11・背中を預けて
激しく打ち鳴らされた鐘のもとへ、ウィル、ルシオラ、それにエリーとテオも加えて四人は急ぎ、走っていた。
逆流してくる人々の中に、見慣れた金髪も空色を映す銀髪も見当たらない。誰の目にも止まらないということは、まず間違いなく二人は広場にいるだろうと四人は結論付け、速度を落とさずに走り続ける。
……坊ちゃんですしね。
先頭を走りながら、ウィルはそっと心の中で呟いた。
派手に警鐘を鳴らし、憩いのときを楽しんでいた人々を避難させるようなアクシデント。それが一体なににしろ、そんな場に居合わせてただ一緒に逃げてくるような少年ではない。
「止まれ!」
ルシオラの厳しい声に引っ張られるように、考えにふけっていたウィルは両足に急ブレーキをかけた。もう広場が目の前に見えている。みな無事に避難しおえたのか、目的地には誰もいない。魔女の言葉の意味がわからず、ウィルはルシオラを訝し気に見やる。
ルシオラは、答えの代わりに指先から小さな炎を放った。ろうそく程度の炎はゆっくりと三人の目の前を通過し、ウィルの目の前で見えないなにかに跳ね返されるとパンっと爆発して消える。炎が触れた場所は、うっすらと波紋が残っていた。
「結界だよ」
おそらく、広場全域にかけられているな、とルシオラは呟き「魔術解除」と詠唱もなく結界に向かって魔法を発動した。
ヴ……と機械的な音を残して、ルシオラ以外の視界がブレる。見えていた無人の広場は砂嵐とともに消え失せ、代わりに目に映ったのは赤黒く渦巻く不透明な膜だった。魔女が言ったとおり、広場全体にかかっているのだろうことは、一目で見渡せぬ巨大さを見ればすぐにわかる。
「……なに、この瘴気……! それに、もう一つ……これは」
「ああ、それはソラだ。お前はさっきいなかったからな」
「お父さまに意地悪されましたから」
「え、俺のせいになんの? 理不尽~」
「すぐ脱線するの、やめてくれませんか。この瘴気、魔族クラスですよ」
緊張感があるのかないのかわからない父と妹のやりとりをぴしゃりと制し、ウィルは目前の結界を睨む。
「まず、これをどうにかして中にはいらなくては。坊ちゃんですからそうそうなにかあったとは思えませんが、瘴気とソラさんを一緒に感じるのに、ブリュンヒルデを感じない。坊ちゃんがソラさんと中にいるのだと仮定すると、かなりおかしな事態です」
「そうだな。アレは、ソラがきてから――」
ぶつん、と言葉が途切れた。いつも不敵な笑みを浮かべているルシオラの顔色が、あからさまに変わっている。
魔女が感じたのは、命が、生命力が爆発する気配。はるか昔に何度も感じた、死への前触れ。
「……あのバカはッ!」
メビウスがなにをするつもりなのかを瞬時に悟り、ルシオラは片翼を具現させると宙に浮かび上がる。結界の中央で、杖を取り出すと詠唱を開始する。ルシオラの足もとに、巨大な光の魔法陣がえがきだされた。
「我、ここに定義する。我の定義こそ真。真にして頂点。風を上に、闇を下に。全ての順位は書き換えられる。――上書きする定義」
詠唱が終わった途端、足もとの魔法陣はほどけて結界にするすると張り付いて消えていく。呆然と眺めていたウィルたちのもとへ戻ると、焦りの表情を隠さぬまま告げる。
「予定が変わった。私は一度拠点に戻る」
命が、猛スピードで削られていくのがわかる。
切り裂いた手のひらから流れる血が、自身の頭上に禍々しい不透明な魔法陣をえがいていた。心音に呼応するように明滅するそれが光るたび、右手の剣から、背負った鞘からとてつもない魔力が流れ込んでくるのが感じられる。メビウスの小さな魔力の器などすでにあふれ出し、行き場を求めて身体の中で高純度の魔力が暴れまわる。まるで、身体中の血が沸騰しているようだ。だが、これぐらいの痛みはつい先日も味わった。幼き日と大きく違うのは、圧倒的な経験の差である。
ちからの奔流が止まらぬ中、ひゅんと風を切る鋭い音が耳に届く。少年の動きに気付いたアインが、メビウスとソラへ同時に瘴気を乗せた衝撃波を放ったのだ。ソラはなんとか漆黒の腕で防いだものの、衝撃に弾かれアインの前からかなり後退させられてしまった。ぐっと足にちからをいれて踏ん張ってみるものの、戦いの経験が浅い少女は勢いを殺しきれず、体勢を崩して転んでしまう。
