14・代償
結界が壊れ、クリアになった視界に最初に飛び込んできたのは、二階ほどの高さから落下する少年の姿だった。一瞬、背中でなにかが光っていたように見え、ウィルは思わず凝視した。メビウスは意識がないのか受け身も取らずに石畳に叩きつけられ、小柄な身体はバウンドして数回転がる。血が飛び散るのが見え、ウィルはすぐに駆け寄った。まぶたを閉じて無防備に投げ出された身体には斜めに大きな傷が走っており、一目見るなりかなりの重傷だということがわかる。
わからないのは。
なぜ少年が、足場もなにもない上空から落ちてきたのかということだ。ずっと上空からブリュンヒルデの光を感じていたが、どういうことか皆目見当もつかなかった。
ぐるりと辺りを確認していると、メビウスの目が開き、なにかを探すように朱の視線がさまよう。焦点が定まらぬまま、少年は上半身を起こした。切り裂かれた傷口に腕ごと押し当て、少年は首をめぐらす。
「……ソラさん、ですか?」
問われて初めて気が付いた、とでも言いそうな表情できょとんとウィルを見上げ、うなづく。眼鏡の青年は半身をあけて、メビウスの視界から外れた。後方に空色の少女が、静かに立っていた。大きな漆黒で細い肩を押さえているのが目に入り、メビウスはウィルが止めるのも聞かずにおぼつかない足取りで立ち上がる。
「メビウス……」
ソラも、少年が立ち上がったのを夜空色の瞳で認めて、強張っていた表情からちからが抜けほっと胸を撫でおろす。
張り詰めていた気持ちが、切れてしまったからだろうか。
ふっと、ソラの接続が解ける。漆黒の両手は華奢な白いひとの腕に戻り、オルトロスの牙を残したままの肩口から溢れた血がすぐにそれを赤く染めた。そのまま、ちからなく後ろへ倒れ込む。
「……ソラちゃん?」
呟いて。
まばたきを、一つ。
「ソラちゃん!」
駆け寄ろうと、足を一歩前に出す。
「……あ」
喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。たまらず咳と共に吐き出すと、大量の血の塊が石畳に染みを作った。身体中が悲鳴をあげ、壊れる音が聞こえる。ブリュンヒルデの、強力な神族のちからを受け止めるには小さすぎる器で、長く身体に押し込めすぎた。幼いときとは違い、魔力のコントロールができるようになっていたぶん、すぐに溢れた魔力が外に向かって弾けなかったというだけだ。身体の中では出口を求めて、つねに暴れ狂っていた。その痛みに耐えきれたのは、皮肉にもブリュンヒルデの魔力で身体が強化されていたからに他ならない。強化魔法が切れたいま、すべての痛みが、中からズタズタにされたダメージが一気に降りかかったのだ。
「ぐ……ぁッ」
声にならない音をもらし、糸が切れた操り人形のようにかくん、と膝をつく。なにかが砕けた感覚があり、そのまま左手も地面につけてようやっと身体を支える。右手でいまにも飛び出しそうな心臓を押さえ、肩で荒い息をつきながらも見据えているのは倒れたまま動かないソラの姿だった。
もう一度立ち上がろうと、震える足に力をこめる。
ばきん、と絶望的な音が脳内に響き渡った。最初は右足、次いで、左足。
「うああぁぁぁあああッ!!」
音に続いて駆け上がる灼熱をともなった痛みに貫かれ、メビウスは絶叫した。ぱき、ぺきっと小さな音が断続的に続き、そのたびに膝から下が破裂しているかのような痛みに翻弄される。耐え切れずに転がると、見開いた瞳に自身の足首が映った。およそ人の肌の色とは思えない紫色に染まり、内側から小さななにかが顔を出している。痛みが爆ぜるたび、七分丈のズボンに血の花が咲き、がくがくと身体が痙攣した。
痛みが途切れないせいで、意識を飛ばすこともできない。メビウスは身体を丸めて、歯を食いしばりながらそれが通りすぎるのを待つしかなかった。
「……はッ、は……ぅ」
血の混じった荒い呼吸を繰り返し、生きているのが不思議なほどの身体で、ソラに向かって這いずる。べったりと血の跡を残し、砕けた両足を引きずりながら、それでも瞳にだけは煌々と火が燃えている。しかし、ソラしか映していない双眸にともるのは狂気の火にも見え、ウィルでさえ手を貸せる空気ではなかった。
いったいなにが、少年をそこまで突き動かすのだろう。死なないとはいえ、痛みはあるのだ。こんなにまで身体を酷使して血を流しきって、少女を守ろうとするのは少し行きすぎてはいないだろうか。
彼は確かに、どうしようもないときには自身を犠牲にするきらいがある。しかし、いまはどうだろう。敵はもういない。味方である自分たちがいるのだから、彼がこれ以上命を削る理由など、もうどこにもないはずなのだ。
いまさら過ぎる疑問が、ウィルの脳裏にぽつりと浮かんでどっしり居座る。
必死にソラに向かうメビウスをぼんやりと眺め、ウィルは初めて少年に畏怖の念を抱いた。
これでは――まるで。
しなない、のではなく、しねないいきものと――。
「……メビウスさま」
なんの色もついてない音で、妹の呟く声が聞こえる。彼女が少年にどれほど懐いていたかを思い出し、ウィルは声のしたほうへ振り返った。
