19・嵐が過ぎて
「――ッ!」
刹那、寒気を覚える瘴気が身体を通りこしていく。ちらりと集まっている魔族たちを見たものの、メビウスの優先順位は常にソラが上だ。足を止めるどころかさらに加速し、落下する少女へと駆ける。
「ソラちゃん!」
大きく両手を広げ、飛んできた少女を受け止めた。懸命にふんばろうとするが、血を失いすぎた身体には思うようにちからが入らず、草むらの中に二人仲良く倒れ込んでしまう。それでも、少女が背に回ることを許さなかったのは、彼の意地だ。
「……大丈夫?」
「大丈夫」
倒れたまま肩越しに頷いて、ソラは両手を地面につけて身体を起こした。空を映した銀色が、さらりと背中からこぼれ落ち、仰向けに倒れたままのメビウスの頬を掠める。くすぐったくて、思わず目を閉じたメビウスだったが、少女の気配が一向に離れないのが気になりそっとまぶたを持ち上げた。
「――!」
深い夜空が視界いっぱいに広がり、知らず心臓が飛び跳ねた。両手で上半身を持ち上げた姿勢のまま、ソラが彼の顔を見つめていたのである。見慣れたはずの、表情の控えめな彼女の顔は、心ここに在らずのようであって複雑な、メビウスがいままで一度も見たことがない表情を浮かべていた。
天使の儚さではない。
とても人間らしい――彼の記憶にはない、生きている表情。
ただ美しいだけではなく、そこに確かに命を感じて。
「……なんか、ついてる?」
見惚れてしまって、へらっとはぐらかした言葉に、ソラは我に返ったようだった。びくっと肩を震わすと、慌てて少年の上からどける。遠ざかる夜空と、さらさらと流れる真昼の空をぼんやりと見上げながら、なんで喋っちゃったし、とほんの少し後悔に駆られたりした。
「…………」
大の字に寝ころんだまま微苦笑を浮かべるメビウスを、ソラが不思議そうに眺める。普段なら、一緒に起き上がって、なんなら抱き着いてきてもおかしくない勢いだからだ。そんな彼女の視線に気がついて、メビウスはぽりぽりと頬を掻きながらぽつりと言った。
「あー……。ちょっとね、起き上がれそうにない」
情けねーだろ、と瞳を細めるメビウスに、ソラはふるふると首を振る。言葉の代わりに、少年の腕に手をあてるとすっとまぶたを閉じた。手の甲に青い魔法陣が浮かび、メビウスの傷がゆっくりと再生していく。
「ごめんなさい。失ったものは、元に戻せない」
「謝る必要なんかねーって。サンキュな、ソラちゃん」
だが、感謝の言葉はどこか上の空だ。彼の中では、いまだ屍竜の独白が、心に焼き付いていたのだろう様々な景色が、ぐるぐると回っている。
心ここに非ずな様子を感じたのだろう。少女は少年の横に座り込むと、屍竜が消えた方向を見ながら静かに問う。
「一体、なにを話したの?」
「……なんとなく、ソラちゃんにはわかってるような気がしてた」
ゆるりと笑って、ぼんやりと遠くを見た。なにを、話したのだろう。否、なにも話してはいない。あれは、一方的に話していただけだ。ひとりごとを聞いていた――というより、聞いてしまった、のほうが正しいかもしれない。本当は、自分が聞くべき話ではなかった。
――オレが、ブリュンヒルデを持っているから。
本の遺跡に残された神族たちもそうだった。メビウスの姿ではなく、背負ったブリュンヒルデのちからを彼に重ねていた。
――オレは、生きてここにいるってのに。
知らず、ため息が口をついていた。
なんだか、とても疲れた気がする。もちろん疲れ果ててはいるのだけれど、屍竜の正体を垣間見たことによって余計心に負担がかかったのだろう。
ぼんやりとしたままのメビウスを見やり、ソラもふと同じ方向へ顔を向ける。
「あの子が、なにか話してるのはわかった。でも、なにを話してるのかまでは聞こえなかった」
「……うん」
「でもきっと、吐き出せて少しは楽になったんだと思う。だから、なにもせずに還ったの」
「……うん。そっか、少しでも楽になったなら、こっちに呼ばれたことも悪いだけじゃなかったのかもな」
「あの子の魂は、強い記憶を持ち続けているのね。だから、天にのぼれない。仮初の身体を得ても、世界からは拒絶される。まっさらにならないと、魂は廻れないの」
「……そっか。だから、身体が崩れてたのか」
ソラが言っていることは、正直よくわからない。ただ、彼女は最初から――最果てで出会い直したときから、命は、魂は廻ると口にしていた。だからきっとそうなのだろう、とそれだけの理由でメビウスにはじゅうぶんなのだ。
そっか、ともう一度呟いて、メビウスは小さく笑みを浮かべた。
「お取込み中失礼します。坊ちゃん、ジェネラルとは一体どういう関係ですか?」
ソラの上から影が差し込み、威圧的な声が降ってきた。その声音から察したのだろう。ソラはさっと立ち上がると、メビウスの視界から消えてしまう。確認するまでもなく声の主はウィルであるが、逆光で眼鏡に影が落ちているため、その表情はよく見えない。が、この声のトーンからすれば、怒っていることは明白だ。ウィルの立場から見れば、当たり前である。
さて、どーしたもんかね、とメビウスは仰向けに転がったまま考えを巡らせる。ジェネラルとの密約は、彼が勝手に結んだものであり、それも単なる口約束だ。どうやらジェネラルにとっても今のところは都合が良いからと誘いに乗ってくれたようだが、いつ破棄されるかはわからない。実のところ、メビウスは最後までジェネラルとの関係は隠しておければ良い、と思っていたのである。
