8・魔族の事情
スフィルたちが世話になっているという村長宅へ向かいながら、ソラはまた村の中を観察して歩く。先ほどくだってきた道より一本奥の道を今度はのぼりながら、あまり変わり映えのしない家や、それほど見かけない緑を眺め、いつの間にかしんがりになっていた。
「気になるもの、あった?」
ソラに合わせてゆっくりと歩いていたのだろう。目の前で揺れる三つ編みを振り回さないように手をかけ、メビウスが振り返る。そうして、彼はさらに速度を落とし、ソラと肩を並べた。
「この村、変わってる。建物も、地面も、風の香りも」
言いながら足もとに視線を落とし、ソラは軽く地面を蹴った。華奢な少女の足で加えられた程度のちからで、蹴られた場所はぼろぼろと簡単に崩れ落ちる。村の中はそんな道ばかりで、少し歩きにくいのだ。彼女の言葉と行動を見て、メビウスはすぐに合点がいった。
「なるほど。そっか、ソラちゃん海を知らないのか」
「……海?」
「うん。ま、すぐわかるよ」
へらっと楽しそうに笑みを浮かべた少年を、訝し気に見やる。その視線に気付き、メビウスは言葉を付け加えた。
「オレが説明するより、直接見たほうが早いな」
「見る……?」
「ああ。きっとびっくりするぜ」
言いながら、ソラの反応を想像しているのだろう。少年はくつくつと笑いながら、肩を震わせる。
そのまま、坂をのぼり切るまで言葉を交わすことはなかった。一足先にのぼった少年が、ソラに向かって手を差し出す。彼の手を取ると、予想外のちからでぐいっと引っ張り上げられ、少女は一瞬のことに目を白黒させる。
「ほら、ソラちゃん」
「……ッ!」
メビウスに言われるまま振り向いて――ソラは思わず息を呑んだ。圧倒的な青が、目の前に広がっている。空の青と水の青が、遥か彼方で溶けあっていた。太陽の光を反射してきらめき、風に吹かれたさざ波は砂浜に白い泡を残して儚く消える。
美しくも力強く、限りないほどに満ち満ちた水。
「……これが、海?」
「ああ。壮観だろ?」
柔らかく微笑んで、傍らのソラをそっと見やる。ソラは大きな目をさらに見開いて、食い入るように海を見つめていた。その瞳は、少しだけ揺れている。
「この水は、たくさんの魂を……」
「……?」
呟くソラの声が聞こえたが、後半はなんと言っているのか聞き取れなかった。聞き返そうとしたが、背後からガラの悪い魔族の少女の声が遠慮なく割り込む。
「おせーぞてめーら。海なんて逃げねーぞ」
「ふむ。初めてここにきたとき、すっげえええええ水たまり! 飲み干してええええええッ! とか言っていたのは誰だったかな」
「言ってねえッ!」
狼の、声はまったく違うのに話しかたのクセが似すぎているいかんとも言いがたい物真似に全力で突っ込み、肩を怒らせてさっさと家の中へ入っていく。そんな一連の言動に、メビウスとウィルは「まだまだですなあ」などと同じ感想を持ちながら、村一番の高台に建つ村長宅へと足を向けたのだった。
村長は四十歳半ばの、温和そうな男だった。おおまかな事情はファルコンが説明済みのようだが、訪ねてきたのがまだ若い――ウィルを除けば成人ギリギリの少年少女だとは思っていなかったらしい。最後に足を踏み入れたメビウスとソラを見て、一瞬目をしばたかせる。さらに、ウィルが魔獣組合の用事だと言ってのけると、今度ははっきりと驚きの声をあげた。
「魔獣組合がとうとうこの国にも……! 最近は辺りにも魔獣が出るようになりましたし、そうか、いや、そうですか」
「あ、やっぱ魔獣増えてたんだな。けど、スフィルたちが狩ってたから、被害は出ずに過ごせてたってことで、合ってる?」
「え、ええ。概ね合っていますが……?」
てっきりウィルが代表だと思っていたのだろう。ざっくばらんに口を挟んだメビウスに、困惑した口調で返しながら、村長の視線は三人の間を行ったり来たりした。視線に気付きつつも、彼にとってそんなことは日常茶飯事である。にしっと口角をあげて「だってさ」とウィルに笑いかける。
ウィルは村長に丁寧に頭を下げると、お礼の言葉を述べた。続けて、別の――彼らにとってはこちらが本命だ――話題を切りだす。
「それでは、こちらはお願いです。スフィルたちは、こちらでお世話になっているそうですね。彼女たちにも話を聞きたいので、お部屋をお借りしてもよろしいですか?」
「彼女たちに貸している客間で構わなければ、よろしいですよ」
