13・ちからをあわせて
結界の前にたたずむのは、ウィルとエリーの兄妹だけになっていた。結界を可視化したことで、なにごとかと近くの住民が顔を出したが、彼らはテオが説明し帰らせている。そのテオも、ルシオラの言により、魔獣組合へと戻っていた。
――これから、忙しくなるぞ。
「……魔獣組合が忙しくなる。それはつまり、魔獣が増える、ということですよね?」
語尾を疑問で終わらせておきながら、答えは待っていない。ウィルは顎に手をあてて、ルシオラの残した言葉の意味を考えていた。
「しかし、さきほどからいままで以上の浄化の魔力を感じる。これは坊ちゃんだと考えていいでしょう。坊ちゃんが健在なのに、魔獣が、増える?」
ぶつぶつと呟きながらなのは、そうしないと考えがまとまらないからだ。視線をあちこちに忙しく動かしながら、結局は目の前に存在する結界を見つめている。そしてふと、大きな瘴気と浄化の光が、かなり高い位置から感じられることに気がついた。
「……時計塔の上で、戦っているんでしょうか? しかしあの場所は、そんなに広くはないはず……」
答えの出ない思考にはまり込んでいる兄を、エリーが強引に思考の海から引き戻す。
「お兄さま。準備はよろしいのです?」
「ああ、いつでも構いません」
「考えるのは後でもできます。いまは、結界を破壊して、メビウスさまたちと合流しましょう」
真面目な顔で妹に正論を突き付けられ、ウィルは眼鏡の位置をくいと直してうなづいた。
「ルシオラさんの言った意味は、わかっていますね?」
「当たり前じゃないですか。エリーを誰だと思っていますの?」
ふふん、と胸を張ったエリーに対し「僕の妹です」と真面目すぎる返答をしようかとも考えたが、面白くもなんともないうえ、これ以上無駄に時間を使うのももったいない。ウィルは二丁の魔力銃を取り出すと、必要な弾丸を込める。使うのは、どちらも同じ魔法だ。兄の行動を見、エリーも右手を結界に向けて突き出すと、あり余る魔力を練り始めた。
「清浄なりし輝き――其は古の光。穢れなき清き光を、今ここに呼び覚ます」
「穏やかにして時に猛き風よ。我願うのは、烈火の如く猛る風。我望むのは、風の怒り」
ウィルの雨の詠唱に重ねるように、エリーの攻撃魔法の詠唱が響く。落ち着いたテノールと凛としたソプラノが追いかけ合い、互いの声を引き立て合うさまは、美しいハーモニーを奏でて構築されていく魔法陣を飾る。
「災厄を洗い流す――浄化の雨を降らせよ」
ウィルの魔法が先に完成する。発射された弾丸は結界の真上で弾け、白く輝く魔法陣を展開した。ほどなく、浄化の光が大雨となって結界に降り注ぐ。禍々しい色をした結界が雨の雫を受けて波紋が広がり、たわむ。少しずつ、光が結界の効果を削いでいく。
「高潔成りて触れる事叶わぬ姿をここに現せ――。切り裂き飲み込む竜巻!」
エリーの目の前に展開された緑色の魔法陣。そこから放たれた巨大な竜巻は、細く尖った足先を結界に向けて飛び出す。結界に当たる手前で白い魔法陣が開き、竜巻に巻きこまれた。ウィルの雨をまとった竜巻は赤黒い膜に激突し、キリキリと同じ場所で回転を続ける。緑と白の光を散らしながら、竜巻は少しずつ前に進んでいるように見えた。
――結界のルールを上書きした。闇を最下位、風を上位に。意味は、わかるな?
