんてさせなきゃ良かったんだ! お前の家の中で、最果てで飼い殺してれば良かったじゃねーか! 外なんてないと信じさせてれば、世界もお前も安心だったじゃねーかッ! オレだって、なにも知らずに、死の痛みも怖さも人の汚さも弱さも知らないまま生きていけたッ!! ソラちゃんにだって、会わずにすんだ――ッ!!」
肩で大きく息をしながら、少年は口を閉ざす。腹の底から大声をだしたからか、腹も胸もちくちくと痛い。くちびるを噛みしめて、普段の笑みを貼り付けることも忘れて、真正面からルシオラを見据える。強く睨みつけているようで、噛みしめたくちびるは泣き出しそうに震えていた。ふいに、痛みとともに喉奥になにかがせり上がってくる。咳とともに吐き出すと、口を押さえた両手が真っ赤に染まっている。でてきたのは、血の塊だった。
「……な、んだよ、これ……」
けほっとえずくたび、少量の血が吐き出された。身体の中が、ぐちゃぐちゃにかき乱されたように熱く、気持ちが悪い。
「その身体には、負荷がかかりすぎた。興奮するな、傷が開く」
「お前が言うな」
拒絶の言葉を口にしたところで、全身からちからが抜けていく。血で汚れた口元と両手を拭きとり、ルシオラが少年の身体を横たえた。ルシオラに背を向けようとした少年に、魔女は薄い緑色の液体を差しだす。
「薬だ。身体も気持ちも落ち着く」
いまさら、とメビウスはルシオラを一瞬だけ睨むとそれを受け取って一気に飲み干した。淡い色からは想像もできない苦さと渋みが、鉄の味に変わって口の中に広がっていく。身体中に染み渡る苦みから逃げるように、メビウスは頭から毛布をかぶるとルシオラに背を向けて身体を丸めた。