「ええ、もちろん構いません。魔族に関しては、魔獣組合でも慎重に扱いたい情報ですので、なるべく人の少ないところで話をしたかったのですよ。宿屋では、少し心もとないですからね。本当に、助かります」
穏やかな口調だが、だからこそ台詞に込められた真の意味は伝わる。つまり、「もしなにかが聞こえても聞こえなかったことにしろ」とウィルは暗に言っているのだ。
「では、案内しよう」
ファルコンがくいっと首を動かす。足を踏み出しかけ、ウィルはもう一度にこやかに口を開いた。
「そうでした。魔獣組合は誰も拒みません。魔獣による被害や討伐の依頼、なにかしらの情報提供及び情報が欲しいときなど、いつでもお訪ねください」
村長宅、一人と一匹のために用意された客間。四人と一匹がはいると少々狭く感じる部屋のベッドにスフィルが座り、ファルコンはその足もとに寝そべる。ウィルは小さな机の前に座ると、紙とペンを取り出してメモの用意を取った。スフィルたちと向かい合う扉に近い位置で壁に背を預けながら、メビウスは早速切り出した。
「さて、と。それじゃ、そろそろ本題な。お前ら、いつ頃人間界に出てきた?」
「あ? 少し前、一気に隙間が開いたことがあったろ。あんときちょーど目の前に、おれらでもなんとかすれば抜け出せそうな隙間が目の前に開いたんだ。それでな」
やっぱりか、とメビウスは胸中でのみ呟く。スフィルとファルコンはいまのところ、人間とも友好的にやっている。だがそれは、最初の出会いがもたらした偶然であり、もし違う形で人間と出会っていたらココット一つぐらいは滅ぼされていたかもしれない。
初対面で、ソラに向けて放たれた強烈な一撃。
解放の光を無効化した、ファルコンのちから。
それぞれほんの片鱗しか見てはいないが、どちらも敵に回せば脅威になることは間違いない。もしかしたら起きていたかもしれない最悪の事態を思い浮かべ、メビウスは時計塔での行動を改めて振り返る。あのときの判断に後悔はない。後悔はないがこれからの戒めとして、自分の判断はときに最悪の事態を引き起こしかねないのだと胸に刻み込む。
刻み込んだうえで、あえて問う。
「人間を襲おうと考えたことはなかったのか? 人間界じゃお前ら魔族は恐怖の対象だぜ?」
「なんで襲う必要あんのさ。大体隙間潜るのにいくらかちからを置いてこなきゃならなかったから、とにかく腹減ってたんだよ。人間なんか食ったことねえし、襲ってなんもメリットなんかねえだろ」
「メリットなどと言っているが、スフィルは魔獣を倒してすぐ空腹で目を回したのだ。その魔獣に襲われかけていた子供たちなど、そもそも目にはいっていない。偶然その子供たちがこの村の兄妹で、我が駆け付けたときにはスフィルに縋って泣いていた。魔獣と相討ちになったと勘違いしてな」
「ふーん。で、なんでファルコンは一緒じゃなかったんだよ」
「こいつは基本的に怠惰だからな。瘴気が薄いなかで動きたくねーからって、隙間の近くから動かなかっただけだよ」
目が回るほど腹が減っていたことを、さらっと暴露された仕返しだろう。わざとらしくため息をつきながら、スフィルがじとりと狼を半眼で見やる。しかし、ファルコンは彼女の言動など意にも介さず、堂々と「そうだ」とのたまった。
「万全とは程遠い状態で、瘴気も薄く動きにくい。少しでもこちらの空気に慣れておかねば、咄嗟の事態に反応できまい。なにも知らぬ場所ですぐに動くなど、愚の骨頂だ」
「一理ありますね」
「確かに」
しれっと言ってのける狼と、ふむと納得する二人。ファルコンが本当に面倒くさがりであることを一人知る魔族の少女は、もっともらしい台詞にちっと舌打ちをする。が、口で勝てない相手であることも重々承知しているので、それ以上追いすがることもなかった。
「なるほど。で、子供たちを村まで送ってきたわけだ。子供たちの恩人だし歓迎されるのもわかるが、よく魔族だって明かしたな」
もっともな疑問に、ファルコンが少し苦々しく答える。
「我は黙っておこうと思っていたのだ。しかし、我が話すわけにはいかぬ。普通の狼は、話さぬだろう?」
「……悪かったな。寝ぼけてて」
ぼそっと口を挟んだスフィル。視線が集まっているのを感じ、気まずそうに話しだす。
「おれはな、知らなかったんだよ。魔族と人間がケンカしてたのなんか遠い昔だろ? 子供は懐いてくるし、そんなもんだと思っちまったんだ」