ルシオラは問いを投げかけたまま、転移の光に包まれていった。
「これで合っていますよね、ルシオラさま」
瘴気には浄化を。破壊するのにたりない攻撃力は、エリーが得意な風の魔法で切り裂け。兄と妹はそう理解した。完全詠唱でちからを最大限まで引き出した雨を魔力銃で威力をあげ、結界が弱まったところを強力な風の魔法で打ち砕く。おまけに、風に浄化をまとわせ、さらに強化させた。兄妹の、即席合同魔法といったところか。
「それにしても、硬いです、この結界。本当に、風に弱くなってるのでしょうか」
新緑を自らが生み出した暴風に遊ばせ、両手を突き出して竜巻をドリルのようにコントロールしながら、エリーは珍しく弱音を口にする。一緒にいるのが、兄だからもれたのかもしれない。
そっと、エリーを支えるようにウィルの手が肩に触れる。触れた指先からちからが流れ込んでくるのを感じ、エリーはいつもどおりに胸を張った。ギリギリと拮抗していた竜巻が、少しずつだが前に進み始める。ウィルの強化魔法の効果は、確実に魔法の威力を押し上げていた。
「……こ、のッ」
ぐぐぐ、と竜巻の先端が錐のように結界に潜り込む。ほんの数センチ、いや、数ミリで良い。内側へ突き抜ければ、あとは――。
「巻き込めぇーッ!」
妹の放った風に乗った浄化の雫が結界の断面に触れ、みるみる弱体化させて穴を大きくしていく。侵入を許したたった一点を起点にし、強固だった結界に細かなひびが広がっていった。
「うおおおぉぉぉぉおおおッ!」
声の限りに雄叫びをあげ、すべての魔力を凝縮した一撃を投擲する。ブリュンヒルデの魔力を吸い込みなおした得物は膨張し、普段の三倍ほどの長さに変化しながら矢のようなスピードで標的に向かって飛びだした。
――あーあ、短い命だったわ。
まるで、スローモーションのように世界が見えた。メビウスの手から離れた消滅を呼ぶ刃は眩い光を放ち、真っ直ぐに自分に向かってきている。あの暴力的な光は防げない。そう悟ったから、無様に抵抗するのはやめた。短くとも、この世界の、テラリウムの頂点に立つはずだった器だ。みっともなく足掻くのはやめにしよう。そう、思ったのだ。
無防備に、だがスカイブルーの瞳には毅然とした光をともなわせて。
『ボクはまだ姫を失うわけにはいかない。戻っておいで』
アインの脳裏に、突然言葉が響いた。有無を言わさず、彼女の身体は転移陣に包まれ一瞬で消えてしまう。直後、その場所をブリュンヒルデは猛スピードで通過した。すべてのちからを乗せた一撃は的を失い、一直線で地上へと向かう。
ほんの刹那で割り込んだ覚えのある瘴気を、メビウスは見逃さなかった。ブリュンヒルデになにもあたった感触がなかったことからも、アインはもうこの場にいないのだということが推測できる。全魔力をこめた一撃であるにも関わらず、彼女に当たらなかった事実にどこかほっとしている自分がいるのに気が付き、苦く笑う。
「……ドクターと、エイジアシェル……か」
あまり嬉しくない符合だ。ドクターがいつ頃から行動できるようになったかは定かではないが、唯一人間界で生き延びていた魔族である。いつどこでなにを見て聞いているかなど、知る由もない。
だから本当は。
ほっとしている場合ではないのだ。逃げられたことを、悔やまねばならないのに。
アインが名乗ったときに感じた気持ちは、いったいなんと呼べばいいのだろう。スカイブルーの瞳に見た、雨の日の記憶の面影。
感傷に浸っている場合ではないと、切り裂かれた傷が痛みをもって引き戻す。呆けていたのは瞬き程の時間であったのだけれど、全力で投げたブリュンヒルデはすでに次の標的に迫っていた。
傷を押さえ、前かがみになってゆっくり地上に近づきながら、メビウスはソラに向かって叫ぶ。
「ソラちゃん! もういい、離れて!」
アインの一撃をもらって、体勢を崩したとき。
ふらりとちからが抜け、下を向いた。必死にこじ開けた太陽の瞳が、オルトロスを押さえ込んでいるソラをうつしたのだ。
どうせ無理をするのだ。ならば、確実にどちらかは仕留めておきたい。
彼がちからを得物に返還した時点で、魔に属するものたちは一直線上に並んでいた。そうなるように、自分の位置を少しだけ変えたのだ。アインが諦めたのは予想外だったが、彼女が離脱する可能性は考えていた。だから、ある意味では予想の範囲内だったとも言える。