「……坊ちゃん。もう一度聞きますよ? あの、ソラさんを狙っている魔族とは、いったいいつから助け合うほど仲良くなったんですか?」
あからさまに険のこもった口調で、ウィルが問う。
「嫌な言い方すんなよな。ただ、あいつにとっても外のいきものは邪魔だった。それだけじゃねえか?」
「そうかもしれません。しかし、いまこの状況で、なにもしてこないのはなぜでしょうね?」
「さあ? 感動の再会で、涙が止まんねーんじゃねえの?」
「坊ちゃん」
声音が一気に冷えた。メビウスはくらくらする頭を押さえながら、ゆっくりと上半身を起こそうとしたが、上も下もわからぬめまいが酷くなるだけだったのでやめた。なんどか深呼吸をして気持ち悪さを押しとどめ、真剣な表情でぽつりと言う。
「お前の考えてるとおり、オレはあいつと個人的な約束をかわしてる。だから、いまあいつがソラちゃんを狙うことも、オレたちを殺すこともねえ。あいつにその意思がねえんなら、こっちから仕掛ける必要もない。それだけだ」
「……具体的な内容は、僕にも言えないような内容ですか」
ふと、視線が逸れたのを感じ、メビウスは頭を押さえていた手を離した。どうやら、魔族たちのほうを見ているらしい青年を見上げ、小さく詫びる。
「少なくとも、いまは言えねえ。誰がどこで聞いてるか、わかんねーからな」
「……まったく。あのバースって男といい、ジェネラルといい。坊ちゃんは、人たらしが過ぎるんですよ。しかもそれを自覚して振り回すから、余計にたちが悪い」
「お前は警戒し過ぎだっての。少しは色眼鏡を外してみるのも、いーもんだぜ?」
にしっといたずらっぽく笑ったメビウスを見、ウィルはわざとらしいため息をついた。すっと少年の横にしゃがみ込むと、手を差し出す。
「ところで、そろそろ起きてくれませんか。首が痛くてしょうがありません」
「おっ。助かる」
後半は聞かなかったことにして、メビウスはウィルの手につかまった。引っ張り上げられるようにして起き上がると、ふらつく身体を支えるように青年の肩に手を回す。身長差のお陰で、中途半端にかがむ格好になってしまい、これはこれで腰にくるかもしれません、とウィルはぼやく。
そんな彼に、ひとつだけ言えることあったわ、とメビウスは耳元で素早く呟いた。
「いまのオレじゃあ、あいつには勝てねえ」
はっとして、少年の顔を見る。低い声音と違い、メビウスは少し情けない笑みを浮かべて、ウィルの肩に身体を預けていた。
「あいつと戦った時のこと、覚えてんだろ。オレは、なにができた?」
ちらっと動かした視線に射抜かれて、ウィルは一瞬動揺した。顔に出したつもりはないが、メビウスには伝わったのだろう。少年はふっと、太陽の色をした双眸を脇に逸らした。
「あの時は、ソラちゃんを守るのが最優先だったから、結果としてはオーケーさ。だけど、オレは時間を稼ぐのすら精一杯だった。あいつがなんで退いたのかも、意識飛ばしてたから知らねえしな」
メビウスらしくもない、自虐的な口調。肩に回した腕に、ちからが入るのを感じる。口にしなくとも、ウィルの動揺を肯定しているのが肩にかかる重さでわかってしまう。
確かに、ソラを奪還するのが最優先だった。だから、結果としてはオーケーなのだ。反対に言えば、結果しか残っていない、とメビウスは思っているのである。
「……まあ。結果良ければなんとやら、です。あまり仲良くするのはどうかと思いますが、戦わずに済むならそれにこしたことはありませんしね」
「馴れ合いはしねーってさ。外のいきものについては、あいつも都合が悪いらしいぜ」
「なるほど。利害の一致、ということですか」
「そゆこと」
一致する間は、襲ってはこねえよ、とメビウスは言いながらも、腑に落ちない顔をしている。
……手を貸してくれたのは、予想外だったな。
彼にとっても都合が悪いとはいえ。こちらとの繋がりがバレるのも、やはり都合が悪いだろう。単純に天秤にかけた結果かもしれないが、ウィルやソラがいるというのにあの男にしては少し軽率な行動だったように思う。
最初は、なるべく衝突を避けたい、という危機回避のつもりだった。ソラを守るうえで、かなわないとわかっている相手と極力戦わない選択肢を選べるならばそうしたい。そんな可能性に賭けて単独交渉に及び、彼は賭けに勝った。
しかし、あくまで『条件がととのうまでソラに手を出さないこと』が彼らの密約の内容であり、けして助け合う関係にはならないというのは、先ほどウィルに言った通りである。
「……んで、さ」
「……ええ」
ちら、と見上げたメビウスに、ウィルも小さくうなずいた。一瞬の意思確認のあと、ふたりが動いたのは同時。
メビウスがウィルを突き飛ばすようにして飛び退り、ウィルも押し出されるように彼のちからも利用して大きく跳んだ。
瞬間、ふたりが今まで立っていた場所に鈍くきらめく銀色の針が降ってくる。形状は針だが、その大きさはまるで槍だ。ドドドドドッと轟音とともに着弾したそれらは、もうもうと土煙をあげて壁のようにそびえ立つ。
「やあやあ。とても、素晴らしいものを見せて頂きました」
予想していたその声は、予想外に近いところから聞こえたのだった。