「……ッ!」
どん、と重たい音と共に、時計塔が揺れた。空色の少女は、漆黒に覆われていない肩口から血が流れていることにも気づかず、その場所を凝視する。巨大な時計盤のしたに、斜めに走った亀裂。ぱらぱらと小石を落とし続けるそこには、誰もいない。血の跡も、突き刺さっていたブリュンヒルデも、なにも見当たらなかった。
「やりすぎちゃったかしら」
アインがにんまりと楽しそうに口を開いたが、ソラは聞いていなかった。彼女には、視えていたからである。
刹那、時計塔のしたで、真っ白な浄化の魔力が爆発的に膨れあがる。瓦礫と光を切り裂いて飛んできたのは、十字架を連想させる細身の剣の群れだった。一様に星屑をまとい、きらきらと浄化を振りまきながら、一斉にアインに襲いかかる。大鎌を器用に回しながら剣を弾くも、あまりの数の多さに大きく後ろへ飛んで避けるしかなかった。
「……メビウス」
不安げに呟いた、視線の先。
光が収束した中央にいたのは、まさしく少女が呟いた名前の持ち主である少年だ。真のちからを解放した巨大な剣を真横に薙ぎ払った格好で、メビウスはアインを睨みつけている。すでに大きく肩を動かして息をしているというのに、双眸は太陽の如く燃えていた。
「ソラちゃんに、手を出すな」
低い声で忠告をする。アインは人差し指を頬に添え、小首を傾げてみせた。いかにも可愛らしい、考えていますよ、のポーズ。そのポーズのまま、アインはゆっくりと宙へ浮き上がる。
「……ええと。手を出すっていうのは、こういうことですの?」
おもむろに、ソラに向けて左手を突き出す。こぶし大の黒い球体が無数に現れ、美しい少女がただ手をひらと動かすだけで純粋な瘴気のかたまりは一気にソラへと降りそそぎ、地面を抉って黒い負のオーラをまき散らす。可憐なくちびるに薄く笑みを乗せた耳元で、静かな声が聞こえた。
「忠告はした。無視したのは、お前だ」
「……え?」
困惑の声をもらしながらも、反射的に大鎌を身体の前にかざす。ギギィインと耳障りな音とともに、武器を握る両手に激しい衝撃が走る。続けて二度、三度と衝撃が走り抜け、容赦なく振り下ろされた四撃目で地面に向かって叩き落とされた。が、ぶつかる直前で下に向かって瘴気を爆発させて勢いを殺し、なんとか地面に降り立つ。
「あなた……なんなの?」
メビウスの背に浮かぶ光の羽を認めて、困惑の言葉がこぼれた。こんなちからは、これだけ強力な魔力など、展望デッキではまったく感じなかった。振るっている得物も、浄化のちからなどまとっていなかったはずだ。
「わりーけど、手加減できねーんだ。引いてくれると、助かるんだけど」
太陽の瞳で冷たく見下ろし、メビウスは無感情で言い放つ。身体中を暴れまわる魔力をおさえるのに限界で、感情を乗せる余裕すらなかっただけなのだが、あたたかな双眸とその言い草はあまりにもアンバランスでちぐはぐな印象を与えた。
「……引いてくれると助かる? あなた、彼女ですら助けなかったじゃない!」
「ん……? ソラちゃん、オレの彼女に見える? そりゃーサンキュな」
彼女、という言葉には身体中を駆ける痛みもかなわなかった。にししっと破顔すると、ふわっと地面におりる。メビウスの足が地に触れると、羽は静かに消えた。少年は、いまだ瘴気と土煙に覆われた、さきほどまでソラが立っていた場所へ歩み寄ると、ブリュンヒルデを軽く振るって瘴気を浄化する。
「オレの最優先はソラちゃんなの。お前を叩き落としたのは、ついでだぜ」
瘴気が晴れた先。ソラは、光の羽で作られた丸い結界の中にいた。羽が何枚も重なり合い、つぼみのようにも見える。メビウスが触れると、羽は花びらが咲いて散るようにふわりと開いて消えてゆく。ソラに手を差し出し、おどけるように一礼した。
「お怪我はございませんか、お姫様?」
「……わたしは、お姫様じゃない」
ぼそりと言いつつ、心配そうな視線を送る。あー、これはバレてんなー、とメビウスは胸中でぼやいた。魂を視ることができるソラが、いまの彼の状態を見透かすことなど簡単だろう。