あとは、ソラが魔獣から離れてくれれば。
ソラが、迫りくる光の大剣を見やる。抱えている片方の頭は、すでに機能を失って項垂れていた。それでも、少女がオルトロスから離れる気配はなく、メビウスは疑問に目をすがめた。
「――ッ!」
彼女の肩に、朱に染まった牙が突き刺さっているのが見えた。離れないのではない、離れられないのだ。歯噛みしたメビウスに向かい、ソラが叫ぶ。
「大丈夫! わたしは、大丈夫だから!」
叫んで少女は、あろうことかさらに魔獣を漆黒で拘束した。自分の周囲にもできる限りの漆黒を広げ、オルトロスを苦戦させた防御膜を張る。ソラの覚悟を見せられ、メビウスはぐっと両手を握ってその場にとどまる。動けば、彼女の前に飛び出してしまいそうだったからだ。
だがそれは、ソラの覚悟を無にしてしまう行為だ。
だから彼は、血の滴る両手を爪が食い込むほど強く握りしめて剣の行方を見守る。
自分が放った剣だから。
メビウスを信じているからこその、ソラの覚悟だから。
――大丈夫。
地面を揺るがし、オルトロスの胴体にまばゆく光る大剣が突き刺さる。前と後ろを切断するかの如くの一撃に、魔獣は断末魔をあげてちからの限り暴れた。ソラの肩に突き刺さったままの銀の犬歯も、魔獣が苦痛に頭を動かすたびに傷が広がる。痛みに呻きながらもソラは、動かない頭に突き刺していた腕を引き抜き、犬歯をつかむと渾身のちからで根元からねじ切る。光を避けるようにかざした漆黒はそのままに、少女は這いずるようにして苦しみもがく魔獣から距離を取った。白い肩には銀が刺さったままだ。
魔獣が、じろりとソラを見る。否、ソラにまとわりつく黒いものを、自分を翻弄した得体のしれないなにかを、恨めしそうにねめつける。
そのまま。
じゅう、と肉が焼けるような音を残して、双頭の魔獣は霧散した。残った瘴気は石畳に刺さったブリュンヒルデの光によって浄化され、すぐに消えてなくなる。
見届けて、ソラは無言で立ち上がろうとし、肩の痛みに顔をしかめた。視線をやると、肩には牙が残っている。本体が息絶える前に分離したため、浄化されなかったようだ。銀を採取するさいには効率の良い方法だが、ソラがそうしたくて残したわけではない。しかし、傷口に刺さったままでいることで、血があふれてこないのは幸運だと言えるだろう。
「ごめん、ソラちゃん。それ、痛いと思うけどいまは抜かないで」
犬歯に手をかけたソラに、メビウスの声が降ってくる。彼の言うとおり、ソラはオルトロスが残したものからそっと手を離した。
――あの魔獣。
なにか、言いたそうだった。
最期に、オルトロスが見ていたのは、ソラであってソラではない。
ソラのなかにいる――成れの果てを見ようとしていた。
戦いが終わっても、まだ具現し続けている漆黒の腕に目をやると、少女は小さく息をつく。そうして見上げた先には、ほっと安堵の表情を浮かべておりてくるメビウスがいた。彼のなかにはもう、圧倒的な浄化の魔力は感じられない。いつもどおりの、へらっとした笑みを浮かべた少年だ。
それが意味していることに、ソラはいち早く気付いて凍り付く。
メビウスの背に光っていた羽が音もなく消える。急激に訪れる脱力感。彼に宿っていた神族の魔力が完全になくなった、その反動だ。
魔力を抱えきれなくなったら。
すべて、外に出してやればいい。そのちからをすべてぶつけてやればいい。
簡単な、ことだ。
最初から、考えていた。昔とは違う、魔力の扱い方を覚えたからこそできる切り札だと、そう思っていた。
だが、最後の最後で、失敗したらしい、とメビウスは皮肉気に口元を歪める。
――オレが地上に降りるぶんの魔力ぐらい、取っておかねーと。
ぴし、と小さな音がした。小さな音は瞬く間に結界中から鳴り響く。同時に、外を――日常を映していた結界内部に稲妻のような細かいヒビが見る間に走り、ぱりん、とガラスが割れるようなかん高い音を残して、呆気なく偽りの日常が崩れ去る。細かな破片が、消失しながら広場に降り注いだ。
瘴気の黒と浄化の白がいりまざる中を、メビウスは重力に身を任せて落ちていった。