エリーは、メビウスを見ていなかった。戦闘中にベルトが千切れて地面に落ちていた鞘を拾い上げ、覇気のない瞳でそれを見つめている。
「……エリー。医者を呼んできてください。僕の手には余ります」
静かに告げられ、エリーはゆるゆると兄へと視線を合わせた。無言で歩いてくると鞘をウィルに手渡し、血の気のないくちびるを震わせて了承する。まるで逃げるように走り去った妹の目には、涙が浮かんでいたような気もしたが、見なかったことにした。指摘すれば多分、意地を張って怒ってしまうから。
「ソラ、ちゃん……」
少女の名前を血と一緒に吐き出し、メビウスは精一杯手を伸ばす。すでに痛みも熱さもないまぜになり、それが苦痛であるかどうかさえ、彼にはわからなくなっていた。普段ならば、良くない傾向だとすぐに気付くことができるはずなのに、自分の状態など二の次である。いうことを聞かない身体を気力で引きずり、届きそうで届かなかった手をもう一度いっぱいに伸ばして――やっと、華奢な指先に触れた。
「……ッ!」
もう、声を出せるほどのちからも残っていない。名前を呼べなかったことにも気づけずに、メビウスはソラの指先に手を絡めた。温もりを確認して、ほんの少しほっとする。もうひとふんばりと自身に喝をいれて、どうにか少女の白い手首をつかんだ。
とくん、と。
細い手首が、脈を打つ。青い血管を通して、命の鼓動が伝わる。
「……良かった……」
――生きてる。
まともな声になったかはわからない。それでも彼は、心の底から安堵の息を吐き出し。
泣きだしそうに顔を歪めながら、メビウスは今度こそ、そのまま意識を手放した。
少年が意識を手放して、わずか数秒。
どんっと足もとが強烈な衝撃に襲われ、地面が大きく揺れ動く。機械の街外れに隠してある拠点に戻り、急ぎ魔法薬を作っていたルシオラは、窓枠に手をかけて身体を支えながら、世界中で立ちのぼる瘴気の気配に珍しく眉根を寄せた。
衝撃に揺れたのは一分もなかっただろう。揺れが収まってからすぐさま家を飛び出すと、空高く舞い上がる。
「……なんだ、これは……」
ぐるりと地平線を見回し、思わず言葉がもれた。恐らく、いまの衝撃は世界中で起こったのだろう。見渡せる限りそこかしこで隙間が発生し、魔獣がそれをこじ開けて人間界へと渡ってきている。その数は、いままでの比ではない。
封印が解けた気配はないが、少なくとも段階が大きく動いたのは間違いない。メビウスが拠点に戻っていない以上、彼が死んだわけではない。死んだわけではないが、彼女にはすでにこの事態が見えていた。だからこそ、ここに帰ってきていたのだが、この規模では一度エイジアシェルへ様子を見に行くべきか、思案にふける。
「おやぁ? こんなところに神族の女がいるぞお?」
下卑た声は、すぐ後ろから聞こえた。思考に没頭しすぎて、まわりが見えていなかったのだ。ルシオラの後ろにあいた隙間から顔を出した三人の魔族は、しかしそれ以上人間界に出てくることはかなわなかった。魔女がおもむろに無詠唱で後ろにはなった光の魔法で、隙間ごと焼き尽くされたからだ。
「……低俗だが、魔族もとおれるほどの隙間か。思っていたより厄介かもしれん」
強引に浄化して閉じた隙間をちらりと見、一刻も早く合流するのが先だと結論付けてルシオラは降下を開始した。合流するには、どうしても必要なものがある。
――どくん、と。
空気が、胎動し、その気配にルシオラですら背筋を凍らせた。
きもちわるいとしか形容のできないその気配は、成れの果てが出現したときのものと激しく似通っている。早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、気配のもとを探る。本当は、探すまでもなくわかっていた。すぐ近くで、その気配が感じられるのだから。
だから、魔女のおこなった行為は正確には確認である。
「やはり、デア・マキナ、か……」
感じていたとおり、いま立ち寄っている街だ。もちろん、そこにはソラもいる。ソラは、結界の中であれを使っていたようだった。
これは、偶然だろうか。
デア・マキナの象徴である、時計塔。
さきほどソラと一緒に強固な結界に包まれていた、あの空間のなかに。
ソラが取り込み行使していたちからと同等のものが出現した、という事実。ただしそこには前とは違い、現在魔族の気配は感じられない。
「……ちッ」
ルシオラは時計塔を一瞥し、いらいらと舌を打つと紅い爪を噛む。成れの果てについては、答えが出せるだけの情報を持っていない。あれやこれや考えてみたところで、時間の無駄になるだけだ。
強引に思考を切り替えると、魔女は拠点に戻り急ぎ最果てへと転移させる。魔族に発見でもされたら面倒だ。念をいれておいても悪いことはなにもない。
「……あの頃は、私もなにを教えればいいのか手探りだった。まさか、覚えているとはな」
――あの、バカは。
自嘲気味にひとりごちる。
「生きているのならば――これ以上死なせるわけにはいくまい」