ぷいっと横を向いて、彼女にしては歯切れが悪い。ベッドの上に、ショートパンツから覗く健康的な足を引き上げると、身体を丸めるようにあぐらを組んで小さくなる。
メビウスはへらっと笑って、彼女の言葉を肯定した。
「ま、結果的には良かったんじゃね? 確かにケンカしてたのは大昔だしな。いま持ち込む話でもねーし、お前らもケンカする気はねーんだろ」
「まあ……な。結局飯まで食わせてもらって、ケンカする理由もねえよ」
スフィルが口にするのはごく当たり前の理由で、メビウスと交わしているのはごく当たり前の会話だ。ウィルは、どことなく落ち着かない気持ちで聞いている自分に気がついている。あまりに、当たり前すぎてついていけないのだというのもまた、わかっている。スフィルたちと会ってからというもの、何度も覚えた奇妙な感覚だった。
スフィルもファルコンも。
その思考は、人間と変わらない。変わらなさ過ぎて、自分の中の常識ががらがらと音を立てて崩れていくような気がする。
人間と変わらない魔族もいるのだから。
魔族と変わらない思考を持つ人間もまた、いるのだろう。
ぐっと、ペンを持つ手にちからがはいる。そんな青年のちからを抜いたのは、魔族と普通に会話している少年の、普段と変わらぬ声音だった。
「で? 結局、なんでお前らはここに居着いてるわけ。理由なくこっちにきたって感じには、見えねーんだが」
「別に、居着いてるわけじゃねーよ。ただ……」
「ただ?」
先を促すも、スフィルは話しにくそうに口をつぐむと、下を向いてしまった。豪快な印象のある赤毛の少女からはあまり想像できない行動で、メビウスたちは顔を見合わせる。
「……そんなに話しにくいなら、いま話せることだけでも構わねーぜ?」
しばしの沈黙のあと。メビウスの提案に答えたのは、少女の傍らに伏せる黒い狼だった。
「この先は、我が話そう。なに、気にすることはない。スフィルはな」
「うっせーよファルコン。言ったら殺す」
「あなたは、ここが好き。だから、離れたくない」
「言ったら殺すって……あ?」
勢いで啖呵を切ったが、淡々と自身の心境を語ったのが空色の少女であることに気がつき、スフィルは言葉を飲み込んだ。食い気味に返してしまったことにより、自分で認めてしまった格好である。メビウスがにこにこと、ウィルが呆れた瞳で見つめていたが、彼女の心境を言い当てたソラはまったくの無表情だ。
星のない夜空のような瞳を見、一瞬、寒気にも似たなにかが背中を駆けあがる。
「……てめえ、ホントになんなんだよ。薄気味悪ぃな」
「お前の目は節穴か! ソラちゃんはどこを取っても可愛いだろ!」
「はいはい、そこまで。いまはファルコンの話を聞く時間です。聞き終わったら、存分にやりあってください」
不毛な言い争いになるまえにウィルがパンと手を鳴らしていなし、ファルコンに目配せをする。ウィルに思うところがあろうと、もう彼との連携は阿吽の呼吸だ。狼は似た者同士の二人に圧を放って黙らせると、口を開く。
「我らは、人を捜している。我らよりも先に、隙間を強引に潜った魔族がいてな。我らが気配も隠さず魔獣を狩っているのは、彼が気付くかもしれないと思ってのこともあるのだ」
そーなの? と目で訴えてきたスフィルはとりあえず無視し、ファルコンは続きを紡ぐ。
「彼は現在、魔界を統率していると言ってもいい。魔界の現状に危機感を抱き、これ以上なにもせずにいることはできず、ちからを仲間に託して隙間を潜ったのだ。我らがこちらにきたのは、そのちからを託された御方が命の危機に晒されているからだ」
「……坊ちゃん」
一瞬の静寂のあと、ウィルが視線をよこす。「ああ」とひとりごとのように呟いて、メビウスはファルコンとスフィルを交互に見やった。
「多分な、オレたちその魔族を知ってるぜ。アホみたいに強い、クソ真面目なおっさん、だろ?」
語尾を上げたのは、単なる確認だ。狼が無言で頷くのを見、メビウスは天を仰いで苦笑を浮かべた。ちらりと、壁に寄り掛かりながらぼんやりと窓の外を眺めているソラを見る。
――あいつの、ねえ。
一体、どういう関係なんだか。
訊ねたいのはやまやまだったが、いまその話を持ち出せば話がややこしくなってしまう。ふっと息を吐き出して気持ちを落ち着かせると、メビウスは噴火しやすい少女に助言をする。
「スフィル。ソラちゃんについてはあとで話す。捜してるおっさんに殺されたくなかったら、ちょっかいを出すのはやめたほうがいいぜ」