ソラは差し出された手のひらを見つめ、ちらりと自身の黒い腕に視線を落とした。
「ごめんなさい。いまのわたしは、傷を癒せない」
「えええ、そこ!? いいよ、こんなのいつものことだし。ソラちゃんが一緒に戦ってくれるってだけで、オレは負ける気がしねえ」
ひらりと手を振って、普段の笑顔をソラに向ける。ソラが近くにいると思えば、身の内で荒れ狂う魔力の痛みなど、些細なものだ。いくらでも、耐えられる。
まったく蚊帳の外と化したアインが、二人を指差して子供じみた怒号を飛ばす。
「あなた、本当になんですの……? あの一瞬で、結界と攻撃を同時に!? それに、さっきの羽……あなたたちなんなのよッ、ありえない、反則よッ!」
「うーん、反則って言われても……。お前さ、隙が多すぎ。戦いにしちゃ中途半端だし、遊びにしては悪趣味すぎる。瘴気の量だけはハンパねえけど、成長したって感じもしねーんだよな」
剣を地面に突き刺して腕を組むと、メビウスはじぃっと両目を細めてアインを観察する。ふわふわと踊るハニーブロンドの髪。白い肌と宝石のようなスカイブルーの大きな瞳。黒とピンクを基調とした膝丈のドレスに身を包み、フリルで広がった裾から伸びる足はちょうどよい曲線をえがいている。ほんの一瞬ソラの華奢な身体を見やり、なにごとか口の中で呟くとうんうんと勝手に納得して口を開いた。
「……前言撤回。身体は、成長してると思う」
「真面目な顔してなにを言うかと思えばッ! バカにするのもいい加減にして! あたしは、生まれたときからこの姿よ――ッ!!」
「へえ? じゃあ、やっぱり成長してねーんだな? 初めてのお仕事ってのは、生まれて初めてのお仕事、って意味か。なるほど」
「――ッ!!」
口調すら乱して叫んだ言葉がメビウスに誘導されたものだと知り、アインはぎりっと奥歯を噛みしめる。大鎌を握る右手が、金属でできている柄を握りつぶしてしまいそうなほどちからがはいり、小刻みに震えていた。
気に入らない。
再生する腕を持つソラも、なにより突然圧倒的なちからを発揮したメビウスも。
出し惜しみされてたっていうの……?
このあたしを相手に、余裕だったってわけ?
下を向いて黙り込んだアインに、メビウスは苦笑を浮かべて声をかけた。
「さっきも言ったけど、ホントに手加減できねーんだ。こんな街中でやりあうこともねーだろ。だから、今回は引いてほしい」
「……ふざけないでもらえます? あたしのプライドをズタズタにしておいて――手加減できないなら、こちらも手加減なしでいくだけですわ」
生気の抜けた瞳で呟くと、ふっとその場からアインの姿がかき消える。メビウスですら一瞬姿を見失った美少女の姿は、ほんの瞬きの時間ではるか上空、時計塔のてっぺんに備えられている鐘と同じ高さにあった。
「オルトロス! 封印を解くわ。思う存分遊んでやりなさい」
ぱりん、とガラスが割れたような音がした。音のほうへ視線を向けると、オルトロスの首のまわりにうっすらと透明の首輪だったようなものの破片が浮かんでいる。魔力で作られていただろうそれは、すぐに空気に溶けてなくなった。
ソラに予想外の反撃をくらい、頭一つへしゃげていた巨大な猫であるが、どうやらまだ本気ではなかったらしい。首輪を外された手負いの魔獣は、獅子サイズからさらに一回り大きくなっている。潰された頭は完全ではないが首を持ち上げ、対の口からは銀に輝く太く長い犬歯が飛び出している。
「ありゃ。あっちの猫にもまだ余力があったか」
そちらへ向き直ろうとするメビウスをそっと押しとどめ、ソラはくるりと少年に背を向ける。
「わたしは空を飛べない。あっちは、わたしが頑張る」
後ろを向いたまま、淡々とソラは言う。ソラが振り返らないから、メビウスもまた、振り返らない。背中を向けた時点でソラの覚悟は決まっている。ならば、振り返ってまで声をかけることはない。相手に隙を見せることはない。
だから、背中に感じる体温越しに答えるだけだ。
「そっか。あれは、ソラちゃんに任せる」
はるか上空のアインを真っ直ぐに射抜き、メビウスはへらりと笑った。




